避けられない選択
夜が来ると、迷いが戻ってくる。
リーリエは隠れ家の自室で、膝を抱えて座っていた。窓の外に星は見えない。雲が空を覆い、森は深い闇に沈んでいる。蝋燭の炎が風に揺れて、壁にリーリエの影を大きく投げている。
真実の公開。
その四文字が、頭の中で重石のように圧し掛かっていた。
聖女制度の真実を世界に告げる。歴代の聖女たちが命を燃料にされてきたこと。教会がそれを隠蔽してきたこと。結界は一人の少女の犠牲の上に成り立っていたこと。「聖なる務め」は嘘で、「聖女」は人柱だということ。
人々はどう受け止めるだろう。
怒るだろうか。教会への信頼が崩壊するだろうか。混乱が広がるだろうか。結界が守ってくれていると信じていた人々が、その守りが少女の命の上に成り立っていたと知ったとき——恐怖が広がるだろうか。教会を責めるだろうか。あるいは——聖女を責めるだろうか。
教会は全力で否定し、反撃してくるだろう。大司教グレゴリウスは、リーリエを「魔王に唆された裏切り者」として糾弾するかもしれない。「結界の弱体化は聖女が職務を放棄したせいだ」と、既に民衆に訴えている。真実を告げようとするリーリエを、さらに「世界の敵」に仕立て上げることは——大司教には容易だろう。
そして——真実を知った人々が、それでも祈ってくれる保証はない。
祈りは自発的でなければならない。強制では力が生まれない。真実を知った上で、「それでもこの世界を守りたい」と願う人が——果たしてどれほどいるのか。
真実に怒り、混乱し、教会を恨み、聖女を憐れみ——そのあとで、祈ることができるだろうか。
「……わからない」
リーリエは額を膝に押し当てた。銀灰色の髪が膝の両側に垂れ下がる。
正しいことをしようとしている。それはわかっている。真実を隠したまま前に進むことはできない。けれど「正しい」ことが「うまくいく」保証はない。世界に真実を伝えることが、かえって混乱を招き、結界の崩壊を早めてしまう可能性すらある。
リーリエは目を閉じた。暗闇の中に、歴代聖女たちの顔が浮かぶ。炉との繋がりを通じて触れた、彼女たちの記憶の断片。名前も知らない少女たち。リーリエと同じように、命を削られ、苦しみ、やがて消えていった人々。
彼女たちは——声を上げることができなかった。
「聖なる務め」という名のもとに、静かに、誰にも知られずに死んでいった。世界はその犠牲の上に成り立っていることを知らず、聖女を敬い、教会に感謝し、平穏に暮らしていた。
扉が軽く叩かれた。
「入っていいか」
カインの声。リーリエは膝から顔を上げた。
「……どうぞ」
カインが入ってきた。手に湯気の立つ杯を持っている。温めた蜂蜜酒——リュカが作ったものだろう。甘い香りが部屋に広がる。リーリエの前に置き、向かいの椅子に腰を下ろした。
「飲め。温まる」
「ありがとう」
リーリエは杯を両手で包んだ。陶器の温もりが掌に沁みる。蜂蜜の甘い香りが鼻をくすぐる。一口飲むと、喉から胃に温もりが落ちていく。
「迷っているのか」
カインの声は静かだった。問い詰めるのではなく、確かめるように。リーリエの顔を見れば、一目でわかるのだろう。
「……ええ」
「真実の公開か」
「世界が、受け止められるかしら。聖女制度の真実を知って——人々は怒るでしょう。教会に裏切られたと感じるでしょう。信仰の根幹が崩れるのだから。その怒りが暴走したら、世界はもっと混乱する」
「それは起こり得る」
「結界が弱まっているこの状況で、社会まで不安定になったら——立て直しが間に合わないかもしれない。私の身体が持つ間に、第三の道を完成させなければならないのに」
「リーリエ」
カインが遮った。声は穏やかだが、芯がある。
「お前が決めろ」
リーリエは顔を上げた。
「俺はお前の隣にいる。お前がどんな決断をしても——賛成でも反対でも、一緒に結果を引き受ける。だから、お前が決めろ」
それは命令ではなかった。信頼だった。
カインはリーリエの判断を尊重している。五百年を生きた男が、十七歳の少女の決断を——対等なパートナーとして、委ねている。「俺が決める」とは言わない。「こうしろ」とも言わない。リーリエの意志を、尊重する。
それが——今朝「お前と生きたい」と告げた男の、愛の形だった。
リーリエは蜂蜜酒を一口飲んだ。甘くて、温かい。身体の芯まで温もりが広がる。
「……歴代聖女たちは」
リーリエが呟いた。声に力が戻ってくる。
「真実を伝えたかったと思う」
カインは黙って聞いていた。
「教会の祭壇で、命を削られながら——自分が何のために死んでいくのかを、誰にも知ってもらえなかった。『聖なる務め』という嘘の下で、静かに消えていった。何人も、何十人も。名前すら記録に残っていない人もいる」
リーリエの声が低く震えた。怒りだった。悲しみではなく——怒り。
「あの人たちの声を——世界に届けたい。『生きたかった』と。『ただの少女だった』と。『燃料ではなく、人間だった』と」
涙は出なかった。今朝、泣いたばかりだから。涙の代わりに、静かな怒りが胸の底に灯った。聖女たちのための怒り。
「でも——怖いのよ」
正直に言った。カインの前では、正直でいられる。
「世界が受け止められなかったら。人々が祈ってくれなかったら。すべてが無駄になるかもしれない。真実を伝えたせいで、もっと悪くなるかもしれない。その恐怖が——」
「恐怖で止まるのか」
カインの声は穏やかだった。問いかけであって、批判ではない。
「いいえ」
リーリエは首を振った。即座に。自分でも驚くほど迷いなく。
「止まらない。止まれない。歴代聖女たちの声を、私が止めてはいけない」
その声には——「生きたい」と宣言した今朝と同じ、揺るぎない芯があった。
星空は見えない。けれどリーリエは、窓の外を見上げた。雲の向こうに星があることを、知っている。見えなくても、ある。
カインがリーリエの手を取った。蜂蜜酒で温まった手を、大きな掌で包む。
「冷えてるぞ」
「温かいわよ。蜂蜜酒のおかげで」
「手が冷たいと言っている。指先」
「あなたの手が温かすぎるのよ」
「お前の手が小さいんだ」
「……それ、前にも言ったわね」
「事実は何度言っても事実だ」
リーリエの口元がわずかに綻んだ。
決断はまだ下していない。けれど——心は、もう動き出している。
歴代聖女たちの声を、世界に届ける。
その覚悟が、夜の闇の中で静かに固まりつつあった。明日の朝には、きっと——答えが出る。




