炉の中の騎士
光の中から、カインが来た。
五百年の約束を携えて。
リーリエの霞みかけた視界に、黒い影が差した。炉の灼熱の光を纏いながら、一歩ずつ近づいてくる長身の男。黒い外套の裾が光の中で揺れている。深紅の瞳が、炉の白金色の光を貫いて、まっすぐにリーリエを見つめている。
「——カイン」
声が掠れた。喉が灼けるように乾いている。膝が震え、次の瞬間にも崩れ落ちそうだった。視界の端が暗く翳り、意識が薄れかけている。
温かい手が、リーリエの手を掴んだ。
大きな手だった。武骨で、剣胼胝だらけで、指の節が固くて——けれど確かに温かい。炉の灼熱の中にあってなお、カインの手はリーリエの冷えきった指先よりも温かかった。五百年分の力と意志が、手のひらを通じて流れ込んでくるようだった。
「俺がここにいる」
低い声が、鼓膜を震わせた。
短い言葉だった。飾り気のない、カインらしい言葉。不器用で、ぶっきらぼうで、でもまっすぐな。けれどその五文字が、リーリエの中の何かを根底から支えた。崩れかけていた足に力が戻り、折れかけていた心が繋ぎ止められた。
——来てくれた。
分かっていた。カインが約束を破るはずがないと。「今度は、炉の外にはいない」——あの言葉は嘘ではないと。あの不器用な男が、口にした約束を違えたことは一度もない。「死なせない」と言ったから死なせなかった。「隣にいろ」と言ったから隣にいさせた。「炉の外にはいない」と言ったから——ここにいる。
それでも。
実際にこの手の温もりに触れるまでは、心のどこかで怯えていた。
炉の中は孤独だった。光に包まれているのに、どこまでも暗い場所だった。回路に手を伸ばし、命を削り、一人で世界の重さを背負い続ける。それはかつての——聖女としての日々そのものだった。
祭壇の上で、一人きりで世界を支えていたあの頃と、何も変わらない。結局、自分は一人なのだ。誰かの手が届く場所にはいない。世界の裏側で命を灼かれ続ける、たった一人の人柱。
そう思いかけていた。
けれどカインの手が、その錯覚を打ち砕いた。
「……来て、くれた」
声が震えた。目頭が熱くなる。涙が滲み、炉の光が虹色に歪む。嬉しい。嬉しくて、安心して、力が抜ける。一人で耐えていた緊張の糸が——カインの温もりに触れた瞬間、ほどけていく。
「当たり前だ」
短い言葉。けれどカインにとってはそれが全てだった。
カインが言った。リーリエの手を握ったまま、もう片方の腕でリーリエの身体を支える。「お前を一人にするわけがない」
当たり前、と言った。
この人にとっては当たり前のことなのだ。リーリエの傍にいることが。リーリエを一人にしないことが。五百年前にできなかったことを、今度は必ず果たすことが。
その腕に体重を預けた瞬間、膝から力が抜けた。限界だった。カインが来なければ、あと数秒で倒れていた。いや——倒れていただけではなく、意識を失い、橋渡しが中断し、炉が暴走して全てが終わっていたかもしれない。
カインの腕がリーリエを支える。広い肩に身体を預ける。カインの体温が、冷えきったリーリエの身体にゆっくりと染み込んでいく。
——五百年前。
炉の記憶が、リーリエの中に流れ込んだ。この場所で、初代聖女エルシェが一人で炉に命を捧げたときのこと。カインは炉の外にいた。光の壁に阻まれ、エルシェの手を握ることすらできなかった。外壁に何度もぶつかり、それでも中に入れなかった。
あのときのカインの叫びが、炉の壁に染みついている。
「エルシェ——!」
五百年前の残響。絶望と無力の叫び。壁の向こうで消えていく命に手が届かなかった男の、引き裂かれるような悲鳴。
しかし今——カインは炉の中にいる。リーリエの手を握っている。
同じ場所で、違う結末を作ろうとしている。
「カイン」
リーリエは顔を上げた。涙が頬を伝っている。いつから泣いていたのか、自分でも分からない。炉の光に照らされた涙が、銀色に光っている。
「ありがとう」
「……泣くな。まだこれからだ」
ぶっきらぼうな声。けれど——温かい声。
そう言いながら、カインの声も微かに震えていた。
リーリエにはわかる。カインもまた、この場所に戻ってくることが怖かったのだ。五百年前のトラウマが——エルシェを失ったこの場所に足を踏み入れることが、どれほどの恐怖だったか。炉の光を浴びるたびに、あの日の記憶が蘇ったはずだ。
それでも来てくれた。
リーリエのために。
「一人じゃ、ないんですね」
「ああ。一人じゃない」
カインの手が、リーリエの手を強く握り直した。骨が軋むほどの力。けれど痛くはなかった。その力が——安心させてくれた。
炉の光が、わずかに揺らいだ。カインの存在が炉の中に加わったことで、回路に変化が生じている。リーリエ一人にかかっていた負荷が——ほんの少しだけ、軽くなった。
呼吸が楽になる。視界が少し明るくなる。
紋章の脈動が安定する。不規則だった明滅が、再び規則的な光に戻っていく。
二人でいることの力。それは理論でも理屈でもなく、ただ——手を握り合っているという、それだけのことだった。一人の力は小さい。けれど二人なら——二人の力は、一人の二倍ではない。もっと大きな何かになる。
「……もう少し休め。そのあとで、続きをやるぞ」
「はい」
リーリエは頷いた。カインの腕に支えられながら、呼吸を整える。
もうすぐ、カインが補助燃料として自らの生命力を提供し始める。そうすれば回路の切り替えが加速する。
でも今は——ほんの少しだけ。
この温もりに、甘えさせてほしい。
カインの腕の中で、リーリエは目を閉じた。ほんの数秒。それだけで十分だった。カインの心臓の音が聞こえる。力強く、安定した鼓動。この鼓動がある限り、自分は一人じゃない。
目を開ける。
カインの深紅の瞳が、すぐそばにあった。
「——行くぞ」
「はい」
炉の光が、二人を包んでいた。先ほどまで灼けるように激しかった光が、わずかに——ほんのわずかだけ、柔らかくなった気がした。カインの存在が炉に受け入れられ始めているのかもしれない。
リーリエは深く息を吸った。痛みはまだある。けれど耐えられる。一人のときとは、痛みの質が違う。同じ重さを二人で分け合っているという実感が、折れかけた心に芯を通してくれる。
指を絡めた。カインの硬い指と、リーリエの細い指が。合わさった手の中を、二つの生命力が流れている。銀と紅が混じり合い、回路に注がれていく。
二人の手が重なったまま、次の回路に向かう。
もう一人じゃない。




