芽吹き
一月が経った。
各地から報告が集まっている。麗華は帝都の客館の執務室で、霊脈地図の上に届いた報告書を一枚ずつ並べていた。
窓の外では冬の帝都が白い息を吐いている。街路を行き交う人の外套が厚くなり、屋台からは白い湯気が立ちのぼっている。だが執務室の中は報告書の山に囲まれて、熱気すら感じる。
東部——接続後の霊脈は安定。周辺農地の土壌温度が上昇傾向。荒地化の進行は完全に停止。術者三名は全員健在、うち負傷した一名も回復し通常業務に復帰。
南部——山間部の霊脈が活性化し、枯れていた沢に水が戻り始めた。三年間涸れていた沢に、最初の水音を聞いた村人が泣いたという添え書きがあった。報告書の端が、涙で滲んだように波打っている。
西部——河川域の水質が改善。魚が戻ったとの報告あり。漁村の子供が川で魚を捕ったのは、生まれて初めてのことだったという。術者の報告書の端に、小さな魚の絵が描いてあった。ひれの位置がおかしいが、喜びだけは伝わってくる。
北部——草原地帯に新しい草が芽吹いている。牧畜民が驚いている。冬の間に馬の餌が尽きることが常だったが、今年は草が残っていると。遊牧の老人が「大地が息を吹き返した」と語ったと、報告書の末尾に記されていた。
鳳凰領——荒地化の進行は停止。南端の荒地で小規模ながら植物の自然発生を確認。春蘭からの報告には、具体的な場所と植物の種類が記されていた。名もない雑草だが、灰色の大地に根を張ったその事実が——全てだ。
麗華は全ての報告を読み終え、筆を置いた。
「止まった」
暁風が顔を上げた。壁際の椅子に座り、剣の手入れをしていた手が止まる。
「荒地化が?」
「ええ。全域で進行が停止しているわ。一月分のデータが揃った。——霊脈再生は、成功よ」
声が震えた。
分かっていたことだ。儀式の成功は確認済みだった。各地のポイントで霊脈の脈動を確認し、ネットワークの接続を検証した。理論的には成功していた。
だが、一月分のデータが揃って——初めて、実感が湧いた。
止まった。
百年間、瑛朝を蝕み続けてきた荒地化が——止まった。
もう灰色の大地は広がらない。もう畑が枯れていくのを見なくていい。もう「あと何年持つか」を数えなくていい。
暁風が立ち上がり、麗華の隣に来た。
「よくやった」
「みんなが、やったのよ」
「ああ。だが——お前がいなければ始まらなかった」
学士院の記録官が正式な報告書をまとめ、朝廷に提出した。
承乾から返書が来た。
——報告を受けた。瑛朝の未来が開けた。全ては鳳麗華と術者たちの功績である。朕は、この恩を忘れない。
短い文だったが、承乾の筆跡には力が込もっていた。「忘れない」の三文字が——かつて廃妃を命じた手で書かれている。その重みを、麗華は指先で感じ取った。
翠微から手紙が来た。
——先生。あたし、三日間寝込んでやっと動けるようになりました。春蘭姐さんの粥で復活です。あの粥、先生の味に似てました。春蘭姐さんに言ったら「当たり前でしょう、十五年お嬢様の傍にいたんですから」って怒られました。
麗華は思わず笑った。
——それで、見てほしいものがあります。
同封されていたのは、一枚の押し花だった。
小さな、白い花。五枚の花弁が薄く透き通り、押されてもなお微かに香りが残っている。
荒地に芽吹いた植物の——最初の花だ。
「先生。芽が出ています」
翠微の声が、手紙の文字から聞こえるようだった。あの明るい声。「先生、見て!」と言いながら駆けてくる姿が目に浮かぶ。三つ編みの髪を揺らして、土のついた手で花を差し出す姿。
麗華は押し花を手に取った。
小さい。本当に小さい花だ。指先に載るほどの。風が吹けば散ってしまいそうな儚さ。
だが——これが、百年ぶりの芽吹きだ。
荒地だった土地に、花が咲いた。灰色しかなかった大地に——白い花が。
麗華の目から涙が溢れた。
今度の涙は——止められなかった。
復讐を決意したときも泣かなかった。朝廷を詰ませたときも泣かなかった。祖父の秘密を知ったときも、暁風に告白されたときも——こらえた。微笑みの貴妃は泣かない。それが麗華の矜持だった。
だが今日は——止められない。
「暁風」
「ああ」
「泣いているわ、また」
「ああ。知っている」
「止められないの」
「止めなくていい」
暁風が麗華の肩に手を置いた。大きな手。武骨で温かい手。その手の重みが——支えになる。三年間、何度もこの手に支えられてきた。
麗華は涙を流しながら、笑った。
泣きながら笑うという矛盾した表情が、麗華の顔に浮かんでいた。だがそれは矛盾ではなかった。喜びと安堵と疲労と感謝と——百年分の重荷が下りた瞬間の、全ての感情が一つになった顔だった。
完全回復には数十年。
だが道は——確かに、開かれた。
押し花を大切に手紙に挟み直し、卓の上に置いた。
窓の外は冬の帝都。冷たい風が吹いている。だが——春は来る。必ず来る。
(祖父様。咲きましたよ。荒地に——花が、咲きました)
心の中で祖父に報告した。
老太爺の声が——聞こえた気がした。
——よくやった、麗華。よくぞ——開いてくれた。
涙を拭い、麗華は深く息をついた。
まだやることはある。完全回復への道は長い。各地の霊脈の維持管理。新しい術者の育成。農業の復興。朝廷との協力体制の整備。食糧流通の再編。各地の食文化の復活。
数え上げれば、きりがない。
だが——もう怖くない。
一人ではないから。
麗華は暁風を見た。暁風が真っ直ぐに麗華を見つめ返す。不器用な男だ。感情を言葉にできない。だがその目が——全てを語っている。
「腹が減った」
暁風が言った。
麗華は一瞬呆気にとられて——それから、声を上げて笑った。
「あなたは——こういうときにそれを言うのね」
「泣いた後は腹が減る。あんたが教えてくれた」
「私はそんなこと教えていないわよ」
「でも事実だ」
麗華は涙を拭い、立ち上がった。
「じゃあ作りましょう。粥を」
「翡翠粥がいい」
「あら、注文までするの」
「二人分だ」
「当たり前でしょう」
厨房に向かう麗華の足取りは軽かった。涙の跡が頬に残っているが、口元には笑みが浮かんでいる。
米を研ぐ。青菜を茹でる。粥を炊く。この一連の動作に、麗華の全てが込められている。
食は武器になった。だが食は——命を繋ぐものだ。
荒地だった土地に最初の穀物の芽が出る。やがて穂が実り、収穫され、食卓に並ぶ。人がそれを食べ、笑い、生きる。
食は命だ。
そして命は——食卓で繋がる。
翡翠粥の薄緑色が、椀の中で朝日を受けて輝いた。
鳳凰領の食卓に、今日も陽が差す。そしてこれからは——瑛朝全土の食卓に、少しずつ、陽が差し始める。
麗華は笑った。涙を流しながら、笑った。
暁風が向かいで粥を啜った。一口食べて箸が——いや匙が止まる。いつものことだ。
「……美味い」
「知ってるわ」
冬の帝都に、翡翠粥の湯気が白く昇っていった。




