099 雪解けの岸で交わす約束
返書を出した夜、白霧港の岸は珍しく静かだった。
祭りの日みたいな賑わいはない。
でも、冬のあいだずっと張りつめていた音が解けて、波と氷片の擦れる音だけが長く続いている。
主倉の灯りを消したあと、岸壁へ出ると、カイル様が先に立っていた。
外套の肩に、薄い潮の霧がついている。
少し前までなら、この人と夜に二人で話すこと自体、仕事の相談以外ありえなかった。
今も相談ではある。
でも、仕事だけで説明しきれない何かが確かにここにあった。
「返したか」
「はい」
わたしは頷いた。
「保管官長の任命は受けました」
「そうか」
それだけ言って、彼は海のほうを見る。
怒っているわけじゃない。
次の言葉を急がないだけだ。
「でも」
わたしは続けた。
「王都へ住む形は断りました。白霧港写し卓を同日起点にする条件で返しています」
その横顔が、少しだけ緩んだ。
「だろうと思った」
「驚きませんね」
「おまえが板を閉じるほうを選ぶなら、今までの仕事が嘘になる」
返す言葉に困って、小さく笑う。
この人は時々、必要なことだけで胸の奥まで届く言い方をする。
王都では、もっと分かりやすい言葉をたくさん聞いた。
婚約。縁談。見本。家格。釣り合い。
どれも形としては綺麗だったのに、わたしが守りたいものを一緒には守ってくれなかった。
目の前の人の言葉は不器用なくらい短いのに、
わたしがどこに立ちたいかを、最初から外していない。
岸壁の下で、解け残りの氷が波に当たって砕けた。
春の音だと思う。
「カイル様」
わたしは海を見たまま呼ぶ。
「たぶんこれから、白霧港はもっと忙しくなります。王都より先に板を書かなきゃいけない日も、国じゅうから人が来る日もある」
「そうだろうな」
「わたし、もう追放先だからここにいるわけじゃありません」
自分で言って、少しだけ喉が熱くなった。
「自分でここを選びたいんです」
あの日、王都を追い出されて雪の荷車に乗せられた時は、
この港を選ぶ未来なんて想像もしなかった。
生き延びる場所でしかなかった。
でも今は違う。
ここで働きたい。
ここに残る板を増やしたい。
その気持ちを、ようやく迷わず口にできた。
カイル様はすぐには答えなかった。
少ししてから、氷のない黒い水面へ目を向けたまま言う。
「なら、俺も言っておく」
その声が低く落ちる。
「おまえが白霧港を選ぶなら、俺はその隣で北辺を回す。王都に取らせないためじゃない。おまえと同じ板を守るためにだ」
「同じ板を守る」
わたしはその言葉を小さく繰り返す。
恋の台詞としては、たぶんひどく地味だ。
でも、わたしたちにはこれ以上ないくらい正確だった。
毎日書き換わる板を、同じ責任で見続ける。
それは明日の都合で切れない約束だ。
胸の奥が、静かに強く鳴った。
飾った言葉じゃない。
婚約だとか愛だとか、王都で聞かされた取引の言葉とも違う。
でも、そのどれよりずっと、長く続く約束に聞こえた。
「それは」
わたしは少しだけ息を整える。
「断れないですね」
「断る理由があるなら聞く」
「ありません」
言うと、彼がほんの少しだけ笑った。
たぶん他の人には見逃すくらいの変化だけれど、わたしには分かる。
この人が、ちゃんと嬉しい時の顔だ。
しばらく二人で、解けていく海を見ていた。
手を取るとか、そういうことはしない。
今のわたしたちには、同じ方向を見るだけで充分だった。
でも、充分だと思えること自体が、少し前のわたしにはなかった。
誰かと並ぶことは、利用されるか、置いていかれるかのどちらかだと思っていたから。
今は違う。
隣にいることで、板が増える人もいるのだと知った。
「次の冬も忙しいですよ」
わたしは言う。
「その前に夏と秋がある」
カイル様が返す。
「春を溜めるなら、暇な季節はない」
「ええ」
わたしは笑った。
「だから、ちょうどいいです」
岸壁の先で、春の最初の定期便に使う船腹が灯りを映している。
これから先も、仕事は終わらない。
でももう、終わらないことが怖くなかった。
同じ板を守る人が、隣にいる。
それだけで、次の季節へ進める気がした。




