プロローグ
幸せな夢を見ることと、辛い現実を見ること。どちらが真に幸福と言えるだろうか──とある科学者の手記より抜粋
「んんっ...」
窓から差し込む暖かな光で微睡みから目覚める。
いつもは布団の魔力に襲われて毎朝体が起きるのを拒むのだが、今日は珍しくすっきりと起きることができた。
ぐっと伸びをし固まっていた体をほぐす。
窓へと目を向けてみれば、そこには雲一つない澄んだ青空が広がっていた。
ーー今日はなんだかいいことが起こりそうだ。
そんな予感に誰とも知れず、胸を躍らせていると、ふと扉の外から微かに香ばしい匂いが漂ってきた。
その先に居るであろう人を想い、思わず笑みがこぼれる。
「おはよう、悠哉くん」
扉を開けると、キッチンで料理をする彼ー柊 悠哉の背中が目に入った
フライパンを返していた彼の手が止まり、彼が振り向く。
「あ、おはよう陽菜」
いつも同じように迎えてくれるその声に、胸の奥がじんわりと暖かくなった。
先に起きてご飯を作ってくれるのはありがたいけれど頼りっきりになってしまいそうで少し心配にはなってしまう。
「今日は何作ってるの?」
「普段通りだけどパンとおかずにサラダとコーンスープだな」
「いつもありがとうね。でも、少しは私に任せてくれてもいいんだよ?」
まだ少し眠い目をこすりながら思ったことを伝えておく。
「私だってお料理できるし、というか将来お嫁さんになるんだったら私がやるべきなんだし」
「まぁ、うん。そうだけど...。なぁ...」
なんとも言えない表情で悠哉が言葉を濁す。しかしそれとは裏腹にその視線はある一点に向けられていた。
一体何が不満なのだろうか。
少し不満を抱きながらも悠哉が見ている方向に目を向ける...
「あ、はい。すみませんでした」
「わかればよろしい」
それだけで伝えたかったであろうことを完全に理解したためとりあえず謝っておく。
今の時刻は7時半過ぎ。今からご飯を作り始めていたら到底学校には間に合わなくなる時間だ。
いや、私だって起こされれば素直に起きれるし、そこをあえて起こしてくれなかったのは悠哉の
優しさなわけだし...。
だから私は悪くない!!そう、私が負い目を感じることも反省する必要もないはずだ!!
「はいはい、そこ。考え事してないで早く支度してきて。ご飯冷めるよ」
なんていう自分でもアホらしいと思う事を考えていたら急かされてしまった。
ちくせう。
私と悠哉くんは、去年静岡の同じ高校を卒業して、そのまま同じ大学に進学した。
名前を出せば誰もが知っているような大学ではない。それでも、ここに来るためにそれなりに努力はしたし、後悔はしていない。
なにより──
「一緒にいられるしね」
鏡の前でぽつりと呟いたものの、自分で言っておいて少し照れてしまった。
元々は別々の家で暮らして、大学を一緒に通う予定だったのだが、今こうして同棲しているきっかけは、ほんの小さな軽口だった。
「同棲とか、ちょっとしてみたいかも」
当時実家を離れ、寮生活をしていた私にとって大好きな人との同棲というのは一つの憧れであった。
あのときは、まさか本当に実現するとは思っていなかった。
けれど気づけばとんとん拍子で話は進み、両親に至っては悠哉くんに「娘をよろしくお願いします」と頼む始末。
自分の生活力が低いのは認めるが、少しは抵抗されるものだと思っていたので拍子抜けした。
まぁ、結果として勢いで踏み出す事となった選択だったが、間違いだったとは思わない。
むしろ──
「……幸せだなぁ」
そう、自然に思える。
彼との生活に不満はない。
むしろ心の底から今が幸せだと断言できる。
この暮らしが1秒でも長く、願うならば一生続けばいいのにと思う。
自分の隣に大切な人がいてくれる。それがきっと私にとっての幸せのカタチなのだろう。
「ごちそうさま〜」
「はい、ご馳走様」
朝ご飯を二人で食べてから着替えまで済ませて準備は万端だ。
「ねぇー、もうそろそろ行こうよ〜」
「まだいいだろ、早いんだから。何より俺の準備が終わってないわけだし」
「時間はあったじゃん、なんでやってないのさ」
「今食べたご飯は誰が作ったと思ってんだよ」
至極当然の意見ですね、はい。それ言われちゃこっちとしても言い返せないんだけど...。
「それもそうだけどさぁ、私だって早く学校行って教室でイチャイチャしたいんだもん」
「ちょい待ち...。はぁ、わかったから少し待っててくれ」
