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浮雲が赤地区で暗躍していた理由──三色の均衡を守るため。
そこに嘘はないのだろう。本心から語っているのだと思う。
凰乃は穢主と戦ったことこそないが、異能者との戦闘ならそれなりに経験している。死にかけたことも一度や二度ではなく、むしろ楽に勝てた記憶のほうがなかった。
それを思うと、異能が暴走した成れの果てである穢主の実力は、異能者を上回ると見ていいのだろう。
異能者である赤嶺や、非異能者とはいえ裏社会を生き抜いてきた旧来勢力の三人が相手でも、穢主には勝てないかもしれない。その結果、赤地区が堕ちるか可能性を浮雲が懸念したのも、過去の経験に基づく推測なのだろう。
赤地区が堕ちれば三色の均衡が崩れ、いずれ灰地区にも更なる面倒事が降りかかる。
故に、今回浮雲が巡らせた権謀術数は理にかなっているのだろう。
ただ、それが本当に『面倒事を最小限に抑えるため』の行動だったのか考えてみると、些か理由として弱い気がした。
穢主の危険性も、赤嶺の暴力も、旧来勢力の実力も、凰乃は詳しく知らない──が、それらを加味しても、浮雲がどうも動き過ぎのような気がするのだ。
行動原理は利己的。
すべては己の自由のため。
ならば、もっとあるはずだ──影の異能者が、影の穢主になる前に片をつけようとした理由が。
「まだ話してないことがあるんじゃないかい? 例えば、まだ私たちが知らない穢主に関する情報とか」
とはいえ、確信があったわけじゃない。
ここまでの迂遠とも取れる話の流れに、少し鎌をかけてみたという側面が大きかった。
さっさと結論を言えばいいものを、のらりくらりと受け答えを繰り返していた。美少女探偵などと揶揄いながら、自分の行動理由を推理させることで会話そのものを楽しんでいる節もあった。
ただ、凰乃には一つだけ引っかかっているものがあった。
浮雲がふと見せた、あの表情。
異界に染まった灰色の空へと向けられた、僅かな憐れみを帯びた瞳。
まるで何かを諦めたような、何かを見捨てるかのような、酷く冷ややかな視線。
あの表情を見た瞬間、凰乃は思ったのだ──もしかすると浮雲は、あえて会話を引き延ばしているのではないか、と。
「この場に彼らを誘ったのは私だが、あまり悠長にしてられる状況じゃないはずだ。穢主を倒すための情報整理を目的とした会合ではあるけれど、今この瞬間にも異界は広がり、異界民は増えているだろう。被害を最小限に抑えるために必要な情報を得て、赤地区から異物を排除する──時間との勝負……とまでは言わないにしても、無為な時間の消費は避けるべきだ。それは異能災害を経験したキミなら理解してるはず」
凰乃は赤地区方面を覆う薄暗い空を一瞥した。
あのとき浮雲は異界を見ながらも、もっと遠い何かを見ていた気がした。
同じものを見ようとするように、凰乃もまた異界へ目を向ける。
そしてふと、言葉がもれた。
「……時間稼ぎ」
確信があったわけではない。
それでも、正しいと思った。
その証拠に、浮雲は愉快そうに目を丸くしていた。
「……本当に、惚れ惚れするよ」
「キミの性格を思えば、こんな状況でも暢気に話してること自体は納得できなくもないけどね。あれだけ面倒な暗躍をしてまで解決を急いでたのに、ここにきて異界を放ったらかしにするのは妙だよ」
「おいおい、もとはといえばキミが余計な暴露をしたのが事の発端だぜ?」
浮雲は呆れたように言った。
確かに、当初は赤地区の面々と穢主について話し合うだけだった。それがいつの間にか浮雲を中心に話が進んでいる。
それは凰乃が、浮雲が影の穢主を唆したという事実を赤嶺たちにバラしたからだった。
