エピローグ
海へ向かうバスから望む景色は、なんとも味気ない。
視界を遮る物の高さがどんどん低くなり、やがて水田ばかりが目に付くようになる。
ポツリ、ポツリと建つのは背の低い建物ばかり。
海抜0メートルを目指すというのは、つまりそういう事らしい。
一年前と同じように、終点の新舞浜ハイツの前でバスを下り、徒歩でさらに海を目指す。
自転車で行けない距離でもなかったけれど、あえてバスを選んだ。一年前のあの時を、正確にトレースしてみたい気分だった。正確には、あの時の乃愛の気持ちに寄り添ってみたいと感じていた。
松林を抜ければ、太平洋はすぐ目の前だ。
駐車場には一台の赤い軽自動車がポツンと停まっていた。でも持ち主の姿はない。
空までぼんやりとくすんだ冬の海は、荒れて泡立つ波の様子も、吹き付ける風の強さも、全てが一年前と同じだった。
人影の見当たらない見渡す限りの砂浜を目にした途端、ここに来るまでに少しずつせり上がってきた胸の苦みが一気にこみ上げた。
遊歩道へと歩みを進める。選んだのは一番手前の道。牡牛座から始まる四つの星の石碑が並ぶ道だ。
「就職、決まったよ」
「おめでとう。良かったね」
地元では有名な中堅デベロッパーの内定が下りたと伝えに行った時、有希さんはそう言って喜んでくれた。
「こっちは大した会社ないから、正解だと思うよ。陽君にとって一番いい選択だと思う」
複雑な俺の想いを先回りするようにして言う有希さんに、相変わらず胸が締め付けられた。
『フィオーレ』が無くなってから、自分でも思っていた以上に周囲とは疎遠になってしまった。悟さんが念願の自分の店を開いたのも、そこで琴ちゃんが働き始めたのも、俺が知ったのは全部有希さんを通してだった。、『マンマミーア』で一緒に働こうと誘ってくれていたりーも、俺が断って以来連絡は途絶えてしまったままだ。
唯一有希さんとだけは、以前と同じように繋がっている。と言っても時々メッセージをやり取りしたり、数ヵ月に一回、琴ちゃんも呼んで一緒に食事したり。繋がっていると言っても、あまりにも細く、頼りないつながりでしかないけど。
でもきっと、このままでいいのかもしれないと思えるようになった。近づきすぎたり、親しすぎるといつかどこかで途切れてしまったりする。そうなれば、もう二度と元に戻る事は出来なくなってしまう。
俺と有希さんの関係は、このままでいい。どんなに細くても、決して切れない強い関係でありたい。
「たまには遊びに来てね。私はずっとここにいるから」
別れ際、有希さんはそんなさりげない言葉で俺の背中を後押ししてくれた。今となっては何よりの宝物だ。有希さんはずっとここにいる。いつだって俺を拒んだりはせず、受け入れてくれる。だから俺は安心して、この地を離れる事だってできる。
そう決心がついたものの、もう一つだけ、引っかかるものが残っていた。
それが――
一歩一歩歩みを進める中で、牡牛座のオブジェの前に置かれているものが目を惹いた。
色褪せたような景色ばかりが広がる砂浜の中で、そこだけがポツリと、妙に鮮やかに映る。
急速に鼓動が高まり、足が早まる。
オブジェの台座に捧げられるようにして、小さな花束が置かれていた。
「ああ……」
思わず声が漏れる。
その花束の意味がわかるのは、きっと世界中で俺ともう一人だけだ。
やはり乃愛もまた、ここを訪れていたのだ。
ちょうど一年前。失われた命の為に。
あの後、大学の友人を介して必死に乃愛を探したものの、数日後に探り当てた乃愛のアパートは既に引き払った後だった。不審に思って学生課に確認すると、乃愛は休学の手続きを済ませていた。自主退学ではない事に少なからず安堵を覚えたが、とりあえず親の手前もあって休学処理にしたのかもしれなかった。
学生課にはなんとか連絡先を教えて貰えないかしつこく粘ったものの、今のご時世、教える訳にはいかないと断固として断れてしまった。融通の効かなさに当時ははらわたが煮えくり返る思いだったが、今となれば無茶なお願いだったとかえって恥ずかしさに捉われる。俺が乃愛のストーカーである可能性だってゼロではないのだから、本人の承諾なしに個人情報を開示出来るはずはない。しごく真っ当な対応だ。
何の手がかりを得る事も適わないまま、就職や卒論等の目の前の課題に忙殺されてあっという間に一年が過ぎてしまったが、俺の頭からは乃愛が離れる事はなかった。
もう一度、乃愛に会いたい。もう一度だけでいいから、乃愛に会って話をしたかった。
導かれるように、そっと花束に手を延ばす。花びらは凜と力強く広がっていて、まるでたった今捧げたかのようだった。間違いない。ほんの少し前まで、乃愛はここにいたはずだった。
「陽君」
名前を呼ばれ、弾かれたように振り向く。
乃愛が、いた。
「乃愛。お前、どこに隠れてたんだよ」
「あっち。多分、たまたま、蔭になって……」
乃愛は平行して伸びる遊歩道の先を指差した。星型のオブジェが四つずつ、全部で八つ並んでいる。
一年ぶりに見る乃愛の顔は俺の記憶の中の彼女とほとんど変わっていなくて、信じられない気分だった。乃愛もまた、オバケでも見るような表情で俺を見つめている。
「なんて顔してんだよ」
「そっちこそ」
乃愛は顔を綻ばせた。俺もまた、口元が緩む。
交わしたのはたった二言だったけど、一年間の溝を埋めるには十分だった。
乃愛が何をしに来たのか俺は知っているし、俺がどうしてここにいるのかなんて、説明しなくても乃愛にはわかるはずだ。
「どうやって来たんだ?」
「車。あったでしょ、赤い軽」
「あれ、お前のだったのか。免許取ったの?」
「元々持ってたの。車はお姉ちゃんの借りてきたんだ。乗る?」
「乗るって、どこに?」
「どこにでも。有希さんの所にでも連れてってあげようか?」
乃愛の言葉が、表情が、じんわりと全身に染み込んで、広がっていく。一年前にタイムスリップしたんじゃないかと疑わしく思えるぐらい自然で、懐かしさが溢れ出す。
「だったら悟さんの店にでも行ってみるか。悟さん、自分の店出したんだよ。琴ちゃんもそこで働いてる」
「へぇー、素敵だね。なんていう店?」
「カイ。開くって書いて、かい」
「開? 漢字? ずいぶん和風な名前だね」
「今度こそ花が開くように、だってさ」
俺が言うと、乃愛はほんの少し目を細めた。
『フィオーレ』はイタリア語で花を意味する。
悟さんにとっても『フィオーレ』での日々には思い入れがあるらしい。でもそれは悟さんだけではなく、俺や琴ちゃん、有希さんにとっても一緒だ。乃愛や、きっと久坂マネージャーにとっても。
『フィオーレ』で過ごしたあの日々はもう二度と戻ってくることはないけれど、俺達はまた別の場所で、花を咲かせる事ができるんだろうか。
「乃愛」
「なぁに? 悟さんの店、行くんでしょ? 早くしなよ」
振り向いた彼女に、大声で叫ぶ。
「おかえり!」
乃愛は無言で、穏やかな笑みを返した。
白波立つ海の向こうに、透き通った冬の空がどこまでも続いていた。