ここまで急かしてようやくその重い腰を上げてくれた。
足早に身支度に取り掛かる悠哉くんだったが、私はその耳が赤くなっていることを見逃さなかった。
ふふっ、かわいいなぁ。
少々時間がかかりそうなので先に外に出て待っておく。
ドアを開けるとその隙間から心地の良い風が流れ込んでくる。
玄関から見える景色はいつもと変わらない。けれど今はそのことがたまらなく嬉しかった。
「ごめん、少し待たせた」
身だしなみを整え終わった悠哉が玄関に鍵を掛ける。
「大丈夫!それじゃあ、行こうか」
「そうだな」
カバンを肩にかけ直しながら悠哉がこちらに向かって手を差し出してくる。
付き合い始めたときは恥ずかしがっていたが今となっては日常の一コマだ。
迷わず手を取って二人並んで歩き出す。
これが私と悠哉の日常。
これが私の幸せ。
こんな日々が一生続けばいいと思う。
「えへへっ、大好き」
嬉しさのあまり思わず口からついて出た言葉だったが悠哉は何も言わずに繋いだ手をぎゅっと握り返してくれた。
さて、今日はどんな一日が待っているのだろうか。
「いってきます!」
ピ…ピピ……ピピピ
繰り返される機械音が急激に意識を引き上げる。
「…ふぅ」
寝起きで上手く働かない脳に鞭を打ち、ゆっくりと上体を起こす。
時計を見ると、時刻は6時半を少し過ぎたところだ。
何か夢を見ていたような気がするが、その記憶も既に不確かで取り留めのない物になってしまった。
「……ッんん」
自分が眠っていた場所の左隣に目を向けてみれば、穏やかな顔をした彼女―朝ヶ谷 陽菜が静かな寝息を立てていた。
その寝顔が可愛らしく、愛おしいと感じてしまうのも、自分の欲目というものであろう。
間違えて陽菜を起こしてしまわないように、静かに寝室を出る。
リビングに出ると春も半ばを過ぎたにも関わらず、冷たく乾いた空気が頬を撫でてくる。その不快感に如何ともし難いものを感じつつ、カーテンを開けて部屋に明かりを取り込む。しかし、窓から見える空は一面の曇天で、ほとんど光が差し込むことは無い。
部屋の明かりは使えなくなって久しい。どこかが壊れているという訳ではなく、そもそも電気が流れていないからだ。
3日前の配給で受け取った飲用水を軽く口に含み、うがいをする。
ベランダで日に当てていた災害用ラジオを手に取り、電源を入れる。ツマミを調節すると、次第に砂嵐の雑音の中に人の声が混ざり始める。
『……な…ざ……よう……これを…いてる日本の生き残り諸君、ようこそ2032年5月25日の終末チャンネルへ。』
陽気な音楽と共に流れてくる男の声。
正体不明の自称DJ「トミー」と名乗る人物が毎日行っているラジオ。これがテレビ局などが軒並み存在しないこの現代日本で、唯一のメディアだ。
『さて、日本が滅んでから約2年が経った今日この頃。いかがお過ごしだい?』
別段集中して聞いているわけではない。ただ、無いよりマシというだけの理由だ。我が家の壁にかかっているカレンダーは2030年のもの。曜日の部分を書き換えて利用している。
ふと、一昨日から何も入れていない腹が空腹を訴えてきた。
あまり多くを食べることはできないが、何も食べない訳にもいかない。そう考え、キッチンに置いてあるクーラーボックスを開き、中から配給食を取り出す。
配給「食」と銘打ってはいるものの、その見た目は控えめに言っても食べ物であるとは思えない。茶色か灰色の固く、乾いた塊。所謂「ディストピア飯」というもの。
ありとあらゆるライフラインが破壊し尽くされ、食糧生産すらままならない現状、カロリーと必要最低限の栄養素をいかに効率よく摂取するかを目的としているため、文句は言えない。ほとんど味のしないそれを水とともに一気に胃へと流し込んだ。
不味い。
味がしないが故に、噛み終えたガムを噛み続ける様な吐き気を伴う感覚だけが残るのだ。何度食べても慣れない味というのは最早希少なのかもしれない。
少し呼吸を整えているとガチャリと背後から扉が開く音がした。
振り向くとそこには、ちょうど今起きたらしい陽菜の姿があった。
「ああ、起きたのか」
「んっ、おはよう。今日は何を作ってるの?」
俺はその質問に答えることはない。
それにも関わらず陽菜は一人で「俺」と会話を続けている。
その瞳は虚ろで、焦点が合っていなかった。
確かに意識ははっきりとしている、話せる、歩ける。
だが、彼女は今も夢を見続けている。
目覚めることのない幸せな夢を...