あの暴露がなければ、話の流れはまったく違うものになっていただろう。
浮雲が酒場にやってきたのも、赤嶺たちを見て逃げるように帰っていった客から事情を聞いたかららしい。そもそも、自分が赤地区で何をしていたかなど端から話す気などなかったはずだ。
浮雲の指摘に凰乃は一瞬きょとんとするが、すぐに笑みを浮かべて嘆息した。
「人のせいにするなよ」
「開き直るなよ……って、まぁ暴露されるようなことをやったのは事実だけどさぁ」
時間稼ぎ、と凰乃は改めてその言葉を口にした。
「話の流れはさておき、キミがここに来たのもそれが目的だったのかい? 赤嶺が酒場を占拠してる、と逃げるように帰った客から聞いたようだが、それだけでわざわざ様子を見に来るかな?」
「俺だけのせいにすんじゃねぇ」
赤嶺が顔を顰めるが、凰乃は一瞥すらせず浮雲を見たままだった。その扱いにミリアが吹き出し、赤嶺がそちらを睨みつけるが、構わず続ける。
「キミがここに来たとき、影の穢主を唆して赤地区に仕向けたことを、私がすでに話していると思ってたみたいだったけど、だとすれば尚更ここにはこないよね。水面下で動いていたのは、赤嶺たちに動向がバレれば余計な争いが生まれるからだろう? 実際キミは赤嶺に何度か殴られてたし」
「躱したけどね」
「当てなかっただけだ」
「殴ったのはカウンターだ。マジで弁償しろよ」
浮雲、赤嶺、店主の順に口を挟む。
凰乃は僅かに眉を寄せると、立てた人差し指を自分の口元に添えた。
まだ喋ってるから黙れ──と仕草で伝える。
浮雲は肩を竦め、赤嶺は眉を引きつらせ、店主は小さく鼻を鳴らした。
「それでもここに来たのは、赤嶺たちが穢主の元へ向かわないようにするため──時間を稼ぐため」
凰乃の推測を聞き、浮雲は口端を上げた。
「どうして、そんな時間稼ぎをする必要がある?」
「……」
そこだった。
不意に降りてきた閃き。時間稼ぎが理由であることは、根拠などないが正しいと思った。ここまで言葉を並べてきたのも、喋りながら自分の頭を整理していたからだ。
しかし、思考が整理されても、その先の答えまでは導き出せなかった。
いや、一つだけ思いつくものはある。
「……赤嶺たちが穢主に負けるかもしれない。負ければ赤地区が空になる。そうなれば三色の均衡が崩れる。だから、赤嶺たちを穢主から遠ざけるために、ここで足止めをしてる」
「ほう。それはどうして?」
楽しげな浮雲の表情に、凰乃はムッとした顔を向けた。
話していてわかる。浮雲の様子が雄弁に物語っていた──これが間違いであると。
それでも最後まで言わせようとする底意地の悪さに眉を寄せながら、凰乃は続けた。
「このまま異界が広がれば赤地区を呑み込み、いずれ黄地区や青地区まで被害が及ぶ。そうなれば、黄も青も静観してられない。異界の対処に乗り出すだろう。そこまで時間を稼げれば、影の穢主を相手にするのが赤嶺だけではなくなる。黄と青の実力者も加わる。結果として赤嶺が命を落とす確率は下がり、三色の均衡は保たれる」
自分でも間違っているとわかっているからか、最後は吐き捨てるような口調になっていた。
そんな凰乃に、浮雲はわざとらしく拍手を送る。
「さすがだよ凰乃。キミはれっきとした美少女探偵だ」
「違うんだろう? この推理」
「そうだね。でも、いい線いってるよ。いやマジで」
ふてくされたように頬杖をつく凰乃に、紅牙が言った。
「癪ではあるが、穢主との戦闘を懸念していたことを思えば、凰乃の推理は一理ある」
「そうねぇ。まぁ、どれだけ被害が広がろうと、黄や青との共闘なんてあり得ないけど」
「話しながら自覚していたようだが、自分の推理が間違っていると思った理由はなんだ? 紅牙のいうように、気に入らないが考えとしては一理あると俺も思う」
