使者の顔
朝靄が鳳凰領の城門を薄く覆っていた。
秋の終わりの朝は冷える。吐く息が白く、城門の番兵たちは手を擦り合わせながら街道の遠くを見つめていた。城壁の石積みには夜露が光り、足元の草に霜が薄く降りている。
麗華は城門の内側で春蘭と並び、使節の到着を待っていた。
「予定通りなら、そろそろですね」
「はい。斥候の報告では、使節一行は昨夜のうちに鳳凰領の境に入っています。馬車三台、護衛の騎兵が十名ほど。正使一名、副使一名、書記官一名の構成です」
「正使と副使の人選は?」
「正使は礼部侍郎の周鶴齢殿。温厚な老官吏で、朝廷内では穏健派として知られています。外交儀礼の実務に長けた方と聞いています」
「周大人ね。後宮時代に何度かお見かけしたことがあるわ。悪い人ではなかった」
「副使が問題です。戸部侍郎の張文遠。趙宰相の腹心です」
麗華の唇が、かすかに弧を描いた。
(やはり——送り込んできたわね)
「春蘭。張文遠という男のことは、どこまで調べがついている?」
「後宮時代にお嬢様の弾劾工作に関与した記録があります。蘇家との連絡役を務め、偽証の証拠書類を整備した実務官です。実直な官吏ではありますが、趙宰相への忠誠心が極めて強い」
「実直ね。趙宰相にとっては使いやすい駒ということだわ」
春蘭が淡々と報告する。麗華は薄い笑みを浮かべたまま、城門の外に目を向けた。
街道の向こうに砂塵が見える。朝靄の中を馬車の影が揺れ、蹄の音と車輪の軋みが近づいてくる。
「来ましたね」
麗華は袖を整えた。今日の装いは、藍染めの交領袍に鳳家の深紅の腰帯。袖口から覗く白絹の中衣は上質だが華美ではない。簡素だが品がある。廃妃の惨めさなど微塵も見せない——それが第一印象の戦略だ。
(追い出された女が、みすぼらしい格好で出迎えると思った? 残念だけれど、鳳凰領には衣の生地にも困っていないのよ)
馬車が三台。護衛の騎兵が十名ほど。先頭の馬車の帳が開き、一人目の男が降り立った。
白髪交じりの穏やかな老人。官服は礼部の深緑で、胸に銀の官章をつけている。周鶴齢——礼部侍郎。朝廷の外交儀礼を司る穏やかな官吏で、敵意のない人物だと春蘭の事前調査にあった。
「鳳家の御当主——いや、鳳麗華殿ですかな」
周鶴齢は腰を折り、丁寧に礼をした。
「ようこそ、鳳凰領へ。長旅でお疲れでしょう」
麗華が微笑む。穏やかな笑み。だが春蘭だけが知っている。この笑みの裏で、麗華の目は二台目の馬車から降りてくる男に向いていた。
二人目。四十がらみの痩せた男。戸部の官服を纏い、目が鋭い。頬骨が張り出し、薄い唇が一文字に結ばれている。
張文遠。戸部侍郎にして、趙文昌の腹心。
(——来たわね、宰相閣下のお使いが)
麗華の内心は冷静だった。張文遠の名は後宮時代から知っている。趙文昌の右腕として暗躍し、鳳家への弾劾の裏工作にも関与した男だ。
「張侍郎。お目にかかれて光栄です」
「……鳳殿。こちらこそ」
張文遠は形ばかりの礼を返した。その目が、城門の内側を舐めるように見渡している。城壁の石積みの状態、門番の数と装備、城門の幅と奥行き——一瞬のうちに情報を吸い取る目だ。官吏の目ではない。偵察者の目だった。
(予想通り。交渉は建前。この男は偵察に来た。城門を潜る前からもう情報収集を始めている。——分かりやすい人ね)
三人目の使者は書記官だった。二十代半ばの若い男で、筆と紙筒を抱えて馬車から降りてくる。緊張した面持ちで周囲を見回し、記録に使うのであろう硯箱を大事そうに抱えている。
「さあ、まずはお体を休めてください。お部屋と軽い食事を用意してあります」
麗華は使節を屋敷の客間に案内した。
城門から屋敷までの道のりを、あえて市場を通る経路にした。朝の市場は活気に満ちている。魚屋が桶に入った川魚を並べ、八百屋の軒先には鮮やかな青菜が山積みにされている。餅屋の蒸籠からは白い湯気が立ち昇り、甘い香りが通りに漂っていた。
領民たちが好奇の目で使節を見ている。しかし飢えた顔は一つもない。頬に血色がよく、子供たちは走り回っている。母親が子供に蒸かしたての饅頭を手渡し、子供が頬張りながら笑っている。
使節たちの目が泳いだ。帝都の惨状を知る彼らには、この光景が信じられないのだろう。周鶴齢は市場の品揃えをじっと見つめ、何度も口を開きかけては閉じている。張文遠は表情を消していたが、目だけが忙しく動いていた。品物の種類、量、価格——おそらく全てを記憶しようとしている。
(見なさい、張侍郎。これが鳳凰領の日常よ。あなたが帝都で見ている惨状とは、別の国のようでしょう?)
客間に通すと、春蘭が茶と蒸し菓子を運んできた。
蒸し菓子は三種。蓮の実の餡を包んだ蒸し饅頭、棗の甘露煮を練り込んだ桂花糕、そして薄い餅皮に胡桃と蜂蜜を挟んだ胡桃酥。
周鶴齢が桂花糕を一口かじり、目を見開いた。
「これは——桂花の香りが、これほど鮮やかに」
「鳳凰領の桂花は霜が降りる直前に摘みます。その時期が一番香りが濃いのです」
麗華は穏やかに説明した。
張文遠は蒸し菓子に手をつけず、茶だけを啜っている。だがその目は菓子の出来栄えを見ていた。帝都の宮廷菓子にも引けを取らない——いや、今の帝都にこれだけの材料が揃うはずもない。蓮の実も棗も胡桃も蜂蜜も、全て鳳凰領産なのだ。
書記官の若い男だけは遠慮なく菓子を食べていた。胡桃酥を一口かじり、目を丸くしている。蜂蜜の甘さと胡桃の香ばしさが口に広がったのだろう。二つ目に手を伸ばしかけて、張文遠の視線に気づき、慌てて手を引っ込めた。
(食で見せつける。第一手は成功ね。正使は素直に感動し、副使は焦りを覚え、書記官は——まあ、若い人は正直で結構だわ)
使節たちが客間に落ち着いた後、麗華は廊下で春蘭と合流した。
「春蘭」
「はい」
「張文遠の荷物を調べて。特に文書類。趙宰相からの密命があるはずです」
春蘭は頷いた。
「それと——」
麗華は廊下の先に目を向けた。中庭の向こう、暁風の仮宿がある方向だ。
「陸将軍には巡検の案内役をお願いしたいと伝えて。使節に領地を見せるとき、あの方が説明した方が説得力がある」
「監視役が案内役ですか。皮肉なものですね」
「皮肉ではないわ。暁風殿は嘘がつけない人だもの。正直な案内人ほど、効果的なものはないでしょう?」
麗華は微笑んだ。
秋の風が廊下を吹き抜け、庭の木の葉を散らした。
交渉の幕が——今、上がろうとしていた。




