Day 14.卵
大学生との試合を終えた翌週の月曜日。
一輝はストレッチをしながら、ふと愛香を見る。
愛香は舞台の手前に立ち、真剣な表情でノートに何かを書き込みながら、メイサと話し合っていた。
メイサは頷いてから顔を上げ、すぐそばでスクワットをしていた大雅を見た。
「白石、もうちょい腰を落として」
「太もも痛いけど」
「だからなに? これくらい」
「うへ……」
大雅はぶつくさ言いながらメイサに従って筋トレを続けていた。
一輝が再び愛香へ視線を戻すと、今度は海斗の手首を取り、何かを話していた。
「黒杉、身体が止まってる」
いつの間にか隣へ来ていたメイサがしゃがみ込み、一輝の膝にそっと手を添えた。
「土曜日の試合の後、ちゃんとお風呂入った? 寝る前にストレッチした? 太もも、ちょっと固いね。痛いところある?」
「風呂は入った。ストレッチもした。ていうか愛香がうちに来てさせられた。痛くはない……いや、そっち曲がんないな」
一輝が素直に答えると、メイサは小さくうなずいた。
メイサの向こうでは、藤也がじっとこちらを見ていた。その視線に気づき、一輝は笑いをこらえた。
きっと先ほど、愛香が海斗の手首を確かめていたときの一輝も、今の藤也と同じような顔をしていたのだろう。
「まなちゃんが見てるなら大丈夫だね。うーん。腿の外側、痛い?」
「痛い」
「じゃあ今日は筋トレの内容調整しようか……それ、どういう顔?」
「いやそれ、愛香が了解してる?」
一輝が聞くと、メイサは呆れた顔になった。
「自分の体のことは自分で了解しなさいよ。ていうか私、まなちゃんから全権委任されてるから」
「そうなん……」
そんな話は聞いていない、と思いつつ、一輝はうなずいてメイサの手元のノートを覗き込んだ。
ページには、小さく丸い文字が隙間なく書き込まれていた。
愛香のノートもきっと同じようなものだ。けれど、そこに何が書かれているのか、自分は一度も気にしたことがなかった――その事実に気づき、一輝は少なからず衝撃を受けた。
「……わかった。何すればいい?」
「青川と一緒に手首足首のストレッチしようか。ちょうどまなちゃんが青川見てるから合流してきて」
「わかった」
「あんまりまなちゃんに甘えないんだよ」
「気をつける」
「あ、自覚あるんだね」
くすりと笑うメイサに見送られ、一輝は愛香のもとへ向かった。
一輝が愛香の後ろに立つと、海斗が笑顔で顔を上げた。
「黒杉先輩! 赤江先輩、あとは自分でやりますから!」
「駄目だよ。一輝、なに?」
海斗は一瞬で眉を下げた。どうやら一輝を口実に、少しでもサボろうとしていたらしい。
その企みは、あっさり愛香に見抜かれてしまった。
一輝は笑いながら愛香を覗き込む。
「太もも痛いから、今日は海斗と一緒にストレッチしろって三枝に言われた」
「ああ、そうだね。土曜の夜からちょっと張ってたから」
「気づいてたのかよ」
一輝は海斗の隣に腰を下ろしながら、半ば呆れたように言った。
「いや、言えよ」
「今まで言ったって聞き流してたから、もう私がわかってればいいかなって思ってた」
「さっき三枝に『自分の体のことは自分で了解しろ』って言われた」
そばで聞いていた海斗が呆れた顔をした。
「黒杉先輩、それ駄目な奴ですよ。うちの親父、自分のマイナンバーカードの場所すら把握してなくて、母親がいないと一人で病院にも行けないんです」
「自分のマイナンバーカードの場所くらい……どこだ?」
「一輝の家の押入れに母子手帳と一緒に入ってる」
愛香は海斗の足首をゆっくりと回しながら、顔を上げることなく答えた。
「なんで知ってるんだよ……」
「去年、一緒にインフルエンザの予防接種に行ったでしょ。あのときにおばさんが一輝の分のマイナンバーカードも私に預けてたから」
「ヤバいっすよ。もはや母親からも信用されてないじゃないですか」
「う、うるせえなあ……」
「それでよくばあちゃんと母親が喧嘩してますもん」
一輝が愛香を見ると、愛香は最後まで顔を上げようとはしなかった。
「あの、愛香さん?」
「よし。じゃあ海斗くんはこのまま筋トレに移ろうか。一輝は手首と足首、ちょっと見せてね」
「う、うん」
「あのね、私とおばさん、そんなに仲悪くないよ」
「そうだよな、よかった」