黒杭の言葉に、凰乃はお猪口を弄びながら答えた。
「時間稼ぎが目的っていうのはあってるはず。けどそれは、私たちが知らない穢主の情報が関係してるんだよ。戦力を増やして難なく穢主を倒すためではなく、穢主を放置するための時間稼ぎ」
凰乃は横目で浮雲を睨むように見据えた。
「ほら、その内容を早く言いなよ。時間稼ぎはもういいだろう」
「そうむくれるなよ」と浮雲は笑う。「何度目かわかんねぇけど、赤嶺。暴力はなしな」
「……何度テメェは俺をイラつかせる気だ?」
「そんなつもりないさ。ただ、毎度キミにとって不都合なだけ」
赤嶺は小さく息を吐き、早く言え、と顎をしゃくった。
浮雲は、どう話を進めようかなぁ、と少し考える素振りを見せる。
「当たり前のことを聞くけど、異界大陸は知ってるよね?」
「新境地と境外域を含む新境大陸。そこから海を渡った先にある四つの大陸のことだろう?」
そうだね、と浮雲は凰乃に頷いた。
「かつてはどの大陸にも人が住んでいた。だが、過去に頻発した異能災害によって人類は住処を奪われた。今や新境大陸が唯一の人類生存圏だ。冒険者と呼ばれる連中が生存圏を取り戻すために活動してるようだが、まぁその辺の話はどうでもいいな」
「時間稼ぎはいらないよ」
「わかってるさ。勿体ぶっても仕方ない」
浮雲はあっさりと言った。
「穢主は、異界大陸に渡るんだよ」
「渡る?」
「ああ。俺も過去の異能災害で初めて知ったんだが、穢主はある程度の時間が経つと、異界にいる人間を連れて異界大陸へと消えるんだよ。どうやらこれを『渡り』と呼ぶらしい」
そこで一度言葉を切り、浮雲は周囲を見回した。
「俺は過去の異能災害で穢主のこの特性を知った。なのに何故か、どいつもこいつも俺たちが穢主を倒し、異界民を一人残らず消したと思っているらしい。さて──この噂、一体どこまでが真実なんだろうね?」
芝居がかった仕草で両手を広げ、浮雲は口端を吊り上げる。
得意げな浮雲と目が合った凰乃は、その反応を窺うように赤嶺たちへ視線を移した。
正直なところ、数日前にラディウムへ来たばかりの凰乃にとって、過去にあった異能災害の真実を明かされたところで驚きはない。
実は浮雲たち──第四勢力と呼ばれる者たちは、灰地区に現れた穢主を倒していなかった。
異界民を皆殺しにしたのでもない。
彼らはただ、穢主によって異界大陸へ攫われただけ。
浮雲の口ぶりからこれが真実のようだが、そんなことよりも考えることがあった。
そして、それは赤嶺たちも同じらしく、
「……異界大陸に消える。異界民を連れて……」
と呟き、時間稼ぎの意味を理解した瞬間、拳を握り締め、浮雲を睨みつけた。
「おっと、暴力はなしだぜ」
「……残り時間は?」
赤嶺は一度呼吸を整えた。
それでも消しきれない感情を無理やり押し殺したような声だった。
向けられる負の感情に気づきながらも、浮雲は飄々とした態度を崩さない。
「どうだろうなぁ。渡りに必要なのは明確な時間ではなく、異界民の数……いや、信仰の数って言った方が正しいか。信仰の質なのかな? この辺ハッキリわかってないんだよね」
そして、こともなげに続けた。
「まぁつまりだ。すでに察しているだろうけど、俺が時間を稼いでいた理由は、穢主が異界民を増やし、十分な信仰を集めて異界大陸へ渡るまでキミたちを足止めするため。そうすれば、穢主は勝手にいなくなる。キミたち赤地区の有力者にも被害は出ないし、トラブルの方から海の向こうへと消えてくれる。代償としていくらかの住民も犠牲になるが、均衡を保つためなら安いもんでしょ」
言い切った浮雲に、束の間の沈黙が落ちた。
静寂と呼ぶにはあまりにも騒がしい緊張感が場を満たす。
