変革開始直前状況
『あの、藤黄さん、この日記の持ち主を知っているんですか?』
・・・・そう、言いかけた時だった。
聞こえてきた音に、一瞬だけ、思考が止まる。
ガラスのコップを落としてしまった時に聞こえてくる、あの音。
それを10倍ぐらいにした轟音。
反射的に目瞑り、耳を塞いで、体を伏せる。
ただ、塞いだところで、耳はあらゆる音を拾ってしまう。
コンクリートや木、金属・・・・あらゆる材質で出来た校舎の一部が、崩壊し、潰れていく音。
錬夏はどうなった?
藤黄さんも気付けただろうか。
いや、あの騒ぎで気付いていない方がおかしいのだけれども。
あ、気付くとかの前に、ケガをしていないか、が優先事項か。
・・・・あれ?
何か、周りの景色が流れているみたい。
や、みたい、じゃなくて、そうだ。
黒い背景を細くて白い線で区切っただけの、平面的な世界が、視界に現れては消える。
それはもう、教室の中、なんていう場所ではない。
―― 気が付くと私は、既に高校の出入口を走り抜け、住宅街を疾走していた。
・・・・。
あれは、窓の割れる音だったように思う。何故か私の体は反射と本能だけで行動して、意志と理性を置き去りに、住宅街を駆け回っていた。
どうやら幸運な事に、私の方に『犯人』は来ているらしい。どうやって『3階の窓を割ったのか』とか、『どうすれば私と同じ速度で走れるのか』とか、考えたい事はたくさんあるけれど、今は『追いかけられている』という事実へ目を向けたほうが良いのだろう。
あいつは私の50m後ろにいて、周りが暗い色代表の黒である所為か、男女の区別がつかない。というか、後ろを振り返っている暇があったら走れということで、見ていない。
覚えている限りでは、かれこれ1時間は走っているけど、依然として差は縮まらない。私、20分完走で女子の平均数値を圧倒的に上回る周回数をたたき上げる上にまだ余裕がある体力を持て余す事しか出来ないというのに、あいつ、私と同じくらいにしか疲れていない?
・・・・。
というか、私に追いつけなくとも同じ速度でいられる人って、男子でも稀にしか見ない。例えば、一瞬だけだけれども本気の藤黄さんは私を追い越すほど速い。それとさすが兄妹、錬夏も速い。あとは、幼馴染の『あいつ』が、そう、かな。それだけ。
体育の先生でも、追いつかれた事はない。これはちょっとした自慢。
私はこの3人以外で私と同じ、もしくは私よりも足が速い人を見たことが無い。更に言えば、私の体力に付いて来られる人間は『あいつ』以外にいない。
―― あれ?
確か・・・・『あいつ』も冗談遊戯をしていたよね?
あ、いやいや、いくら私と同じような身体能力を持っていても、3階の窓を割って中に入るとか、そういう常識外れな事は出来ないだろうし、しもしないだろう。よって除外。
・・・・いや、案外的を射ている? 『あいつ』だったらかれこれ1時間も走っているのに私と同じくらいにしか息が切れていないという事にも納得が行くし。
・・・・まさか?
・・・・・・・・まさかまさか??
・・・・・・・・・・・・。
「あいつが・・・・っ?」
私はゆっくりとスピードを落としていく。遠くにある影も、それに合わせて少しずつスピードを落としてきた。まるで、私の影みたいに。
ただ、確実に近付いてくる。
私はスピードを落とした後、見知った公園の角で、完全に停止した。
影の方へ向き直る。影は息を切らしつつ、私のいる公園の角の、反対側の角で停止した。
東現、つまり現実の世界であれば、私の右斜め前にあるあのポストは、他よりも紅く見えるはず。
やはりこの世界では、ポストも黒に白らしい。
まぁ、若干黒過ぎるような気もするけど。
「なんて・・・・『冗談』が言えるほど暇でも無いかな?」
何が起こっているのか、分からなかった。
なのに、私という人間は何故、こんな時に笑っていられるのだろうか。
少なくとも、これは笑うような場面ではない、それは分かる。
少なくとも、私の知っている『あいつ』は、短髪、つり眼、黒い目だ。
少なくとも、今目の前にいる『あいつ』は、短髪、吊り眼、赤い目・・・・左の手にレイピアがある。
外見は『あいつ』にそっくりな、でも『あいつ』とは違う人なのかな?
・・・・いや、あれは絶対に『あいつ』だ。
証拠といえるものは何一つ無いけれど、私の勘は外れたためしが無いのでそういう事にしておこう。
あぁもう、そんな勘で『あいつ』じゃない人だったら、ごめんなさい。
―― 後できっちり謝ります。
無意識に握っていたECTから、2つの声が漏れる。
・・・・あれ、この声、どっちとも聞き覚えがあるかも。
そんな事はどうでも良い、重要なのは片方の内容だけだ。
それは、おそらく、このおかしな状況を終わらせる為の手段。
脳内に、嫌なイメージが浮かぶ。
紅よりも紅い世界と、蒼よりも蒼い世界。
どちらも、痛くて、寒くて、嫌な光景と感触。
『それはきっと勘違いだ』と身体は否定するけど、心の奥の方は、納得以上に受け入れている。
どちらも確かに身に覚えのないイメージだ。
けれども、まるで以前からこの状況を知っていたかのように、脳内でハッキリとそれは思い浮かぶ。
そしてそれらのイメージが、ありもしない痛みを身体に伝えていく。
そして、知る。
今、私が此処にいるのは・・・・。
私は、おもむろにECTを前方に掲げ、言った。
「 ― 《クリエイト》 ― 」
ECTから、鈴の音ような、澄んだ音が聞こえてくる。
その起動音と同時に、手の形が変わる。
手の形が変わるのと同時に、ECTから薄桃色の光が漏れる。
光が漏れるのと同時に、私は人差し指に力を入れた。
力を入れたのと同時に、大きな破裂音が聞こえた。
破裂音が聞こえたのと同時に、脇腹の辺りに鈍い痛みが走った。
痛みが走ったのと同時に、見えていた真っ黒な景色が回転した。
景色が回転したのと同時に、私の目に映ったのは『青い髪留め』と ――
―― 綺麗な黄金色が揺れる 《あの人》の 紅い 背中 だった ――
ひと段落です。・・・・やっと。