(3)
新しい土地で生活するには、拠点となる住居が必要だ。しかしルォは、不動産の仲介屋を探して賃貸物件を借りるという仕組みを知らなかった。
少年の考えはいたって単純なものだった。
住むところがなければ、作ればよい。
ルォは外壁の下に降りると、なるべく人目につかない場所を探した。細い通路の突き当たり。壊れたレンガや朽ちた木材などが打ち捨てられている。石畳はひび割れ、雑草が顔を覗かせていた。
ルォは外壁に手をついた。
壁面が虹色に輝き、人がひとり通れるくらいの穴が開いた。穴の中はドーム状の空間だ。
「玄関、完成」
中に入り、右方向の壁に手をつく。再び壁面が虹色に輝き、斜め上に向かって伸びる階段が形作られた。しばらく登ったところに、四角い空間が生まれる。
「ここが、リビング」
壁の中は真っ暗だ。ルォの目はぼんやりと紅く輝いていた。夜目が利くとはいえ、これではくつろぐことができない。窓が必要だった。ルォは外壁の外側に四角い穴を開けたが、このままだと雨風が入ってきてしまう。工夫が必要だろう。
リビングの隣にはキッチン、さらに上方へ向かう階段と寝室、その上には物置部屋を作った。部屋と部屋が上下に重ならないようにしたのは、強度を考えてのことだ。
それは、まるで蟻の巣のような構造の家だった。
最終的にルォは、屋上にも出入り口を作ろうと考えた。外壁の上からは街の景色が一望できる。
しかし、ルォは作業を止めた。
作りかけの階段の先、壁の中から奇妙な音が聞こえてきたからである。サラサラという細かな連続音と、こぽりこぽりという不規則な音。何かが高速で動いているようだ。
穴を開けた瞬間、ものすごい勢いで水が飛び出してきた。
「うぎゃ」
水圧に押されて、ルォは階段から転げ落ちた。
「ぐぇ、いたた」
頭を押さえて蹲まっていると、大量の水が流れ込んできた。
「壁の中に、水が流れてる」
予想外の事態だった。
ルォは知らなかったが、アルシェの街の東側には山があり、その麓の湖から街まで水道橋が建築されていた。水道橋で引かれた水は外壁の中の水道を通って、公共施設や水汲み場などに供給されていたのである。
このままでは溺れてしまう。
ルォは水圧に逆らいながら階段を登り、魔法を使って穴を塞いだ。水はすぐに止まったが、全身がずぶ濡れになってしまった。
ルォがいた村には共同井戸があった。水汲みは子供たちの仕事で、陽が昇ると共同井戸には行列ができる。同年代の少年たちと出会うのが嫌だったルォは、早朝に出かけて素早く水を運んでいたものだ。
一度に汲み上げて持ち運べる水の量には限界があり、水甕をいっぱいにするためには、何往復もする必要があった。
だから、水は貴重だった。
ルォは思案した。
水は低いところに溜まる。低いところから汲み上げるのは大変だ。しかしこの街には、高いところに水が流れている。
ルォは階下のキッチンへ戻ると、壁に指先をつけた。触れた部分が虹色に輝く。意識の中で、細長い空間を上方へと伸ばしていく。その場所に繋がったことを確認すると、キッチンの壁にできた穴から、水が流れ出てきた。普通は桶に汲んだ水を少しずつ使ってお湯を沸かしたり食器を洗ったりするのだが、これならばいつでも水を使うことができる。
シンクに溜まっていく水を見て、ルォは思い出した。
あれはまだ父親と母親が生きていた時のこと。夕食後のお茶を飲みながら、父親が説明してくれた。
『……おふろ?』
『そうだ』
大きな釜でお湯を沸かして、そこに裸で入るのだという。普段は桶にお湯を入れて、頭を洗ったり布を浸して身体を擦ったりするのだが、冬場は寒い。しかしお風呂に入れば全身が温まる。一日の疲れも一発で吹き飛んでしまうと父親は力説した。
『熱くないの?』
父親は熱々のお茶に息を吹きかけて、ひと口飲んだ。
『水を入れて、ちょうどいい熱さのお湯にするんだよ。ぬるすぎても熱すぎてもだめだ。そして、たっぷりのお湯に肩まで浸かる』
『たっぷりって?』
『父さんと母さん、そしてルォもいっしょに入れるくらいだな』
そんなに大きな釜など見たこともない。
『まあ、別に鉄の釜じゃなくてもいいんだ。大きな木の樽でも、なんならレンガを積み上げたって構わない。別のところでお湯を沸かして、移し替えればいいわけだから』
普段より父親は饒舌だった。
『実はな、ホッチさんの家にはお風呂があるんだ。この前見せてもらったんだが、そりゃあ素晴らしいものだった。まあその分、水汲みなんかは大変だろうが、そいつは父さんが頑張る。どうだ、ルォ』
『なに?』
『お風呂、入ってみたいだろ?』
『うん』
父親はにやりと笑った。
『カルラ、ルォもお風呂に入ってみたいってさ!』
食器を洗いながら、母親は言った。
『ホッチさんのお宅には井戸がありますからね。好きなだけ水を汲めるかもしれませんけれど、うちは共同井戸ですから。そんなに使ってしまっては、他所さまのご迷惑になるわ』
とっさに父親は反論することができなかった。
こちらを振り向いて、母親はにこりと笑った。
『それに、お湯を沸かす薪はどうするのかしら?』
雨があまり降らず風ばかり強い土地には、大きな木が育ちにくい。村外れに風を防ぐための小さな雑木林があるくらいで、薪は水以上に貴重だった。
その後、父親は防戦一方となり、お風呂の話はうやむやになってしまった。
父親との会話を思い返しながら、ルォはぽつりと呟いた。
「たっぷりのお湯に、肩まで浸かる」
先ほどの市場には薪屋もあった。お金があれば、いくらでも買えるはず。
ひょっとすると、お風呂に入れるかもしれない。




