第474話:問題 その2
――幼少の頃の記憶というものは、案外根深いものだ。
人によっては、幼い頃の記憶は全く覚えていないという者もいるだろう。逆に、細かいことでもしっかりと記憶しているという者もいる。
幸せな記憶、辛い記憶、些細な記憶。覚えている基準に差異はあれど、少なくとも、“とある少女”にとって幼い頃の記憶は今でも鮮明に思い出せる。
それは祝福のように、あるいは呪いのように。後々に起こった出来事が衝撃的なほど、比例するように記憶が残る。忘れたいと願っても消えず、汚泥のようにべったりと、記憶の隅に残り続けるのだ。
幼い頃、その少女は幸せだった。
カルデヴァと呼ばれる大陸の中でも中堅と評すべき国家、ポラーシャ。そのとある地方を治める領主の娘として生まれた少女は、市井の民と比べれば遥かに裕福で、その富貴さが保証するように恵まれた生活を送っていた。
愛し合い、娘に優しい両親。少女の父親であり領主でもある男に忠誠を誓い、少女にも優しい多くの家臣団と使用人。美人の母親に似て幼い頃から優れた美貌を持つ少女は領民からも愛され、その将来を嘱望された。
少女にとって毎日が楽しく、明日も明後日も明々後日も輝かしく、明るい未来が訪れるのだと信じで疑わないほどだった。それこそ、不幸という言葉を知ってこそいるものの、自らがそれを味わうことなどないと思えるほどに。
立場上対等の友人と呼べる存在こそいなかったが、自宅である城の中や庭で歳の近い従者を巻き込んで遊ぶ日々。領主の娘ということで礼儀作法も学ばなければならなかったが、上手にこなせれば大好きな母や父が褒めてくれるため頑張れた。
飢えることも寒さに震えることもなく、衣食住に留まらず心すらも満ち足りた生活。それは望んだからといって誰もが手に入れられるものではない。立場という枷こそあれど、庶民の多くが自らもそう在りたいと夢見る程度には幸福な生活である。
少女は、自らが恵まれた環境に在ると気付くことはなかった。生まれた時からそれが“当たり前”で、当然で、気付きようがなかったのだ。
無論、恵まれた立場に生まれたことが悪いというわけではない。
少女はただ、愛すべき両親のもとに生まれたことが誇らしく、毎日が楽しく――どうしようもなく、無垢だっただけだ。
『今でさえそんなに可愛らしいのだもの。あなたは将来美人になるわ』
母は言う。少女が“いつ見ても若く”美人だと思える顔立ちに、幸せそうな笑顔を浮かべながら。
『うむ、お前はきっと美人になるぞ! だが、少し……いや、かなり……嫁に出したくないなぁ。かといって婿を取るのも……』
父は言う。家臣団の前では固く引き締められている表情をだらしなく崩しながら、少女を抱き上げながら。
そんな両親の言葉を、少女は素直に喜んだ。我が子可愛さに褒めている面もあったが、それらの誉め言葉が心底からのものだと幼心に理解していたからだ。
父親の家臣団や従者、領民なども少女の容姿を褒め称えるが、両親のものと比べれば響かない。もちろん、無垢な少女は褒められれば素直に喜んでもいたが。
――つまるところ、少女は両親のことが大好きだったのだ。
少女にとっては大好きな両親こそが世界の全てで、幸福のカタチだった。幼い頃から傍に在り、幸せを感じさせてくれるモノだった。
そんな幸福な生活が終わりを告げたのは、少女が七歳の頃。“少女にとっては”何の前触れもなく、突如として崩壊が訪れた。
父親が信頼し、少女も幾度となく言葉を交わしたことがある騎士が、少女の母親を殺したのである。
それは少女にとって突然の凶行で、何が起きたのかすぐには理解ができなかった。その騎士は間違いなく父親が信頼していたし、騎士もまた、父親に対して忠誠を捧げていたからだ。
後々になって知ったことだったが、騎士が父親に対して忠誠を捧げていたからこそ、その事件が起きたということを少女は理解できなかった。
波打ち際に作られた砂城のようにあっけなく、少女にとっての幸せな日々は崩壊したのだ。
魔物に襲われた、天災に巻き込まれた、戦争に敗れた。そんな悲しみこそすれ納得できる理由だったならば、まだ救いがあっただろう。
しかし、騎士が少女の母親を殺めた理由は救いをもたらすことがない。
