フェーズ2:第10話 こどもの日、背伸びは一回だけ
中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。
どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。
返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。
共通しているのはひとつだけ。
“追伸だけは必ず。”
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こどもの日の前後だけ、掲示板の高さが少し下がる。
いつもの連絡は目線の位置にある。
提出物、時間割変更、活動予定、面談の日程。学校の紙はだいたい、大きい人が立ったまま読む高さに貼られている。
でも五月に入ると、そこに少しだけ低い紙が混ざる。
幼の子たちが作った鯉のぼりの切り絵。
折り紙の兜。
青いクレヨンで描いた空。
まだ字より絵の方が先に届く人のための紙。
そういうのが下の方に並ぶと、廊下の空気も少しだけしゃがむ。
応援ポストは、その低い飾りの端にかからないよう、掲示板の右端に置かれていた。
前に残した紙一枚ぶんの余白も、今日はちゃんと生きている。
そこに立つと、上は予定表、下は鯉のぼり。大きい予定と小さい飾りに挟まれて、五月はだいたい少し変な感じになる。
「今日の板、低いね」
横から札の子が言った。
今日はもう腕章も札束もない。なのに、こういう時だけ人の流れと紙の位置をちゃんと見ている。
「こどもの日だから」
「そうなんだけど、毎年ちょっと不思議」
「なにが」
「“子ども”の札が急に増える感じ」
それは分かる気がした。
五月五日って、幼の子たちには分かりやすい。兜、鯉のぼり、柏餅。紙にも残るし、家でも出てくる。
でも中高生になると、急に手触りが変わる。
自分はもう“そっち側”じゃない気がする。なのに家へ帰れば、下のきょうだいの相手や、ちょっとした手伝いや、「お兄ちゃんなんだから」「お姉ちゃんなんだから」みたいな空気だけは、むしろ増えたりする。
そういう半端さが、今日の困りごとにはよく混ざる。
私は箱の蓋を開けた。
白い紙が一枚。折り目は三つ。きれいに畳もうとした跡があるのに、字の出だしだけ少し強い。
【HELP】
こどもの日が苦手です。
下のきょうだいがいるので、家ではそっちが主役みたいになります。
別に嫌いじゃないけど、こっちも予定があります。
でも「私はもう子どもじゃないし」と思うと、言いにくくなります。
今日、新入生に「こういう日って、自分は何を優先すればいいですか」と聞かれて答えられませんでした。
背伸びするなら、何を一回だけにすればいいですか。
(高2)
追伸:大丈夫って先に言うと、そのあと全部引き受ける人みたいになります。
「来たね」
札の子が肩越しに読んで、少しだけ目を細めた。
「今日のやつ」
「今日のやつだね」
こどもの日の困りごとは、たぶん“子ども扱いされる”ことだけじゃない。
むしろ逆で、もう子どもじゃないふりをしなきゃいけない感じの方が重い。
我慢する側。譲る側。手伝う側。
そういう役だけ先に回ってくると、自分の予定を出すことが急にわがままっぽく見える。
掲示板の下の鯉のぼりが、エアコンの風で少し揺れた。
紙なのに泳いでるみたいだな、と思ったところで、札の子がぽつりと言う。
「こどもの日って、下の子のイベントみたいに見えるけどさ」
「うん」
「上の子ほど、妙な背伸びするよね」
その言い方がいやに正確で、私はちょっとだけ笑った。
「去年のあなた?」
「去年の私」
「何したの」
「“大丈夫だよ”って三回言って、予定が全部溶けた」
「それは……」
「教材として優秀でしょ」
出た。去年の私シリーズ。
でも今日は、たしかに教材としてちょうどいい気がした。
最初の返事は、昼休みの終わりに来た。
小さめの字。角ばっていて、必要なことだけ置いていく字だった。
【返事】
高2へ
背伸びは、
「全部引き受けること」ではなく
「自分で範囲を言うこと」だと思います。
こどもの日みたいに家の予定が先に動く日は、
先に自分の“核”を一個だけ決めておく方が楽です。
ワーク一冊のここまで、午前の一時間、友達への連絡だけ、など。
その核を置いてから、
手伝えることを一つだけ足す。
順番が逆だと、全部流れます。
(高3)
追伸:背伸びは一回だけで足ります。二回目からは、ただの無理です。
「それだ」
私は思わず言った。
「二回目からは無理、いい」
札の子もすぐ頷く。
「最初に“大丈夫”を二回言うと終わる」
