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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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翠微の疑問

 翠微すいびは、一人で考えていた。


 荒地での実験が始まって十日。毎日土に触れ、霊脈れいみゃくに語りかけ、「治す力」を引き出そうとしてきた。だが目に見える成果は出ていない。灰色の土に手を当てるたび、指先の翡翠色の光が虚しく消えていく。光が土に吸い込まれる瞬間、翠微の胸にじわりと焦りが滲む。それは初めて田植えに失敗したときの、あの心もとなさに似ていた。


 麗華れいかは「焦らなくていい」と言ってくれる。だが翠微には——焦らないほうが難しかった。


 師の消耗を見ている。麗華が毎日荒地に出て、体を削って術を使い、暁風ぎょうふうに支えられて戻ってくる姿を。師の目の下の隈が日に日に濃くなり、頬がこけてきている。食事の量も減っていた。朝餉あさげ白粥しらがゆを半分ほど残し、箸を置く姿を翠微は毎朝見ていた。あの艶やかな黒髪にも乾いた筋が混じり始めている。それでも翌朝には再び荒地に向かう。その度に翠微は思う。自分にもっと力があれば。自分の「治す力」が使いこなせれば。師がこんなに体を壊す必要はないのに。


 十日目の夜、翠微は自室で考え込んでいた。


 膝を抱え、灯火ともしびの前に座る。灯火の炎が揺れるたびに、壁に映る翠微の影が伸び縮みする。小さな部屋だ。鳳家ほうけの屋敷に住み込みで修行を始めてから与えられた部屋。農家の実家よりは広いが、名門の子女が使うような調度はない。簡素な寝台と、書物を置く棚と、灯台が一つ。壁に掛けてあるのは、実家から持ってきた手拭いだけだ。母が藍染めで染めてくれたもので、洗い晒されて色が淡くなっている。


 棚には麗華から借りた地養術ちようじゅつの伝書が並んでいる。翠微は文字を読むのが遅い。だが毎晩少しずつ読み進め、分からない字は春蘭しゅんらんに教わった。三年かけて、伝書の大半は読み通した。黄ばんだ紙の手触りはもう馴染みのもので、書架から取り出すとき、古い墨と紙の匂いが鼻をかすめる。それがいつからか、安心する匂いに変わっていた。


(先生の術が効かないのは——方法が違うからじゃないかな)


 ずっとその考えが頭にあった。


 麗華の地養術は「育てる力」。霊脈から土に力を注ぎ、作物を育てる。だが荒地化した土壌では、霊脈そのものが断裂している。力を注ごうにも、受け皿がない。


 だとすれば——必要なのは「育てる」ことではなく、断裂した霊脈を「治す」ことだ。


 受け皿を修復してから、力を注ぐ。


 順番が逆なのでは。


 翠微は膝を抱えたまま、灯火を見つめた。炎の先端がゆらゆらと揺れ、時折ぱちりと音を立てる。蝋が溶ける匂いが微かに鼻をくすぐる。油の切れかけた灯心が短い間隔で明滅し、部屋の隅に置いた水差しの表面に小さな光の筋が走った。


(先生は霊脈に力を「注ぐ」。あたしは霊脈に「話しかける」。全然違う。——違うからこそ、先生にできないことが、あたしにはできるのかも)


 畑仕事のことを思い出した。農家にいた頃、枯れかけた苗を見つけると、翠微はまず土を触った。肥料を足すのではなく——土の状態を確かめた。「この土は元気?」「何が足りない?」。感覚で土と対話し、土が求めているものを探った。大人たちは「水が足りないんだよ」「肥やしをやれ」と言ったが、翠微はいつも違う答えを感じていた。


 指先に蘇る記憶がある。あのとき触れた土は冷えていた。表面は乾いているのに、掘ると底には粘つく泥があって、根が窒息していた。水を撒くのではなく、土をほぐし、空気を通してやると、苗は三日で青みを取り戻した。父が「なんで分かったんだ」と目を丸くした。翠微には説明できなかった。ただ——土がそう言ったのだ。