少女の母親が亜人――淫魔だと知り、“主君を救うために”刃を向けたのだ。
少女の母親は若く、美しく、不思議な魅力に溢れた女性だった。男性ならば誰もが思わず振り向いてしまいそうになるほど、人間離れした美貌の持ち主だった。
無論、“それだけ”で凶行に及ぶような人物ならば、少女の母親を殺めた男性も騎士に任じられるようなことはなかっただろう。忠義に溢れ、武勇に優れ、優れた人格を持つ、父親の家臣の中でも指折りの人物だった。
“そんな人物”だからこそ凶行に及んだというのは、神の悪戯か運命の皮肉か。
その騎士は少女の母親が若々しく、何年過ぎようと一切歳を取ったように見えない点から疑問を持った。個人差という言葉では片付けられないほどに加齢の跡が見られず、優れた自制心を持つ騎士でさえ主君の妻という立場を理解していても見惚れそうになるほどの美貌。
極め付けは、少女の母親が大きな魔力を持っていたことだろう。魔力自体は少女にも引き継がれているが、少女の母親は並の魔法使いを遥かに上回る魔力を持っていたのだ。
それらの事実から、騎士は少女の母親が人間ではないと看破した。しかしこの時点で凶行に及ぶような真似はせず、少女の父親に問い質すだけに留めている――が、それが悲劇の引き金だった。
少女の父親も後ろめたいものがあったのか、少女の母親が淫魔であることを隠してしまったのだ。そしてそれは、騎士に確信をもたらす。
少女の母親が淫魔であり、己が主君を誑かしているのだ、と。
並外れた美貌と不思議な魅力から、騎士はある程度正体にアタリをつけていた。そして、少女の父親が曖昧にぼかしてしまったせいで、淫魔に操られていると判断してしまったのである。
それこそが悲劇が起きた理由であり、騎士は亜人とはいえ主君の妻を殺めたということで凶行に及んだ直後、自らの喉を短剣で貫いて果てた。
救えないことがあるとすれば、騎士の予測は半分が正解で半分が間違っていたことだろう。そして、自らが自裁した後に少女の父親が正気に戻ると信じていたことだ。
少女の母親が淫魔だという点では正鵠を射ていたというのに、少女の父親が操られていたという点では的を外していた。それに加えて、正気に在った主君を精神的に追い込んでしまった。
――人ならぬ身でありながらも人に恋をした淫魔はその想いが叶い、結ばれ、娘を授かった。
“本当”は、それだけのことだったというのに。
そうして唐突に訪れた少女にとっての悲劇は幕を下ろす――ことはなかった。
少女の身の回りで起きた悲劇は幕を下ろしても、少女自身に降りかかる悲劇は今この時を以て幕を上げたのだ。
心から愛する母親が死に、少女はしばらくの間塞ぎ込むような生活を送る。毎日のように泣き、喚き、疲れ果てては眠るという生活を繰り返す。肉体と精神が徐々に摩耗し、生来の明るさも鳴りを潜めて陰鬱とし始める。
それでも少女の心があと一歩のところで折れなかったのは、父親が傍にいたからだ。そうでなければとっくに心が折れ、絶望していただろう。
“だからこそ”新たな悲劇の引き金を引く羽目になったことを、この時の少女は知らなかった。
少女は自らがどのような存在で、どのような力があるかを知らなかった。そして、それを教え、制御する術を教えられたであろう母親も、既に殺されていた。
少女がもう少し大きくなって、淫魔という存在を理解できるようになってから伝えようと考えていた母親は、もう、この世にはいなかったのだ。
故に、“その不幸”は必然だったのだろう。それまでの幸福をまとめて奪い去るように、積み重ねた幸福が不幸へと転じたように、少女は幸福という崖から奈落へと落ち続ける。
母親の死から数ヶ月が経ち、なんとか精神を持ち直した少女はそれまでと比べれば大人しく、落ち着いた生活を送るようになり――いつの頃からか、周囲から向けられる“視線の色”が変わった。
その理由も向けられる視線の意味も少女にはわからず、ただこれまで通りの生活を送り、それは破綻する。
最初の悲劇は、少女に従者として仕える者達から始まった。幼少の頃から少女に仕えていた少年が、何の前触れもなく突如として少女に襲い掛かり、同じく従者として少女に仕えていた他の少年に殺されたのだ。
