初代聖女の祈り
遺跡の研究室に、朝の光が斜めに差し込んでいた。
壁の隙間から入る光が、石壁の設計図を照らしている。昨日は暗がりの中で見た図形が、朝日に照らされると、また異なる表情を見せた。光の角度によって、刻みの深い部分と浅い部分の差が際立ち、エルシェが何度も書き直した形跡が見て取れる。
リーリエは壁面の注釈を、もう一度読み返していた。
「時間さえあれば、もう一つの道を」
走り書き。焦りに震える筆跡。
「一人の命ではなく、万の灯火で」
もう一つの注釈。こちらは設計図の端、壁と天井の境目に近い場所に、小さく書かれていた。昨夜の暗がりでは見落としていた。
リーリエは息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、頭が澄んでいく。
「万の灯火で」——それは、第三の道の核心を示す言葉だった。
一人の聖女の命という「強い炎」ではなく、万人の「小さな灯火」で炉を動かす。エルシェはその構想を持っていた。しかし理論を完成させ、実行に移す時間がなかった。
リーリエは注釈に触れた。指先が石壁の冷たさを伝えてくる。しかしその奥に、微かな温もりを感じるのは錯覚だろうか。エルシェの魔力の残滓が、まだ石に宿っている。
五百年前、この場所で。
エルシェは何を考えていたのだろう。
時間がない。結界が崩壊しかけている。一人で炉に命を捧げれば、世界は救える。でも——それを繰り返させたくない。次の聖女にも、その次の聖女にも、同じ運命を背負わせたくない。
だから走り書きを遺した。完成しなかった理論を、壁に刻んだ。いつか誰かがこれを見つけ、続きを書いてくれることを祈って。
リーリエの目から、涙が一筋こぼれた。
自分でも驚いた。かつてのリーリエは、泣くことすらできなかった。感情が凍結していて、涙の出し方を忘れていた。今は——泣ける。誰かの痛みに触れて、胸が締めつけられて、涙が出る。それは回復の証だった。
頬を伝う涙の温かさを、リーリエはしばらく感じていた。拭わなかった。エルシェの無念に、せめてこの涙で応えたかった。
「エルシェさん」
声が震えた。
「あなたの願いを、私が叶えるわ」
独り言が石壁に吸い込まれた。五百年の沈黙を破るように、言葉が遺跡の空気を震わせる。
背後で、足音が止まった。
振り返ると、カインが回廊の奥から戻ってきたところだった。一人で遺跡の別の区画を見に行っていたのだ。
カインの表情は、静かだった。リーリエの頬に涙の筋があることに気づいたのだろう。深紅の瞳が一瞬だけ揺れたが、何も言わなかった。涙の理由を問わない。問わずとも、わかっている。
「どうでしたか?」
「……何もなかった。研究室以外の区画は、ほぼ崩壊している」
カインは研究室に入り、壁面の設計図を見上げた。その視線が、注釈の走り書きに止まる。
「『万の灯火で』——」
カインが呟いた。五百年分の時間を超えて、エルシェの声を聞いているような表情だった。
「あいつは……最後まで、こんなことを考えていたのか」
「ええ」
「俺は——知らなかった。あいつが炉に向かったとき、こんな注釈を遺していたなんて」
カインの声に、微かな罪悪感が滲んだ。止められなかった。気づかなかった。五百年経った今になって、ようやくエルシェの最後の願いを知った。
しかし——過去と向き合い、「悼みながら前に進む」決意を固めたカインは、そこで立ち止まらなかった。
「……すまなかった、エルシェ」
カインが壁に手を触れた。エルシェの走り書きの横に、そっと掌を置く。掌の下で石壁が微かに温かいのは、残された魔力のせいか、それともカイン自身の体温が移ったのか。
「お前の時間を、俺は守れなかった。だが——」
カインが振り返り、リーリエを見た。
「こいつが、お前の願いを継いでくれる。俺も——手伝う。今度は、間に合わせる」
リーリエは頷いた。カインの深紅の瞳に、過去への悼みと、現在への覚悟が同居している。
「一人で背負わないで」
リーリエが言った。カインが眉を上げる。
「エルシェさんの遺志も、第三の道も。一人で背負おうとしないで」
「……俺は——」
「私もいるのよ」
リーリエは微笑んだ。目尻が少し下がった、温かい笑み。涙の跡が頬に残っているけれど、瞳には確かな光が宿っている。
「一人じゃないわ。あなたがいる。だから、一緒にやりましょう」
カインが黙った。長い沈黙の後、深く息を吐いた。肩の力がすっと抜けるのが見えた。
「……ああ。一緒にやろう」
二人は設計図の写しをまとめ、遺跡を出る準備を始めた。
壁面の設計図は、すべて紙に書き写した。注釈の走り書きも、一言一句漏らさず記録した。これが、エルシェが五百年前に遺した遺産のすべてだ。
遺跡の出口に向かう回廊を歩きながら、リーリエはもう一度振り返った。
研究室の入口が、暗闇の中に消えていく。五百年間、封印されていた場所。エルシェの執念と、未完の願いが眠っていた場所。朝の光が回廊の石壁に斜めの線を引き、埃が光の中で金色に舞っている。
「ありがとう、エルシェさん」
声にはならない呟き。しかし遺跡の空気が、微かに揺れたような気がした。
外に出ると、午前の光が眩しかった。目を細めるリーリエの隣に、カインが立つ。山の空気が澄んでいて、肺に入る一息一息が冷たく清らかだった。遺跡の中の密閉された空気とはまるで違う。生きている世界の空気だった。
「帰るか」
「ええ。魔王城に戻って、歴代聖女の記録と統合しましょう」
レオンハルトが馬車の準備をしている。リーリエとカインが遺跡から出てくるのを見て、「首尾は?」と聞いた。
「設計図の断片を見つけました。まだ足りない部分がありますけれど——大きな前進です」
「そうか。良かった」
レオンハルトが真面目な顔で頷く。この騎士は多くを語らないが、安堵の色が目に浮かんでいる。
馬車に乗り込む。帰路。
リーリエは座席に腰を下ろし、写し取った設計図の紙束を膝の上に広げた。疲れているはずだが、頭は冴えている。エルシェの遺した手がかりが、頭の中で回路のように繋がり始めている。
いつしか、まぶたが重くなった。馬車の揺れと、紋章が命を吸い続ける微かな倦怠。
気がつくと、リーリエはカインの肩にもたれかかっていた。
夢うつつの中で、カインの身体がわずかに強張るのがわかった。そして——ゆっくりと、力が抜ける。
カインは動かなかった。息を殺すように、リーリエの眠りを壊さないように。
リーリエの唇が、微かに動いた。
「……温かい」
寝言だった。
カインは何も言わなかった。ただ窓の外を見つめ、馬車の揺れに身を任せた。
深紅の瞳が、微かに潤んでいるように見えた。しかしそれは、午後の光のせいかもしれない。
馬車は魔王城に向かって走り続ける。
設計図の断片は手に入った。エルシェの遺志は、確かに受け取った。
次は——歴代聖女の研究記録との統合だ。五百年分の知恵を、一つに束ねる作業が始まる。




