(3)
のどかで平和だったミドの村は、無惨な姿に変わり果てていた。トゥエニの心は傷んだ。村人たちと接する機会はなかったが、塔の上から眺めた平和な光景が胸の中に焼きついていたからだ。
どうかご無事で。
どうか無事に、逃げていてください。
必死に祈るトゥエニの後ろで、手綱を握っているバッツが、ひゅうと口笛を吹いた。
目の前に、美しい白亜の城がそびえていた。
「うっわぁ、綺麗なお城ね」
「なんと、まあ」
「ほう」
パウルン、テンク、フウリの三人も、それぞれ感嘆の声を上げた。
「さすがは王女殿下がお住まいでいらっしゃったお城ですね。規模こそ小さいですが、見事なものです」
オズマの賛辞を、トゥエニは素直に受け入れることができなかった。
これほど美しく生まれ変わったのは、彼女が王都へ連行される数日前のこと。それにトゥエニは、自分の住まいを外から眺めたことがほとんどなく、馴染みが薄かった。
近くで確認したところ、城壁も城門も無事なようだ。
今は無人の城であり、城門の隣に設けられていた出入り口には鍵がかかっていた。だが、こちらには魔法使いがいる。テンクが城壁を飛び超えて内側から鍵を開けた。
城の中もまた美しい。ひび割れひとつない石畳、さまざまな彫刻、石製のベンチ、城壁よりも高い塔を持つ居館と、六角柱の形をしたドーム状の礼拝堂。
「本当に誰も住んでねぇのかよ。なんかちょっと、薄気味わりぃな」
バッツの気持ちが、トゥエニは分かるような気がした。荒れ果てた城もひどい有様だったが、美しすぎるこの城もまた、人の住む場所ではないような気がする。
だが、それも外側だけのこと。内装や調度品などはぼろぼろである。
「妙だ。建物は新しいが、中身は廃墟のようではないか」
フウリの感想はもっともだと、トゥエニは思った。
レイザの話によれば、城の設備などの管轄は王庭管理局という部署で、なかなか予算がおりなかったらしい。しかしレイザの粘り強い要求のおかげで、あの日、小さな掃除屋さんが派遣されてきた。
トゥエニが城内を案内する。
「ここが、井戸です」
まるで一度も使われたことがないかのように、苔もカビも生えていない。
「馬車はこちらです」
非常時のためにレイザが用意した、二人乗り用の馬車だった。ミドの村で農耕用の馬を借りて使うつもりだったようだ。
「うん。座席の後方に、荷物も積み込めるわよ」
パウルンが嬉しそうなのは、食糧不足でひもじい思いをすることがなくなるからだろう。
「こちらが、客室です」
城内にある建物は三つ。居館と礼拝堂、そして離れにある客館だ。滅多に人の訪れる場所ではないが、レイザが最低限の手入れをしていたらしい。
これで羽を休めることができると、テンクが喜んだ。
地下の食糧庫には、保存食やワインが残されていた。薪もあるので、台所で調理することもできる。
「お風呂があります。石鹸と香油も!」
トゥエニとしては一番嬉しい部分だったが、ワインやベッドほど、魔法使いたちは喜ばなかった。
魔法使いには様々な制限がある。その中のひとつに、公衆浴場立ち入り禁止というものがあった。利用客を怖がらせないための措置であるが、そのせいもあってか、彼らは風呂嫌いが多い。
城の案内が終わると、オズマから夕食まで一時解散が告げられた。
トゥエニは塔の三階にあるかつての自室に入った。
家具の配置は変わっていない。大きな本棚と、机とベッド。そして南向きの出窓。
一瞬、あぐらをかいて座っている少年の幻影が浮かんだ。
何かに導かれるように、トゥエニは窓を開けた。
美しい庭園の中に立つ背の高い木。その枝の根本の部分に作られた小鳥の巣は、すでに空だった。
あの時は、肝を冷やしたものだ。一番小さな雛が巣から転がり落ちて。自分は礼拝堂の屋根の上にいた少年に助けを求めて。そして少年は、あっという間に雛を救ってくれた。
城壁に目を向ける。
あの先に広がる光景を、少女は知っていた。
圧倒されるほど美しい黄金色の空と、なだらかに繋がる稜線。そして、どこまでも自由に吹き抜ける風。
世界はあまりにも広すぎて、これまで抱えていたちっぽけな悩みなど、すべて吹き飛んでしまった。
叶わない望みを持ってはいけない。そう考え、無理やり忘れようとしていた思い出が、次々と溢れてくる。
出窓についた手に力が入る。
握りしめた小さな拳が、震える。
「……ルォ」
危険な旅に出てから初めて。
少女は涙を流した。
◇
夕食の雰囲気は微妙なものになった。パウルンが料理を作り、上等なワインも出た。勇者隊のメンバーは歓声を上げた。