取り押さえることもなく、互いに互いを怨敵だとでも認識したような殺し合い。それは周囲へ伝播し、結果として少女に仕えていた者達の多くが男女を問わず命を落とした。
事態を重く見た少女の父親は、少女を自室に軟禁することを選ぶ。だが、分別のつく大人ならばまだしも、子供でしかない少女が軟禁された上で生活を送るにはどうしても人手が必要となった。
続いて起きた悲劇は、少ないながらも少女と接触した人々から始まった。
少女に料理を運ぶ者、少女の自室を掃除する者、少女の願いごとを聞いて少女の父親へ報告する者。その何れもが少女の解放を訴え、激しく暴れ始めたのだ。その暴れぶりは凄まじく、騎士や兵士を投入してようやく鎮圧できたほどである。
事ここに至り、少女の父親は決断を下す。愛する妻との間にできた愛娘ではあるが、自身の能力を制御できない以上このまま放置するわけにもいかない。これ以上被害が広まる前に、その命を絶つしかない、と。
もちろん、その結論に至るまで――正確に言えば少女の母親が殺された直後から、少女の父親は少女の能力を制御できる魔法具や優れた魔法使いを探していた。
淫魔としての能力を制御さえできれば、まだ普通に生きていくことも可能だと。可愛い愛娘を生かすために、使える伝手は全て使い、打てる手段は全て打っていた。
しかし、事態を打開できるような“都合の良いもの”は何も見つからず、少女の父親は領主として決断を下すこととなる。
そしてそれが、少女にとって最後の悲劇の引き金だった。
せめて自らの手で全てを終わらせようと少女の元を訪れた父親は、久しぶりに顔を合わせた愛娘と最後の語らいを望み――『魅了』の力に抗うことに失敗した。
『……おとう、さま?』
少女は困惑する。それまで見たことがないような顔で迫ってくる父親に声をかけても、何の反応もない。“何か”に抵抗するように体が震えているが、久しぶりに会った父親を心配こそすれ、逃げるなど考えることすらなかった。
ゆっくりと、徐々に近づいてくる父親の手。少女はそれを困惑と心配が込められた視線で黙って見つめ、そして――。
「っ……」
少女――レベッカは目を覚ました。そして己の状態を確認し、額に浮かんだ冷や汗を乱雑に拭う。
「起きた? よくこの状態で眠れるものだとクリスは感心する」
背後から聞こえた声に肩越しに振り返った。そして、そこにある顔を確認して小さく息を吐く。
「……なんだ、クリスさんでしたか。驚きましたわ、ええ、驚きましたとも」
「驚いたのはこっち。動きがないと思ったらそのまま眠ってるなんて……操っている翼竜が予定通り飛んでなかったら、すぐさま叩き起こしていた」
そう言われてレベッカは視線を動かし、眼下を見る。そこは空の上であり、正確に言えばレベッカが操る翼竜の背中の上だった。
クリスを連れての空の旅だったが、途中であまりにも暇だったため眠気が襲ってきたことをレベッカは思い出す。
「……夢見が悪かった?」
そして、少しだけ気遣わしげな声色が背中から飛んできたことに、内心で驚きながら振り返った。
「なんの、ことでしょうか?」
「内容はわからなかったけど、少し呻き声が聞こえた……怖い夢でも見た?」
ティナによく似た顔立ちのクリスは、狐面がないためその瞳に心配の色が混ざっていることがすぐにわかった。それに気付いたレベッカは数秒だけ逡巡した後、前を向いて翼竜の首を軽く叩く。
「別に……大したものじゃありませんよ。『傾城』なんて呼ばれることになった、無邪気な子供の夢を見ただけです」
「…………そう」
レベッカの言葉に短く返し、クリスは会話を打ち切った。それ以上聞くべきではないと判断したのである。
その代わりに視線を巡らせ、遠くを見るように目を細めた。
「見えてきた」
「普段から面倒ですが、今回ばかりはいつにも増して面倒ですねぇ……ええ、面倒ですとも。せめてカンナちゃんがいてくれればいいんですが」
そう言いながらレベッカとクリスが視線を向けた先にあったのは、タペリーというハリスト国でも王都と呼ばれる場所だ。
「今回の件は問題だらけで、大司教様に報告するのが面倒ですよ、本当に……」
そんな呟きを空に残しながら、レベッカは翼竜を操ってタペリーへと向かうのだった。




