019 春を運ぶ往診箱
薬草を採って戻った次の日、診療所の裏で、わたしは三つの木箱を前にしゃがみ込んでいた。
大きすぎると運びにくい。小さすぎるとすぐ空になる。
箱の中には、熱さまし草、喉葉、冷え戻りの根、それから衰弱向けの乾果と薄粥用の粉。
薬だけでは駄目だし、食べ物だけでも戻りきらない。
「名前、もう決めたの?」
ニナが箱の縁を覗き込みながら聞く。
「決めます」
「そこは即答なんだ」
わたしは炭筆で蓋に書いた。
『春を運ぶ往診箱』
ニコが後ろで吹き出す。
「長い」
「大事なことは入っています」
「箱ってこと以外?」
「そこが大事です」
診療所の青札運用が回り始めたおかげで、崖向こうへ何を何日分出せるか、初めて数字で切れた。
熱さまし草三日分。喉葉二日分。衰弱向け粥四食分。
港の分を削らずに、それでも外へ回せる最小単位。
昼前、崖向こうの小集落から昨日の母親がまた来た。
抱いていた子どもの熱は少し下がっていたが、今度は祖父が寝込んだという。
「往診に行きます」
わたしが言うと、ニナが即座に頷いた。
「私も」
「護衛は二人つける」
カイル様が当然のように話へ入ってきた。
「それと、帰りに道の様子も見てこい。春の商隊を通すには早いが、崩れ方を知っておきたい」
もう次の章の匂いがする。
でも今はまだ、先を見るより、今日届く箱の中身だ。
午後、往診箱を橇へ載せて小集落へ向かう。
道中、ニナは何度も箱の蓋を確かめた。
「心配ですか」
「効き目もだけど、向こうで回し切れるか」
「だから札をつけています」
箱の中には、青札をさらに細かく分けた小札を刺してある。
『熱 朝』
『熱 夜』
『喉 湯へ』
『衰弱 粥に混ぜる』
「そこまで書いたら、さすがに分かる」
ニナが呆れ半分で言う。
「分からないよりいいです」
「うん。それは本当にそう」
加えて、箱の底には薄い板を一枚敷いた。
蓋を開けた時に、その日の配り順がひと目で分かるようにしたのだ。
熱の強い家から先、次に喉、最後に戻りの遅い衰弱向け。
往診先で立ったまま迷う時間を減らしたい。
寒い場所では、その数十秒が案外重い。
小集落は、白霧港よりさらに静かだった。
雪除けの低い屋根が並び、煙の薄い家が多い。薪も足りていないのが見て取れる。
わたしたちが着くと、人が戸口から次々顔を出した。
助けが来た、と言いたい顔だ。
でも、その顔を見るたび、わたしは逆に気を引き締める。
一回きりの助けでは意味がない。次も回る形にしないと、結局また同じになる。
診療は家ごとに回った。
ニナが熱のある子どもの喉を見て、先生役の老人へ煎じ方を伝え、わたしは青札と一緒に箱の中身を分ける。
祖父のいる家には、喉葉と衰弱用の粥。咳の強い漁師には、夜用の札を一枚余分に。
最初の家では、熱の残る子どもが薬湯の匂いだけで顔を背けた。
そこでニナが青札つきの乾果を少し湯で戻し、薄粥へ混ぜる。
甘みのある湯気が立つと、子どもはようやくひと口だけ飲んだ。
「食べるところまで戻せたら勝ち」
ニナが小さく言う。
「そのために乾果も入れたんです」
「分かってても、こうして見ると助かる」
「この青い札は?」
年配の女が不思議そうに聞いた。
「使う順番です」
わたしが答える。
「迷ったら、上からです。なくなったら、この札ごと港へ持ってきてください」
札そのものを伝票代わりにする。
前世の返品票みたいなものだ。
言葉で説明するより、手元に残る形のほうが続く。
夕方、最後の家を出た時には、往診箱の中身はきれいに減っていた。
空になったのではない。予定通りに減った。
それが大事だ。
しかも、何が足りなかったかも分かった。
喉葉は一束多くてもよかった。逆に、冷え戻りの根は次回半量で足りる。
帳面に書ける差として持ち帰れるのが、いちばん大きい収穫かもしれない。
「助かったよ」
集落の男が、橇へ薪束を積みながら言う。
「今までは診てもらっても、次までが繋がらなかった」
その一言が、ずしりと来た。
次までが繋がらない。
まさに、そこを埋めたかったのだ。
帰り道、ニコが揺れる橇の後ろで得意げに言う。
「箱、ちゃんと効いたな」
「薬箱なので、効いてもらわないと困ります」
「違うよ。順番のほう」
少しだけ笑ってしまう。
そう、順番のほうだ。
必要なものを、必要な人へ、必要な前後関係ごと渡す。
たぶん、それが保存の本体なのだと思う。
港へ戻ると、診療所の板に新しい欄が増えた。
『戻り札』
ニナが書いた字だった。
「これが返ってきたら、次の箱を組む目安になる」
「いいですね」
「リーゼさんの病気がうつった」
たぶんそれは褒め言葉だと思うことにする。
白霧港は、湯気だけでなく薬箱も外へ出せるようになった。
なら次は、その結果をきちんと残す番だ。
効いたかどうか、減ったかどうか、何人が戻れたか。
帳面に残れば、この冬はただの綱渡りじゃなくなる。




