五章 閃風のフローライト
私はいつも人より数歩遅れていた。
話すことも、何かをすることも、すべてにおいて半歩以上遅かった。トロくさくて、鈍くさくて、その遅さがとても疎まれた。
「鈍くさいったらないねぇ。使い物になりゃしない」
それは母親の口癖だった。
鈍くさい、使い物にならない、邪魔くさい。
そんな言葉の数々が毎日毎日降ってきた。
それなら私を使わなければいいのに、と言ったら思い切り打たれた。子どもは労働力なのだと吐き捨てられた。だからどんなに使い物にならなくとも親に従うもんだと言い聞かせられた。
「この家から出られたらいいのに……」
それは私の微かな願いだった。貧しい家ではなく裕福な家に産まれたかった。
そう言ったところで、栓のないこと。
親は子どもを選べない。
子どもも親を選べない。
だから互いに折り合いを付けて生きていくしかないのだと、幼心ながら思っていた。
暴力は、痛い。
打たれると身体に痣が残った。
暴言は、苦しい。
心を刺して、切り崩していくから。
そんなある日のことだ。
母親に言いつけられた買い物をしている最中、私は転んで籠の中身をぶちまけてしまった。その時、“優しい人”がそれを拾ってくれた。その人のお付きの人達も手伝ってくれてあっという間に籠の中身は元通りになった。
私の身体の痣や怪我について聞かれたけれど、私はそれには触れずにただお礼を言った。
けれど私がこけたことを知った母親から、何をしているんだと叱られた。“優しい人”達に叱られる姿を見られたくなくて、身を縮こませるようにして耐えた。
それから暫く経ったある日のことだ。
母親に呼ばれて薬草摘みをしていた手を止めると、家の中へと戻った。家の中には見知らぬ男の人と母親がわけの分からない話をしていた。
ただ、何かの紙に母親がサインをすると男は懐から金貨が大量に入った革袋を取り出し母親に放った。
「お母さん……?」
「あんたはもううちの子じゃないよ。貴族様のところへ行くんだ」
「貴族、様……?」
「産まなきゃよかった、育て方を間違えたと散々不幸を嘆いてきたけど金貨さえあれば幸せだわ」
「……っ!」
最後に言い残した母親の言葉が、私の心を殺すトドメになった。
半ば放心状態で、男に引きずられる形で家を後にするしかなかった。
空っぽの頭と心の中で、自分は必要とされてなかったのだと再認識させられた。
「私……要らない子だったんだ」
ザアァと黒い風が音をたてて逆巻いた。ビュウビュウと台風の時のような風が何処かから迸る。それに驚いた売人の男は私の手を弾くと馬車で逃げていった。
昏い瞳で、その後ろ姿を追いかける。けれど“何かをしよう”などとは思わなかった。ただただ、行く先がなくなったのだと……安堵のような、絶望のような形容しがたい感情が溢れた。
「居場所……なくなっちゃった」
帰る家はもうない。
迎えてくれる人もいない。
独りぼっちで放り出された私を、誰が愛してくれるのだろう。
「……………………」
いっそのこと全部壊してしまえば、スッキリするのかも知れない。そう思うと近くの納屋を風で吹き飛ばした。けれど、心がスッキリすることはなかった。
この心のモヤモヤが晴れて欲しい。誰かに愛されたいという気持ちだけが沸き起こる。
誰か私を必要として欲しい。
存在価値を与えて欲しい。
そう心の中で叫んでも、言葉は遠く届かない。
だって誰も、私のことを気に留めてくれる人なんていないのだから。それならいっそのこと命を絶ったほうが気楽だろうか。幸か不幸か、この風はそうすることができる。
何故かは解らないけれど、それだけは判った。
「……止めなさい」
その時、凛とした優しい声が響いた。
振り向くといつの間にか、以前街で出逢った“優しい人”が立っていた。その人は私の“黒い風”を恐れることなく傍に寄ると、そっと優しく抱き締めてくれた。
「行く場所がなければ、うちに来なさい」
そう言って私は“優しい人”の屋敷に連れてこられた。
綺麗な衣服と温かい食事を与えられながら、私はポツリと呟いた。
「此処で貴方に恩返しをさせて下さい」
「キミの名前は?」
優しいその人は問うてきた。
けれどもう、今までの名前に執着などなかった。
「…………。ありません」
「そうか。それなら――フローライトとキミのことを呼ぶとしようか」
「フローライト……」
その言葉を噛み締めながら、フローライトは小さく頷いた。




