不完全な橋
仮拠点は、村の外れにある廃屋だった。
壁に罅の入った石造りの家。窓硝子は半分割れ、隙間風が吹き込む。天井の梁には蜘蛛の巣が張り、床板は軋む。それでも屋根があり、机があり、椅子がある。リュカが手早く整えた室内で、リーリエはカインと向き合って座っていた。
窓から射し込む午後の光が、埃の粒子を浮かび上がらせている。リーリエは光の中を漂う埃を見つめながら、意識を集中しようとしていた。身体はまだ重い。試行の消耗が、骨の芯に残っている。
机の上には、試行の記録が広げられている。カインが魔力で記録した結界の反応データ——目に見えない力の流れを、数式と図形で可視化したもの。一般の人間には理解できない代物だが、リーリエには読み取れる。聖女の知覚が、その図形の意味を直感的に理解させてくれた。五百年分の結界の構造が、紋章を通じてリーリエの身体に刻まれているのだから。
「失敗の原因は、二つ」
リーリエは図形を指でなぞりながら、静かに言った。疲労で声が掠れている。けれど頭は冴えていた。失敗の原因を解き明かすことは、次の一歩への道標だ。
「一つ目は明白です。祈りの絶対量が足りなかった。十数人では、節点一つを切り替えるにも遠く及ばない」
カインが頷いた。腕を組み、壁に背を預けている。その表情は冷静だが、目の奥に疲労の色がある。リーリエを魔力で支えた代償は、カインにも少なくなかった。五百年の蓄積があるとはいえ、結界の節点に干渉するレベルの魔力消費は相当なものだ。
「分散型に切り替えるには、その区画の結界を維持するだけの祈りのエネルギーが必要になる。一つの節点でも、必要量は十数人の祈りとは桁が違う。本番——世界全体の結界を切り替えるとなれば、数千人、いえ、万単位の人間の祈りが要る」
「この辺りの住民だけでは到底足りない、ということだな」
「ええ。それに——祈りの質の問題もある。真実を知らないままの祈りでは、力が弱い。理屈はわからないけれど、昨日感じたの。村人たちの祈りは真摯だったけど——どこか、芯がなかった」
「具体的に何が足りないのかは、追々分析するとして。二つ目の原因は」
「橋渡しそのものが不完全だった」
リーリエは図形の一点を示した。リーリエの紋章と節点の間で、力の流れが乱れている箇所。祈りのエネルギーが結界の構造変更に正しく伝わっておらず、大半が拡散して消えている。
「ここ。私の紋章と節点の間の変換効率が著しく低い。祈りのエネルギーを受け取って、結界の構造書き換えに変換する——その過程で、ほとんどの力が失われている」
「橋が歪んでいる、ということか」
「ええ。私の紋章と、炉の構造が、十分に同調していない。橋渡しをしようとしたけれど、橋そのものが曲がっていた。渡ろうとした力が、途中で落ちてしまう」
「同調が浅い原因は」
「……わかりません」
リーリエは正直に答えた。額に手を当て、眉を寄せる。初代聖女エルシェの研究ノートには、橋渡しの理論は記されていたが、具体的な方法は記されていなかった。いや、記す暇がなかったのだろう。エルシェは自らの命を炉に捧げる直前に、わずかな手がかりだけを遺したのだから。
「炉は聖女の紋章を通じて命を吸い上げる。その繋がりを逆流させるには、紋章と炉の間の……共鳴の深度を上げる必要がある。けれど、何が共鳴の深度を決めるのかが——」
言葉が途切れた。頭が重い。試行の消耗が、思考力にまで影響している。こめかみがずきずきと痛む。
「方法を見つける。必ず」
リーリエの声は、疲労に掠れていながらも、静かな決意に満ちていた。投げ出す気はない。失敗は想定内だ。最初から一度で成功するとは思っていなかった。
カインが壁から背を離し、リーリエの傍に歩み寄った。
「今日はもう休め」
「まだ分析が——」
「明日もある。頭が回らない状態で考えても、碌な答えは出ない」
「でも——」
「リーリエ」
カインの声が、少し強くなった。叱責ではない。心配が声に出たのだ。リーリエは口を閉じた。カインの深紅の瞳が、真っ直ぐにリーリエを見つめている。その目は「無理をするな」と言っていた。
反論しようとして、リーリエは口を閉じた。カインの言う通りだった。思考が霞んでいる。身体も重い。小規模な試行でさえ、これだけの消耗。本番の儀式では——
その先を考えることを、リーリエは意識的に止めた。今は休むべきだ。
カインがリーリエの後ろに回り、肩に手を置いた。大きな掌が、強張った筋肉をゆっくりと揉みほぐしていく。
「……何をしているんですか」
「頭を使いすぎだ。肩が石みたいになっている」
確かに肩が凝っている。紋章の鈍痛に加えて、試行中の緊張で全身が固まっていた。カインの手は不器用だったが、力加減だけは適切だった。剣を振る手が、リーリエの肩を揉む。五百年の技は、こういうところでも発揮されるらしい。
「あなたにもっと頭を使ってほしいわ」
「嫌味か」
「事実よ。力任せに解決できる問題ばかりじゃないでしょう」
「力で解決できないからお前の頭が必要なんだ」
「……それ、褒めているの?」
「事実を述べているだけだ」
軽口を叩きながら、リーリエの身体から少しずつ力が抜けていく。カインの手は不器用だったが、温かかった。数百年を剣と魔法に費やした手が、今はリーリエの肩を揉んでいる。その不釣り合いさが、おかしくもあり、くすぐったくもあった。
リュカが扉の隙間から覗いて、にやにやしている。リーリエと目が合うと、親指を立てて消えた。
「……あの従者、何かと察しがいいわね」
「無駄なところでな」
カインの手が止まった。リーリエの肩に手を置いたまま、窓の外を見つめている。
「あの一瞬の光——あれは確かに分散型の反応だった」
「ええ」
「完全な失敗じゃない。方向は正しい」
「ええ」
繰り返しのように。けれど、その二度目の「ええ」には、最初のものとは違う感情が込められていた。希望。微かだが、確かな。暗闇の中に見つけた、一筋の光。
「原因がわかったなら、あとは解決するだけです。祈りの量と、橋渡しの精度。この二つを克服すれば——」
「克服する方法がまだわからない」
「わからないなら、探すだけよ」
リーリエは振り返り、カインの目を見上げた。疲労に曇った薄い青紫の瞳が、それでもまっすぐにカインを見つめている。
「……お前は、強いな」
「強くなんかありません。ただ、立ち止まる余裕がないだけ」
カインは何かを言いかけ、飲み込んだ。代わりに、リーリエの頭にぽんと手を置いた。
「寝ろ」
「はい、はい」
リーリエは立ち上がり、奥の部屋に向かった。その背中が扉の向こうに消えてから、カインは一人、記録の図形を見つめ続けた。
——小規模な試行でさえ、これだけの負荷。本番は。
その問いに、答えは出なかった。窓の外の空が、夕焼けに染まっていく。