張り詰めた空気は今にも限界を迎え、次の瞬間には暴力によって空間そのものが塗り潰されそうな錯覚すら覚える。
その中心にいるのは赤嶺だった。
誰もがその動向を窺っている。
そんな中、凰乃が意外に思ったのは、旧来勢力の三人が赤嶺ほど浮雲の発言に怒りを露にしていないことだった。
浮雲に対して嫌悪は見られる。黒杭は不愉快そうな視線を向け、紅牙は視界に入れるだけで目が腐ると言わんばかりに目を閉じ、ミリアも不快感を隠そうともせず眉間に皺を刻んでいる。
だが、全身から漏れ出すほどの殺意を必死に抑え込んでいる赤嶺と比べれば、三人の反応はどこか冷めているようにも見えた。
(住民がいなければ街は機能しない。赤嶺はそう言っていたな。でも、それはあくまで赤嶺の考えであって、紅牙たちも同じとは限らない。異界から住民を避難させてた以上、決して蔑ろにしてるわけではないだろうけど、……赤嶺ほど住民の存在を重要視してないのだろうか──以前は紅牙率いる紅狼鬼が赤地区を支配してたらしいけど、その時の赤地区はどんな様子だったんだろう。赤嶺が治める今とは、何が違っていた? ……気になるな)
肌の上を刃物が滑るような空気の中、凰乃の思考は場違いにも浮かび上がった興味へと引かれ始めていた。絶対にそんな状況ではないのだが、それでも好奇心には抗えず、紅牙に話を振ろうとしたとき、視界の端で赤嶺が動いたことで意識が現在へと引き戻された。
出鼻を挫かれたことに場違いにもムッとしながら赤嶺を見ると、彼は目を閉じたまま天井を仰ぎ、深く、大きく、長く息を吐き出した。
やがて顔を戻し、ゆっくりと浮雲へ視線を据える。
口元には、微かな笑み。
それに反比例するように、浮雲を見据える瞳には剥きだしの敵意が宿っていた。
「三色の均衡を保つため、か。まぁ、ご苦労なこった」
「おっ! わかってくれるかい?」
「ああ」と赤嶺は怖いほど穏やかに頷く。「俺もお前と変わらねぇよ。大事なのは自分の考えだけだ。他の連中が何をしようが、問答無用で我を通す」
「さすが赤地区の支配者」
「無事でいられると思ってんのか?」
腹の底に響く、凄みを帯びた声。
これまでは怒りや苛立ちもわかりやすいほど表情に浮かべていたというのに、今の赤嶺からは何一つ感情を読み取れない。
凍り付いたような無表情。
それ故に伝わる。
赤嶺の怒りは、すでに臨界点を越えていたことを。
無事──これが何を指しているのかなど、わざわざ問い返す必要もない。
「暴力はなし、……とはいかないか」
浮雲は煩わしそうに嘆息した。
心底うんざりしたような振る舞いに、自業自得だろう、と凰乃は呆れる。
だが、次の瞬間──浮雲の表情を見て、思わず感心した。
いかにも億劫そうな態度は変わらない。それでも赤嶺を見据える瞳には、明確な意思と覚悟が宿っていた。
カウンターにもたれ、片肘をつき、足を組んだままサンダルをぷらぷらと揺らすだらしない姿勢。しかし、そのあまりにも無防備な佇まいからは一切の隙が窺えない。瞬き一つの間に戦闘が始まっても対応できる。そう錯覚するほど、それは戦いに備えた構えのようだった。
それなりに荒事の経験はある凰乃だが、とはいえ所詮は子供だ。経験が皆無ではないというだけで決して豊富ではない。
そんな凰乃ですら気づける変化を、何年も裏社会に身を置いてきた彼らが察しないはずがなかった。
紅牙、黒杭、ミリア。三人もまた、一斉に臨戦態勢をとる。
この争いに参加する気はないが、せめて店主だけは巻き込まれないようにしてあげよう、と足元に闇を広げたとき、酒場の扉が勢いよく開け放たれた。
「──赤嶺さんっ!」
転がり込むように店内に飛び込んできたのは、猩々緋の構成員だった。
その全身は返り血とも本人の血ともつかない、赤黒い染みに塗れていた。