「去年のあなたの話?」
「去年の私の話」
本人があまりにも即答するので、少しだけ笑う。
でもたしかにそうだ。背伸びって、大きいことをやることじゃない。先に自分の核を置いてから、一回だけ広げること。その順番がないと、たぶん全部がぼやける。
二枚目の返事は、丸い字だった。行間が広くて、読んでいるこっちの肩が少し下がる。
【返事】
家で下の子が主役になる日は、
「時間」で区切ると通りやすいです。
午前だけ遊ぶ。
買い物だけ付き合う。
写真の時だけ一緒にいる。
一日まるごと“お手伝い側”になろうとすると、こっちの予定が消えます。
子どもの日は優先順位より、長さを決める方が使いやすいです。
(大1)
追伸:やさしさは量より、終わりが見える方が続きます。
「長さか」
札の子が言う。
「全部やるか、断るか、の二択にしない方がいいんだ」
「うん。午前だけ、とか写真だけ、とか」
「それなら言えるかも」
たぶん、そういう日のお願いは“内容”より“長さ”の方が受け取られやすい。
どこまでならできるか。それが見えているだけで、家の中の空気は少し変わる。
三枚目は短かった。
【返事】
「大丈夫」を先に言わない。
先に
「これ終わったら手伝う」
「ここまでは無理」
を言う。
こどもの日は善意の追加注文が増えます。
(中3)
追伸:背伸びするなら、返事の前に境界です。
「つよ」
私と札の子が同時に言った。
善意の追加注文。
その言い方が、ひどいくらい正確だった。
悪気はない。家族もたぶん悪くない。だけど、善意の上に“ついでにこれも”が乗ると、人の予定はあっという間に薄くなる。
四枚目は少し遅れて来た。
字は小さいけれど、終わりだけやわらかい。
【返事】
新入生に聞かれたなら、
「こどもの日でも、自分が子どもじゃなくなるわけじゃない」
と伝えていいと思います。
下の子を優先する場面があっても、
自分の予定や機嫌まで無くす必要はないです。
少し譲るのと、全部譲るのは違います。
(高3)
追伸:上の子は、消える役じゃないです。
そこだけ、私は読み返した。
上の子は、消える役じゃないです。
妙に胸に引っかかる言い方だった。
今日は子どもの日の話なのに、助かるのはだいたいそういう短い線の方だ。
昼休みの終わりが近づいて、廊下の音が少しずつ戻ってくる。
けれど今日は、連休の前みたいに浮くというより、家の方へ重心が寄っている音がした。
給食の話じゃなくて、家の話。
どこへ行く、より、明日どうする。
そういう声が少し増える。
その時、短い負けが来た。
新しい制服の子が二人、掲示板の前で立ち止まっていた。
高一っぽい。一人は兜の切り絵を見て、もう一人は月間予定表の赤い丸を見ている。
「明日、弟の相手しなきゃで」
片方が小さく言った。
「でもワークもやんなきゃだし」
「じゃあ朝やれば」
「朝から親戚来る」
「じゃあ夜?」
「夜はみんなでごはん」
会話が、逃げ場のない廊下の真ん中みたいになっていた。
どこへ振っても誰かがいる。だから余計に動けない。
「行く?」
札の子が小声で言う。
「うん」
私は頷いた。
近づきながら、危うくこう言いそうになった。
ちょっとくらい我慢すれば。
でもそれは、いちばん雑でいちばん使えない。
我慢はもう本人が先にやろうとしている。その上にさらに我慢を乗せても、たぶん何も軽くならない。
「予定って、絶対外せないのある?」
私はそう聞いた。
二人とも少しびっくりした顔でこっちを見た。
「あ、英語のワーク……」
弟の話をしていた方が、手に持っていたプリントをぎゅっと持ち直す。
「あと、昼にちょっと友達と連絡」
「それ、どっちも今日のうちに決められそう?」
聞きながら、私は自分でも少しだけ焦っていた。
順番を作りたい。けど、ここで全部整理しようとすると重くなる。
すると札の子が、横から静かに入る。
「家で手伝うの、内容より長さ決めた方が楽かも」
新しい制服の子が、きょとんとして札の子を見る。
「長さ?」
「うん。午前だけとか、写真の時だけとか」
大1の返事を、現場の言い方に薄くした感じだった。
その子は少し考えたあと、ぽつりと言った。
「弟、公園行きたいって言うんです」
「何時くらい?」
「たぶん昼前」
「じゃあ、その前にワークの核だけ置けそう?」
私は聞いた。
「全部じゃなくて、ここまでやったら今日は大丈夫、の場所」
高3の返事が頭に残っていた。
核を一個。
背伸びは一回だけ。
「……一ページ目と単語だけなら」
その子が小さく言う。
「それなら朝少しでいけるかも」
「いいじゃん」
札の子がすぐ返す。
「で、公園は午前だけとか」
その瞬間、その子の隣にいたもう一人が言った。
