伝承式の前夜
伝承式の前夜。
麗華は屋敷の執務室で、一人きりで座っていた。
明日、鳳家の地養術が公式に天下に開かれる。百年間守り続けた秘伝が、鳳家の手から離れる。
卓の上に、老太爺の手記の写しが置いてある。鳳凰領から持ってきたとき、春蘭が丁寧に油紙で包んでくれた。紐を解き、手記を開いた。最初の頁。老太爺の字で書かれた言葉。力強いが角の丸い書体。この字を見ると、祖父の太い指が筆を握っている姿が浮かぶ。
——地養術とは、大地と対話する術である。大地の声を聞き、大地の傷を癒し、大地の力を導く。
——この術は鳳家のものではない。大地のものである。鳳家はただ、預かっているに過ぎない。
麗華はその言葉を読み返した。何度も読んだ言葉だが、明日を前にすると、重みが違う。
(預かっているに過ぎない——)
祖父は知っていたのだ。秘伝は鳳家のものではなく、大地のものだと。百年間守り続けた当主が、その秘伝の真の持ち主が誰であるかを、最初の一行に書いている。
それなのに守り続けたのは——百年前の過ちの後始末として、責任を負い続けるためだった。鳳家が壊した霊脈を、鳳家が守る。その罪の意識が、秘伝を門の内に留めた。
明日、その預かり物を返す。大地に。この国に。土の声が聞こえる、全ての人に。
扉が静かに叩かれた。
「入って」
暁風だった。麻袍に着替えた姿。手に湯飲みを二つ持っている。湯気が細く立ち昇り、蝋燭の灯りに白く浮かんでいる。
「眠れないか」
「ええ。——あなたこそ」
「お前が起きているなら、俺も起きている」
暁風は麗華の向かいに座り、湯飲みの一つを差し出した。白湯だ。何の味もない、ただ温かいだけの水。だがその温かさが、夜の冷えた身体に沁みた。湯飲みを両手で包む。掌に広がる温もりが、強張っていた肩の力を少しだけ抜いてくれる。
しばらく二人とも黙っていた。窓の外で風が木の枝を揺らす音がする。遠くで犬が吠えている。蝋燭の芯が時折ぱちりと爆ぜ、橙色の光が揺れた。
暁風が手を伸ばした。卓の上の麗華の手に、自分の手を重ねた。大きな手。指が太く、掌には剣胼胝がある。
「大丈夫だ」
「……大丈夫かしら」
「ああ。あんたは——いや。お前は大丈夫だ」
麗華は暁風の手を見た。この手が、どれだけ自分を支えてきたか。剣を振り、盾を構え、そして——粥を作ってくれた手だ。あの不器用な手で、慣れない火加減に四苦八苦しながら、麗華が倒れた夜に粥を炊いてくれた。焦げた粥は決して美味くはなかったが、あの夜の温かさは忘れられない。
「暁風」
「ああ」
「明日——百年の秘伝が、鳳家だけのものではなくなる」
「ああ」
「怖くは——ないわ。でも、重い。祖父様の手から預かったものを——手放すのだから」
「重いなら、半分持つ」
暁風の手に力が入った。麗華の手を、しっかりと包み込む。
「秘伝の中身は分からん。術も使えん。だが——重さなら、一緒に持てる。お前が背負っているものの半分を、俺の肩に載せろ」
麗華は微笑んだ。こういう言葉を、この男は計算ではなく、本心から言う。だからこそ響く。
「あなたは——いつもそうね。できないことを認めた上で、できることをする」
「それしかできんからな」
「それが——一番、心強いの」
暁風の手が、麗華の手を握った。公然と。
二人きりの部屋ではなく——窓が開いている。廊下を通る兵が見えるかもしれない。それでも暁風は手を離さなかった。その手の力は強いが、優しい。壊さないように、でも離さないように。
「暁風。これ、見えるかもしれないわよ」
「構わん」
「あら」
「もう隠す理由がない。——お前が明日、百年の秘密を開くなら、俺も自分の秘密を開く」
「あなたの秘密?」
「お前の傍にいたいという——それだ」
麗華は息を呑んだ。暁風の目は真っ直ぐだった。嘘のつけない男の、嘘のない目。蝋燭の光が暁風の頬を照らし、その目の奥にある温もりを映し出している。
「……それは、秘密ではなかったと思うけれど」
「周りにはそうだろうな。——だが俺にとっては、秘密だった。認めるのに時間がかかった」
麗華は目を閉じた。
暁風の手の温もりを感じながら、明日の伝承式のことを考えた。
広間に集まる素質者たち。不安と希望に揺れる目。翠微が前に立ち、自分がその横に立つ。そして——百年の秘伝が開かれる。
「暁風」
「ああ」
「明日の伝承式。見届けてくれる?」
「当然だ。——壁際に立って、見届ける」
「壁際?」
「術のことは分からんからな。邪魔にならない場所にいる」
麗華は笑った。
「あなたがいるだけで、邪魔どころか——心強いの。分かっていないのね」
「……分からん」
「分からなくていいわ」
夜が更けていく。白湯が冷めた。暁風がもう一杯注ぎに行き、温かい湯飲みを持って戻ってきた。戻るとき足音を立てないのは、武人の習い性だ。だがその気遣いが、今は穏やかに感じる。
二人は手を繋いだまま、しばらく座っていた。
窓の外から、帝都の夜の気配が届く。夜回りの足音。犬の遠吠え。どこかで泣く子供の声。母親があやす声。
帝都の夜は鳳凰領とは違う。だが——人が暮らしている音は、同じだ。
「暁風」
「ああ」
「明日の伝承式が終わったら——帝都の食堂を回ってみたいわ」
「食堂?」
「ええ。帝都の人たちが何を食べているか、見たいの。三年間、私が食糧を絞った結果を——自分の目で」
暁風は黙って頷いた。
「それから、もう一つ」
「何だ」
「帝都で——あなたと食事がしたい。鳳凰領の粥ではなく、帝都の味で。二人で、帝都の食堂で。焼き饅頭でも、麺でも、何でもいいの。二人で並んで食べるの」
「……俺はどこでも構わん。あんた——いや、お前が隣にいれば」
麗華は笑った。
「まだ『お前』に慣れないのね」
「……慣れる。そのうち」
二人は手を繋いだまま、しばらく座っていた。
明日、鳳家の地養術は鳳家だけのものではなくなる。
だがそれは喪失ではない。
——解放だ。
百年間守り続けた秘伝を手放す重さ。だがその先にあるのは、新しい食卓だ。
麗華が一人で支えてきた食卓を——何十人もの手で、支える。
そのために、明日がある。