トゥエニも喜んでいたが、その目は赤く腫れていた。
「なんだ、ガキんちょ。泣いてんのか、ぐえっ!」
デリカシーの欠けらもない発言をしたバッツの横腹に、パウルンの肘が突き刺さった。大丈夫ですと言ってトゥエニは笑顔を見せたが、あまり食は進んでいなかった。
食事を終え、少女が自室に戻った後、メンバーたちはワインを飲んで気を緩めていたが、バッツがこそこそと動き出した。水汲みをして、薪を燃やす。風呂嫌いの男が、風呂を炊いているようだ。
「可愛いところ、あるじゃない?」
微笑ましそうにパウルンが言ったが、オズマの心中は穏やかではなかった。
“果ての祭殿”にたどり着いた後、この哀れな王女がどうなるかを、メンバーたちは知らない。
子供ひとりの命など、魔法使いにとっては取るに足らないもの。問題はないはずだった。だが、体制側であるはずの王女に対して、バッツがここまで心を開くとは思ってもいなかった。
試練の旅は、いまだ道半ば。これ以上戦力を失うわけにはいかない。ましてや最強の手札となれば、なおさらだ。懸念材料は今のうちに取り除いておくべきだろう。
その日の夜、オズマはトゥエニの部屋を訪れた。
「お休み前に申し訳ありません。今後の予定について少し報告がございまして」
少女は寝巻き姿だったが、まだ恥じ入るような年頃ではないようだ。あっさりとオズマを部屋に招き入れた。
オズマは怪しげな光を放つランタンを手にしていた。
「あと数日で“荒野”へ入る予定ですが、その前に注意事項がございます」
ゆらりと、ランタンの炎が揺れた。
「あなたさまは、この国の運命を救う使命を受けた、高貴なお方。他の者とは、身分が違うのです」
ランタンの炎を瞳に写しながら、王女は不思議そうに聞いていた。
「ましてや魔法使いなど、下賤な輩。気安く声をかけるものではありません。明日からは、王族に相応しい威厳と態度を持って、彼らと接してください」
オズマは少女の思考を誘導していく。
「決して心を許してはなりません。笑顔を見せてはいけません。彼らにつけいる隙を与えてしまいます。彼らもまた、心の中では高貴なあなたさまのことを、敵だとみなしているのですから。よろしいですね?」
少し考えて、オズマはつけ加えた。
「ああ、私だけは別ですよ? 何しろ私は、勇者隊を束ねる身。私の命令に逆らうことは」
「それは、魔法ですか?」
少女の口から、咎めるような声が発せられた。
「お披露目の式典でも、見ました。確か、タバシカさまが使われていましたね?」
オズマの笑顔が固まった。
なぜ、魔法が効かない。
練度の差か。いや、近衛隊長や侍女には完全に効果を発揮したはず。
盲目の語り部の話では、女神の血を受け継ぐ王の娘には、不思議な力が宿るのだという。試練の旅を果たすための能力とのことだが、それだけではないのかもしれない。
「わたくしは」
自分が見誤ったことに、オズマは気づいた。
少女の力を、そしてその本質を。
「自分のことは、自分で決められます!」
少女の額の紋様が、強く光り輝く。
次の瞬間、空気の圧力のようなものが放たれ、ランタンの炎がかき消えた。
「くっ」
オズマの笑顔の仮面が、初めて崩れた。
親の顔も知らず愛情も受けずに育った王女を、危険な旅に連れ出す。それは宰相ホゥが指摘していた懸案事項のひとつであった。
これまでに王女に仕えた侍女たちから聞き取り調査をしたところ、王女はもの静かな性格で、怒りや不安、悲しみといった感情を表に出すことはないのだという。
ゆえにラモン王は謁見の間に王女を呼び出し、有無を言わさず“蒼き魔獣”退治の命令を下すことにしたのだ。
その後、王都の民心を安定させるために、お披露目の式典を開催した。刺激が強かったのか、王女は熱を出して寝込んでしまった。
旅の間も泣き言を言わず、文句も言わず、おとなしく従っていた。いつかパウルンが評した通り、まるで草花のような、存在感を感じさせない王女だった。
強大な力に屈することで身を守ろうとする臆病者だと思っていたのだが、ずっとこちらの行動を観察していたのか。
なかば無意識のうちに、オズマは少女に向かって手を伸ばしていた。しかし途中で拳を握りしめると、ゆっくりと元の位置に戻した。
「申し訳ございません。もちろん、冗談ですよ?」
まったく説得力のない言い訳をして、オズマは笑顔を作り直した。
「少し、悪ふざけが過ぎたようですね。今日のことは、どうかお忘れください」