 水でも肥やしでもない。土そのものが弱っている。土に元気を戻さなければ、水を撒いても肥やしを入れても意味がない。


 今の荒地化も——同じではないか。


 灯火の油が少なくなり、炎が小さくなった。翠微は油を足した。新しい油が芯に吸い上げられ、炎が明るさを取り戻す。小さな光が部屋を照らし、影が後退する。


(そうだ。油を注いでも、芯が切れていたら燃えない。芯を繋ぎ直さないと)


 灯火の比喩が、頭の中で像を結んだ。芯は霊脈だ。油は地養の力だ。先生は油を注いでいる。だが芯が切れていたら、油は溢れるだけだ。


 腹が鳴った。夕餉ゆうげを半分しか食べていなかったことを思い出す。春蘭が作ってくれた雑穀粥ざっこくがゆと青菜の炒め物。あわきびの粒が柔らかく煮崩れた粥は素朴な甘みがあって好きなのに、考え事をしていてろくに味わわなかった。棚の上に、翠微が実家から持ってきた干し柿がある。母が毎年軒先に吊るして作る干し柿で、表面に白い粉を吹いた飴色の果肉は噛むと濃厚な甘みがじわりと広がる。一つ取って頬張りながら、翠微は再び伝書を手に取った。干し柿の甘みが舌の上で溶けるのを感じつつ、指で頁を繰る。古い紙が指先にかさついた感触を残した。


 翌朝、翠微は実験の前に麗華に言った。


「先生。一つ、試したいことがあります」


「何?」


「先生の術が効かないのは——方法が違うからじゃないかと思うんです」


 麗華の目が鋭くなった。琥珀色の瞳が、翠微を真っ直ぐに射る。師の「本気の目」だ。この目で見られると背筋が伸びる。怖いのではない——この目に値する答えを出さなければ、という気持ちになる。


「説明して」


「先生は霊脈に力を『注ぐ』んですよね。でも荒地の霊脈は断裂していて、注いだ力が散逸する。——だったら、まず断裂を直さないと意味がないんじゃないかと」


「断裂を直す。つまり——」


「育てるのではなく——治す。もし荒地化が霊脈の断裂が原因なら、あたしの『治す力』で断裂を繋ぎ直せば——そこに先生が力を注げるようになるかもしれない」


 麗華は翠微の言葉を、しばし黙って咀嚼した。執務室の窓から朝の風が入り、翠微の三つ編みがかすかに揺れた。机の上の紙がめくれ、春蘭が手で押さえた。風に乗って、中庭の梅の残り香が微かに漂った。


「育てるのではなく治す。もしそれが正しいなら——順序が逆だった」


「はい」


「今まで私が注いだ力が無駄だったのは、受け皿が壊れていたから。受け皿を先に直せば——」


「先生の術も効くようになるかもしれません」


 麗華は翠微を見つめた。


 弟子が——師を超える仮説を立てている。


 名門の教育を受けた知略家ではなく、農家の娘の身体的な直感が、理論の盲点を突いた。灯火の芯と油という素朴な比喩が、百年間誰も気づかなかった答えを示した。翠微の言葉には学術的な裏づけなど一片もない。だが土に触れてきた十四年の手が、伝書の百頁分の理論を飛び越えた。


 嬉しかった。純粋に。師として、これ以上の喜びはない。胸の奥が熱くなり、目頭にじわりと湿りが差した。それを気取られぬよう、麗華はすっと視線を窓の外に向けた。


「翠微。やってみましょう」


「はい!」


 翠微の目が輝いた。朝日を受けた茶色の瞳が、金色に光っている。


 荒地に向かう二人の足取りは、これまでより軽かった。


 朝の空気が冷たく清々しい。まだ生きている畑の脇を通り過ぎるとき、稲の葉に付いた朝露が光っていた。小さな水滴の一つ一つが朝日を受けて虹色に輝いている。畦道あぜみちに沿って歩くと、足元で露を含んだ草がしなやかに倒れ、湿った土の匂いが靴底から立ちのぼった。どこかで雀が鳴き、遠くの用水路を流れる水の音が、朝の静けさの底を流れている。翠微はその光を横目で見ながら、こう思った。


(あの光を——荒地にも、もう一度)


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