始まりはただの会話だったそうだ。
毎朝の挨拶をして、朝食を食べる。そんないつもと変わらない日常に、ほんの少しの違和感が混ざってる、そんな小さな物。誰しもが無視をしていたソレは気づいた時には既に手遅れに近かった。
1人、2人と増えていった違和感は、いつしか爆発的な現象として認知されるものとなったのだ。
曰く、起きているのに目覚めない。
曰く、話ができているのに会話できない。
曰く、夢の中に囚われている、と。
その病気は意識があるにも関わらず幻覚や幻聴に世界を支配され起きているのに夢を見ているかのようになる、というものであった。
一例目の感染者が確認されて以降それは急速に拡大し、ものの一ヶ月で感染者は三万人にも上った。
正体不明、感染経路不明の未知の病気と約80年振りに勃発した世界大戦。情報が錯綜し得体のしれない恐怖が身近に迫りくる中、日本は混迷を極めた。
誰が正気なのかも分からず、まともな統率も取れない中、日に日に本土への被害は増加していった。
その結果、抵抗虚しくありとあらゆる物が破壊され、大都市はその機能を完全に停止させた。
荒廃した街中を残された人々が食料やエネルギーを求め彷徨い歩く。
電波システムも崩壊し、今まで当たり前のように享受していた情報も手に入らなくなり身近なものの安否すらもわからない状況。
誰しもが今日という一日を過ごすのに必死になっていた。
そんな中を夢に囚われた亡者達が幸せそうな心地で彼らの「世界」を生きている。
やがて誰かがこう呼び始めた
「楽園症」
変わり果ててしまった世界にいながらもその意識はそれぞれの楽園に存在する。
今という時において彼等こそが一番の幸福であり一番の不幸である、という皮肉が篭った名であった。
陽菜も「楽園症」感染者の1人だ。その発言から伺う限り、どうやら大学二年生として共に暮らしていた時の思い出を延々と繰り返しているらしい。
幸いだったのは陽菜が辛い夢を見ていない事と、この世界で生きていくための仕事を提供してくれる組織が近くにあった事だろう。
約2年と少し。俺と陽菜はこうして東京の家で暮らしている。
そのことを苦だと思ったことは無い。
「ねぇー、もうそろそろ行こうよ〜」
身だしなみを整え普段着に着替えた陽菜が呼びかけてくる。
「大学生」である以上、一週間の内5日は少なくとも登校しなければならない。
「そうだな、少し待っててくれ」
伝わっているかもわからない言葉を告げ身支度を始める。
髪を整え、鞄に荷物を詰めていく。本や折りたたみ傘、任された仕事の報告資料。…そして刃渡20センチを、超える軍式のナイフ。
悲しい事に、この世界で誰もが平和に物資を分配して生きれる訳ではなかった。故に、自衛のための手段がどうしても必要になるのだ。これがこの世界で生き残る条件。
その冷たく、確かな重さを感じながら玄関へと向かった。
ドアを開けると湿った生暖かい風が入り込んでくる。
見上げる空は一面の分厚い雲に覆われておりなんとも陰鬱な雰囲気を醸し出している。
「待たせたな」
「大丈夫!それじゃあ、行こうか」
扉に鍵をかけながら陽菜に手を差し出す。
手を繋ぐことは付き合い始めた当初はなんとも気恥ずかしいものがあったが今となっては日常の一コマだ。
しかしそれも今となっては過去の話だ。
彼女の春の陽射しのような笑顔を守るためには人殺しも厭わない。
これが俺と陽菜の日常。
これが俺の償い。
この日々を守るために生き続ける。
「えへっ、大好き」
その言葉は最早俺に向けられたものじゃないのかもしれない。
だが、そう呟く陽菜はどこまでも幸せそうであった。
「……あぁ、俺も愛してる」
たとえ、言葉が伝わらなくとも、握りしめた手の温もりが偽りのものだろうとも…
「行ってきます」