「でも彼女でもないのに一輝の世話、当たり前みたいにやらせないでほしいんだけど。一輝も、おばさんも」
一輝は口を閉じた。
先ほどメイサに『あんまりまなちゃんに甘えないんだよ』と言われたばかりだというのに、自分だけでなく家族まで当たり前のように愛香へ頼っていたらしい。
「ごめん」
「それに、彼女だからって、別に身の回りの世話をするわけじゃないから」
「そりゃそうだ」
「手首と足首で、痛いところあった?」
「大丈夫」
一輝はうつむく愛香のつむじをじっと見つめた。
愛香は真剣な顔で一輝の足首をあちこちに向けている。
「よし。じゃあ、二人で手首と足首、しっかりストレッチしてね。私は翔くん見てくるから」
一輝は愛香の小さな背中を見送りながら、自分の指先を反対の手でゆっくりと引いた。腕から手首にかけてが伸びて気持ちいい。
「なんで付き合ってないんですか?」
海斗が伸びをしながら聞いてきた。
一輝は愛香から視線を離せずにいる。
「……なんか、今更改めて言いづらくて」
「どうするんすか。赤江先輩が大学でモテたら。つーか三枝先輩だって、藤也いるのにたまに告られてますよ」
「どうしよう。いや、なんでそんなこと知ってんだよ」
一輝と海斗がメイサへ目を向けると、大雅にランジをさせながら指導していた。
大雅は泣き言を漏らしながらも嬉しそうに従っていて、それを藤也が噛みつきそうな顔で見ている。
一輝はため息をつき、再びストレッチを続けた。
***
放課後、練習を終えてから一輝は一足早く部室を出た。
スマホを取り出して愛香を呼び出す。
「あ、もしもし? あのさ、駅前に寄っていかねえ?」
『いいけど、なんで?』
「……アイス食べたい」
お前と、とは言えなかった。
『土曜も食べたじゃん。まあいいけど。じゃあ駐輪場で待ってるね』
一輝はスマホをポケットへしまうと、足早に駐輪場へ向かった。
「あれ、一輝一人?」
「……ダメだった?」
「ううん、みんな一緒かと思ってたから。どしたの、しおらしい顔して。熱ある?」
「ねえよ。行くぞ」
一輝は自転車にまたがると、ゆっくりと走り出した。少し遅れて、後ろから愛香が自転車をこぐ音が聞こえてくる。
初夏の夕風は蒸し暑さを残していたが、部活で流した汗が引きはじめると、一輝はなんとなく肌寒さを覚えた。
二人は特に言葉を交わさないまま、駅へとたどり着いた。
駅ビルの駐輪場に自転車を止めると、一輝は愛香と並んでアイス店へ入った。
「俺、パチパチするやつにしよ。愛香はチョコミント?」
「んーたまには違うのがいいな。抹茶にしよう」
「また緑色じゃねえか」
「そっちもじゃん」
「……ほんとだ」
コーンを注文し、一輝が受け取ろうとすると、店員はスプーンを二つ添えてくれた。一輝が首をかしげながらその一本を愛香へ差し出すと、愛香は苦笑した。
「半分こすると思われたんでしょ」
「なんで?」
「……カップルっぽく見えたんじゃない?」
「ふうん。別にスプーンなくてもいいけど……食う?」
一輝がコーンを差し出すと、「食べる」と愛香は小さく笑ってアイスにかぶりつく。
だが、返ってきたアイスはほとんど減っていなかった。
「一輝も食べる?」
「食べる」
一輝がアイスにかぶりつくと、一口で三分の一ほどなくなった。
「……ああ、口が小さいのか」
一輝が納得したようにうなずくと、愛香は肩を落とし、悲しそうにアイスを見つめていた。
「た、食べすぎでしょ!? 私の抹茶アイス……」
「悪かった。だからスプーンがあんのか」
「もー、気をつけてよね」
そう言って唇を尖らせた愛香の頬には、一輝が差し出したアイスが少しついていた。一輝は自然と手を伸ばし、その跡をぐいぐいとぬぐった。
『どうするんすか。赤江先輩が大学でモテたら』
ふと、海斗の言葉を思い出した。
もし、愛香の頬を他の誰かがこんなふうにぬぐっていたら。
「……ムカつくなあ」
「なにが?」
思わず漏れた言葉に、愛香がきょとんと顔を上げた。
「なんでもねえよ。悪かったから、こっちもうちょっと食っていいよ」
一輝は食べかけのアイスを愛香へ差し出した。愛香は一輝の手の上からコーンを握って顔を寄せる。
今度はさっきよりも大きく口を開けていて、そのことに一輝はひどく安心した。
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