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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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道が開く

 聖なる炉への道が——開かれた。


 灰の聖堂の最深部。大広間の奥に、巨大な石造りの扉があった。高さは三人分。幅は五人が並んで通れるほど。数百年前の職人が彫り込んだ精緻な紋様が表面を覆い、歴代聖女の名が刻まれていた。エルシェ。テレサ。マリア。アンナ。そしてリーリエ。名前を辿るリーリエの指が震えた。この扉の向こうに消えた少女たちの名が、冷たい石に刻まれている。


 大司教が結界を解除したことで、紋様の発光が消え、扉は——ただの石になった。魔力の庇護を失った石の表面は、触れるとざらざらとして、どこか脆い感触がした。


 リーリエが扉に手を触れた。


 冷たかった。しかし紋章が脈打つと、扉が微かに震え——ゆっくりと開いた。


 暗い通路が奥へと続いていた。螺旋状に降りていく石段。壁面に灯る淡い光は、炉から漏れる力の残滓だった。空気が変わった。湿った、古い空気。何百年も人の足が踏み入れなかった場所の空気。


「この先に——炉がある」


 リーリエが呟いた。紋章の脈動がさらに強くなっている。炉が近い。


 背後で、レオンハルトが良心派の騎士たちに指示を出していた。


「聖堂の防衛を固めろ。教会軍の残存兵は収容し、負傷者の手当を優先。外の民衆は——危険区域から離れるよう誘導しろ」


 騎士たちが散開していく。レオンハルトの統率は見事だった。混乱の直後にもかかわらず、彼の指示は明瞭で、部下たちは迷いなく動いた。


 レオンハルトがリーリエとカインに向き直った。


「ここから先は——任せる」


 レオンハルトの琥珀色の目に、信頼と覚悟が灯っていた。かつてリーリエを連れ戻しに来た男が、今はリーリエを送り出す側に立っている。


「ああ」


 カインが頷いた。短い頷きに、レオンハルトへの信頼が凝縮されていた。


「団長。防衛を頼む。俺たちが炉の中にいる間、背後から攻められると困る」


「わかっている。——存分にやってこい」


 レオンハルトはカインに手を差し出した。


 一瞬の沈黙。かつてこの二人は剣を交えた。カインが「魔王」として、レオンハルトが「聖騎士団長」として。あの日の殺気は今、どこにもない。


 カインが——その手を取った。固い握手。力のこもった、揺るぎない握手。かつて敵として対峙した二人の男が、今は戦友として手を結んでいた。二人の手が離れたとき、レオンハルトの琥珀色の目が微かに潤んでいた。


「聖女殿」


 レオンハルトがリーリエに敬礼した。白銀の甲冑がきらりと光った。


「ご武運を」


「ありがとう、レオンハルト。——新しい教会のこと、よろしくね」


「……堅い話は後だ。まず帰って来い。——必ずだ」


 レオンハルトの琥珀色の目が潤んでいた。けれど涙はこぼさなかった。騎士としての矜持が、それを許さない。


「帰るわ。約束する」


 リュカが駆け寄ってきた。小魔族たちを後ろに引き連れて。


「お嬢!」


「リュカ」


「お嬢、無事に帰ってきてくださいね。今夜の飯、とっておきのやつ仕込んできたんすから。帰ってこなかったら——」


「食べきれなくて困る?」


「俺が泣く」


 リュカの声が——震えた。目が赤かった。泣きそうだった。しかし笑っていた。いつも通りの、軽口。五十年間カインに仕え、リーリエが魔王城に来てからは二人の世話を焼き続けてきた従者長。いつだって軽口で場の空気を和らげてくれた。けれどその軽口の裏にある感情は——本物だった。リュカにとってリーリエはもう「主人の保護対象」ではない。家族だ。


「帰るよ。約束する」


 リーリエはリュカに微笑んだ。


「リュカのご飯、楽しみにしてる」


「……っ。はい。最高の飯、作って待ってますから」


 リュカが袖で目を拭った。


 カインがリュカの頭をぽん、と叩いた。何も言わなかった。それだけで充分だった。五十年の主従関係が、その一触に凝縮されていた。


 リーリエとカインは、暗い通路に足を踏み入れた。


 背後で扉が閉まることはなかった。開け放たれたまま。五百年前——初代聖女が炉に向かったとき、扉は閉じた。カインを外に残して。今は——開いている。帰る道が、塞がれていない。


 レオンハルトとリュカの姿が小さくなっていく。松明の光が揺れ、二つの影が大広間の壁に映っている。


 螺旋階段を降りていく。一歩ごとに、空気が重くなる。炉の力が濃くなる。紋章の脈動が全身に響く。


「カイン」


「ん」


「怖い?」


「……ああ」


 カインが正直に答えた。


「怖い。五百年前のことが——よみがえる」


 その声は——素直だった。カインが恐怖を認めるのは珍しいことだった。ぶっきらぼうな男が、虚勢を張らずに「怖い」と言った。リーリエの前でだけ見せる弱さ。それを見せてもいいと思えるようになったのは——リーリエとの日々があったからだ。


「うん」


「あのときも、こうやって炉に向かって降りていった。エルシェが前を歩いて、俺が後ろにいた。螺旋階段の壁に手を当てながら、必死についていった。同じだ。同じ階段で、同じ暗さで、同じ冷たい石の手触りで——」


「違うわ」


 リーリエが遮った。


「あのとき、エルシェは一人で行った。あなたは外に残された。でも今は——二人で行く。一緒に降りている」


 カインが足を止めた。


 リーリエも止まった。振り返った。暗い階段の途中で、二人の間に数段の距離があった。


「同じじゃない。あなたが五百年間戦ったから、今は違う。古代の文献を読み、設計図を見つけ、仲間を集めた。だから今は違う。仲間がいる。私がいる。同じにはさせない」


 カインの深紅の瞳が——潤んだ。暗闇の中でもわかった。


「……ああ」


 その一言が、どれほど重い肯定だったか。声がかすれた。


「今度は——同じにしない」


 リーリエは手を差し伸べた。暗い階段の上から。


 カインがその手を取った。大きくて、硬くて、温かい手。その手の甲にある初代聖女との契約の紋章が、微かに光った。五百年越しの約束が、この手を通じて繋がっている。


 手を繋いだまま、二人は螺旋階段を降りていった。深く、深く。炉が待つ場所へ。一歩ごとに空気が重くなる。炉の力が濃くなる。紋章の脈動が全身に響く。壁面の石が汗をかいたように湿り、足元の段が微かに光を帯びている。炉の光が階段まで染み出しているのだ。


 温かくなっていく。


 空気が。石が。手を繋いだ指先が。


 炉が近い。


 階段の先に——光が見えた。


 白く、青く、金色に。名前のない色が渦を巻いている。地底の奥底で、巨大な光が脈打っていた。世界を支え続けてきた炉の鼓動が、リーリエの全身を揺さぶった。


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