もうひとつの研究
魔王城の書庫は、紙で溢れていた。
長机の上に広げられた設計図の写し。その横に積み上げられた歴代聖女の研究記録。五百年分の羊皮紙と紙束が、書庫の空気を古い紙の匂いで満たしている。蝋燭が三本、机の角に立てられ、紙の表面を橙色に照らしていた。
リーリエは机に向かい、エルシェの設計図と歴代聖女の記録を並べていた。
「第七代聖女アネリーゼの記録。炉の燃料供給路の観察日誌——彼女は十年間、炉との繋がりを通じて燃料の流れを記録し続けていたの」
リーリエが記録の束を広げると、細かい文字がぎっしりと並んでいた。日付、紋章の状態、体感した力の流れの方向と強さ。十年分の膨大なデータ。文字は整然としているが、後半になるにつれて筆圧が弱くなっていく。命が削られていった証だった。
「第十二代聖女マリーカの理論ノート。アネリーゼのデータを基に、炉の構造の一部を数理的に解析している。この人は数学に強かったのね」
リーリエの指が紙の上を滑る。数式と図形の連なり。聖女でありながら、学者のような知性を発揮した女性の記録。ノートの余白に小さな花の落書きがあった。それだけが、この記録の主が計算機ではなく、一人の少女であったことを示している。
歴代聖女たち。一人ひとりが、命を削られながら炉の構造を研究し、わずかな知見を次の世代に遺していた。教会に管理された聖女たちが、密かに——教会の目を盗んで。
なんとかしたい、という願い。同じ運命を繰り返させたくない、という祈り。
エルシェが最初に遺した種が、五百年の間に少しずつ芽を出し、枝を伸ばしていた。
「すごいわ……」
リーリエは呟いた。一人では完成しなかった理論が、世代を超えた共同研究として繋がっていく。パズルのピースが、一枚、また一枚と嵌まっていく。
カインが向かいの椅子に座り、リーリエの作業を見守っていた。歴代聖女の記録を分類し、年代順に並べる補助作業をしている。
「この記録の一部は、俺が集めたものだ」
「え?」
「五百年間、各地を放浪する中で、聖女の痕跡を追った。教会が処分しきれなかった記録を、古書市場や廃修道院から回収した」
リーリエはカインを見つめた。五百年間。たった一人で。聖女を救う方法を求めて、世界中を歩き続けた男。
「……カインさんが集めてくれたから、今、ここにあるのね」
「偶然だ。たまたま見つけただけだ」
「五百年分の偶然を、たまたまとは言わないわ」
カインが目を逸らした。
窓の外はとうに暗くなっていた。蝋燭の光が書庫を橙色に照らしている。三本のうち一本は芯が短くなり、溶けた蝋が受け皿に溢れかけていた。
リーリエは作業に戻った。エルシェの設計図の空白部分に、歴代聖女の研究データを当てはめていく。燃料供給路の観察データが、設計図の流路の図形と一致する。数理解析が、構造の強度と限界値を裏付ける。
「ここ——第七代の観察データと、エルシェさんの設計図の分岐点が合致するわ。燃料供給路は、炉の中核から六本の主幹に分かれて、そこからさらに枝分かれしている」
「六本の主幹か。結界の六方位に対応しているのかもしれん」
「そう。世界の六方位——東西南北と天地。六本の幹が結界の骨格を成している」
二人の会話が、静かな書庫に反響する。蝋燭の芯が時折爆ぜる音。紙をめくる音。炭筆が紙の上を走る音。
深夜。作業は続く。
カインが席を立ち、書庫の奥に消えた。しばらくして戻ってきたとき、手に二つの茶碗を持っていた。湯気が立っている。
「飲め」
「……ありがとう」
リーリエは茶碗を受け取った。温かい薬草茶。リュカが城に常備しているもので、リーリエの好みに合わせた配合だ。しかし今日、リュカは城の防衛に残っている。この茶は、カインが淹れたものだ。
一口飲んで、リーリエは小さく笑った。
「少し濃いわね」
「……文句があるなら飲むな」
「文句じゃないわ。温かいから、いいの」
カインが黙って自分の茶碗に口をつけた。照れているのがわかる。茶碗を持つ手が妙にぎこちない。
リーリエは茶碗を両手で包み、書庫の天井を見上げた。煤けた石の天井。この城の、この書庫で、何度こうして夜を過ごしただろう。
「ねえ、カインさん」
「なんだ」
「歴代聖女たちは……教会に命を奪われながら、それでも記録を遺していた。自分が救われなくても、次の世代のために」
「……ああ」
「この聖女、アネリーゼさん。十年間、毎日欠かさず観察日誌を書いていた。炉に命を吸われ続けながら、来る日も来る日も。最後の頁の字は……とても弱くなっているの。書く力すら残っていなかったのに、それでも書き続けた」
リーリエの声が微かに震えた。アネリーゼの最後の頁を思い出していた。文字というより、紙に引っ掻いたような線。それでも判読できるように、懸命に形を保とうとした筆跡。
「彼女たちの想いを、無駄にしたくない」
カインが立ち上がり、リーリエの隣に回った。何も言わず、リーリエの肩にそっと手を置いた。
大きな手の温もりが、肩を通じてリーリエの全身に広がっていく。
「無駄にはしない」
カインの低い声。
「お前が、繋ぐんだ。あいつらの研究を」
リーリエは頷いた。
「ええ。繋ぐわ」
茶碗を置き、作業に戻る。
蝋燭が短くなっていく。夜が深まる。しかし二人の手は止まらなかった。
空が白み始めた頃、リーリエの目が輝いた。
「七割……七割の構造が判明したわ」
机の上に広げた紙に、炉の構造図が描かれていた。まだ空白の部分はあるが、全体の七割が埋まっている。一点集中型の燃料供給の仕組み——その骨格が見えてきた。
「明日——いえ、今日か。残りの三割を埋めましょう」
「お前はまず寝ろ」
「もう少しだけ——」
「寝ろ」
カインの声に有無を言わさぬ響きがあった。しかし目は優しい。
リーリエは小さくため息をつき、椅子の背にもたれた。
「……意地を張るなって、いつも言うのね」
「お前が意地を張るからだ」
リーリエの目が閉じかけた。作業の興奮が収まると、一気に疲労が押し寄せてくる。紋章が微かに脈打っている。弱い光。命を削り続ける鈍い痛み。
カインが毛布を取りに行き、戻ってきて、椅子に座ったままのリーリエにかけた。
「……温かい」
リーリエが呟いた。もう半分眠っている。
カインは書庫の椅子に座ったまま、蝋燭の残りの光の中で、リーリエの寝顔を見守った。
銀灰色の髪が肩にかかり、白い肌が蝋燭の光に照らされている。華奢な肩が、毛布の中で微かに上下する。穏やかな寝息。
五百年前も、こうして——エルシェの寝顔を見守っていた。
しかし今は、違う。
あのときは、守れなかった。間に合わなかった。
今度は——間に合わせる。
カインは書庫の窓から差し込む朝焼けの光を見つめた。
設計図の統合は、あと少しで完成する。第三の道の姿が、日に日に輪郭を帯びていく。
しかし時間は——残り少ない。