「でもさ、“午前だけ”って言いにくくない?」
そこだった。みんなそこが言いにくい。
手伝うかどうかじゃなくて、どこまで手伝うか。
その線を自分で言うのが、急に大人みたいで、でもわがままみたいにも見える。
私は、危うく「言うしかないよ」と片づけそうになった。
でもそれだけだと、勇気の話になってしまう。たぶん今日は勇気の問題じゃない。
返事の前に境界。
中3が置いていった手順が頭を叩く。
「“大丈夫”を先に言わない方が、言いやすいかも」
私はそう言った。
「最初に“午前は一緒に行けるけど、午後はワークやる”って置いちゃう」
すると、新しい制服の子は少しだけ目を上げた。
「先に、ですか」
「うん。先に」
札の子も頷く。
「大丈夫って言ってからだと、あとで削れない」
「それは……分かるかも」
たぶん、ほんとうに分かるのだろう。顔が少しだけゆるむ。
言い返すんじゃない。先に置く。順番の問題だ。
ところが、そこで別の子が横から笑いながら言った。
「子どもの日なんだから、弟優先でしょ」
悪気のない声だった。だから厄介だった。
新しい制服の子の肩が、そこで少しだけ上がる。
ほらやっぱり、という顔をした。
胸の奥が急ぐ。
こういう時、正面から否定すると空気が固くなる。
でも流すと、その一言だけが残る。
私は一瞬だけ迷って、それから掲示板の下の鯉のぼりを指した。
「こどもの日って、下の子だけの日じゃなくない?」
自分でも少し遠回しだと思った。
でも、そのくらいが今日はちょうどよかった。
札の子がすぐ乗る。
「うん。上の子が消える日ではない」
四枚目の返事、そのままだった。
悪気なく言った子が「まあ、それはそうか」と笑う。
笑いに逃がせた。そこまで行ければ十分だ。
新しい制服の子は、今度は少しだけちゃんと息を吐いた。
「じゃあ……朝に一ページと単語やって、昼前だけ弟と公園行って、午後はワーク、って先に言います」
「いいと思う」
私は答える。
「背伸びは一回でいいし」
すると札の子が吹き出した。
「名言みたいに言う」
「今日のタイトルだから」
「勝手にタイトル化しないで」
新しい制服の子たちもそこで笑った。
笑いが入ると、家の話は少しだけ家から離れられる。
「背伸び一回だけ、か」
新しい制服のもう一人が言う。
「二回目からは?」
そこで私は高3の返事を思い出して、そのまま返した。
「ただの無理」
二人とも一瞬きょとんとして、それから同時に笑った。
「それ、分かりやすいです」
「使えそう」
使えそう、まで行けばだいたい勝ちだ。
午後の授業が始まる前、掲示板の前の空気は少しだけ軽くなっていた。
兜の切り絵は相変わらず低いところで揺れている。
上の予定表は相変わらず大きい。
その間で、人は今日も小さい順番を決めていく。
学校って、そういう場所でもある。
箱の中に、THANKSが一枚入っていた。
折り目は最初のHELPと同じ。出だしの強さも少し似ていた。
【THANKS】
こどもの日は、
下のきょうだいに譲るか、自分の予定を守るか、
の二択だと思っていました。
でも今日、新入生に聞かれた時に
「先に自分の核を一個置く」
「手伝うなら長さを決める」
「大丈夫を先に言わない」
で考えたらだいぶ楽でした。
背伸びは一回だけでいい、という言い方も使えました。
全部優先しなくていいし、上の子が消える役じゃない、はかなり助かりました。
(高2)
追伸:こどもの日なのに、自分まで子どもじゃなくなる必要はなかったんですね。
読み終わって、私は掲示板の下の鯉のぼりを見た。
低いところで、紙が少し揺れている。
幼の子たちのための飾りなのに、今日はあれが妙に上まで届いて見えた。
「じゃあ」
札の子が、わざと少し背筋を伸ばして言う。
「背伸びは一回だけ」
「二回目からは?」
私が返す。
「ただの無理」
そこで二人で笑った。
笑いながら、札の子はすぐに肩の力を抜いた。背伸びも、そのくらいでいいのだと思う。
こどもの日って、たぶん小さい子だけの行事じゃない。
自分がどこまで譲れて、どこから先は消えなくていいかを、少しだけ見直す日でもある。
鯉のぼりみたいに大きく泳げなくてもいい。
先に一個、自分の核を置く。
そのあとで一回だけ手を伸ばす。
それなら、休みの日の家も、少しは通り抜けられる。
追伸:背伸びは、無理を増やすことじゃなかった。自分の核を置いたあとで、一回だけ手を伸ばすことでした。
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頑張る人ほど、追伸に救われる。
追伸は週1以上、基本は14時更新




