097 春備え年次帳
三日後、主倉の中庭には新しい卓が据えられた。
帳面台。札切り箱。写し紙置き。
冬の応急仕事ではなく、春から翌冬までを一冊で繋ぐための席だ。
上段の札には、ヨナスさんの癖のある字でこう書かれていた。
『白霧港 春備え年次帳』
「年次、なんて大げさだな」
カイル様が卓を見て言う。
「大げさじゃ困ります」
わたしは帳面の最初の頁を開いた。
「備えは、その場で足したり引いたりするから消されるんです。最初から一年ぶんの欄があれば、消すほうが目立つ」
帳には、物だけではない欄を並べた。
初夏保冷枠。夏乾物。秋搬入余力。冬療養備え。春遅受け先。
その横に、担当名と写し送達先。
足りない時の帳面じゃない。
足りなくなる前に、誰がどこへ書くかを決めておく帳面だ。
頁をめくると、季節ごとの仕切り札が挟まっている。
春は播種と療養。
夏は保冷と乾物。
秋は搬入余力と仕分け庭。
冬は炊き出しと低温庫。
季節ごとに仕事は変わるのに、今までは全部その場の覚えで回していた。
だから人が欠けるたび、去年のやり方が誰かの頭の中ごと消えた。
「夏の欄まで今から書くのか?」
船荷番が不思議そうに覗き込む。
「書きます」
わたしは頁の端を押さえた。
「夏に冷える場所が空いていれば、春の冷え受けをそのまま保冷枠へ移せる。季節をまたぐ欄がないと、毎回『今回は特別』で片づいてしまうでしょう」
ニナが診療所分の頁へ札を差し込む。
「療養包みの布は、春のうちに洗い替えも数えておきます。去年みたいに冬に寄せ集めるのはもう無しで」
「種子庫の灰は、試し床ぶんと広域ぶんを分ける」
わたしも書き足した。
「白霧港の畑を痩せさせてまで外へ回さない。その代わり、余力は先に公開しておく」
周りで聞いていた倉番たちが真剣な顔で頷く。
自分たちの分を削られる不安が、先に板へ書いてあれば、次の話ができる。
その日から、当番表も変わった。
荷受け番、冷え受け番、写し板番。
そして新しく、『控え起こし見習い』の欄ができた。
見習いはニコひとりじゃない。
漁師の娘がひとり、燻製小屋の小僧がひとり、診療所の雑役見習いがひとり。
字のきれいさより、板を読んだ時に「次はどうするか」を考えられるかで選んだ。
豪華な役職じゃない。
でも、この港の未来を分ける席だと思う。
「おれ?」
ニコが自分を指さす。
「あなたです」
わたしは当然みたいに言った。
「読めるだけじゃ足りません。次は、他の人が読める字で残す側になってもらいます」
ニコは少し胸を張ってから、でもすぐに眉を寄せた。
「失敗したら?」
「だから見習いです」
ヨナスさんが横から鼻を鳴らす。
「最初から上手く書ける倉番がどこにいる」
笑いが起きる。
けれど笑われて終わりではなかった。
ニコは本当に卓へ座り、東山対応の写し板を見ながら、年次帳へ最初の控えを書き始める。
『冷え返送先 未使用時は夏保冷枠へ振替』
少し歪んだ字。
でも、ちゃんと次が書いてある。
その時、港の外れから鐘が鳴った。
春最初の小商隊が入る合図だ。
去年なら、ただ人と荷が来るだけで慌ただしくなっていた。
けれど今日は、受ける棚も、見せる帳も、案内する板ももうある。
商隊の先頭にいた年配の商人が、中庭の板を見て足を止めた。
「なんだ、もう夏前の保冷枠まで決めてるのか」
「今のうちに決めないと、夏が来た時には遅いです」
ニコの隣にいた見習いの少女が答える。
「空いてる枠だけ先に見せてます。全部買えるわけじゃありません」
主倉の庭へ戻ってきた船荷番が、目を丸くした。
「なんだこの表は」
「次の冬までの帳です」
ニコが、得意げでもなく、でも逃げずに答えた。
「余ったらどこへ回すかまで、最初から書いてます」
その言い方が少しだけ、わたしに似ていて可笑しかった。
帳面は人がいなければ回らない。
でも逆に言えば、人が増えれば回し続けられる。
わたしひとりが全部決める形を、ここで終わらせる。
前世の倉庫でも、いちばん怖かったのは在庫が少ないことじゃなかった。
分かっている人が一人しかいないことだった。
その人が倒れた瞬間、棚も荷も急に迷子になる。
この港を、そういう場所にはしない。
春備え年次帳の最初の頁に、最後の一行を足した。
『控えは、次の担当へ渡る形で残す』
主倉の天窓から落ちる光が、まだ新しい紙を白く照らしていた。
この白さを、空欄のままにはしない。




