民は飢える
暁風からの報告を読んだ麗華は、しばらく動けなかった。
「敵軍の向こうには民がいる」
その一行が、胸に刺さっていた。暁風の武骨な筆跡が、いつもよりわずかに乱れている。書いている手が震えていたのかもしれない。「捕虜に飯を食わせている」——その一文に、暁風の人となりが凝縮されていた。敵にすら飯を出す男。飢えた人間を放っておけない男。
帝都で食糧を武器にした時は、民を飢えさせない一線を守れた。官糧だけを止め、市糧は流した。権力者だけが困る精密な兵糧攻め。それが麗華の誇りだった。
だが戦場では——そんな精密さは通用しない。
「春蘭。北辺の村落の情報を」
「はい。戦闘地域の周辺に小さな集落が三つ。住民は百名ほど。元は遊牧民の冬営地です」
「食糧の状況は」
「不明ですが——戦闘で物資の流れが止まっていますから、おそらく……」
春蘭が言い淀んだ。麗華は察した。
「飢えている」
「はい」
麗華は地図を見た。戦場の南東に三つの点——集落の位置。暁風の塩湖制圧で補給路を断った結果、軍だけでなく、あの集落の食糧も途絶えているはずだ。塩がなければ肉を保存できない。水場を押さえられれば、家畜にも水を飲ませられない。
(帝都では「権力者だけが困る」仕組みを作った。だが戦場では——軍と民の区別がつかない。補給路を断てば、その周囲の全てが飢える)
翠微からの報告書が目に入った。畑の状況は良好。増産は順調。だがそれは鳳凰領の話だ。鳳凰領の豊かさが、戦場では人を飢えさせる道具に変わっている。
(私の策が、民を飢えさせている)
麗華の右手が、左手首の内側を撫でた。
幼い頃の記憶が蘇る。鳳凰領の外で見た、飢えた民。祖父に連れられて視察に出た時のことだ。荒地の縁で、痩せた子供が泥を食べていた。土を口に含み、何かの味を探すように噛んでいた。目が虚ろで、頬は削げ、腕は枯れ枝のように細い。麗華は凍りついた。あの子供の目を、今でも覚えている。諦めと、それでも何かを求める切なさが混じった目。
あの光景が、今——自分の策の結果として、北辺で再現されている。
「お嬢様」
春蘭が声をかけた。
「……はい」
「お顔の色が悪いです。食事を」
「食べる気に——」
そう言いかけて、止まった。
(食べる気になれない、と? 私が? 食は命だと言い続けてきた私が、食べる気になれないと?)
卓の上には朝から放置されたままの帳面が広がっている。乾きかけた墨の匂いが、埃と混じって鼻をかすめた。蝋燭の芯が短くなり、炎がじりじりと音を立てている。窓の外では鳳凰領の空が灰色に沈み、冬の冷気が木枠の隙間から忍び込んでいた。
麗華は自分を叱った。
「——いえ。食べます。食べなければ、考えることもできない」
春蘭が粥を持ってきた。白い粥。鳳凰領の米で炊いた、いつもの粥。湯気が立ち上り、米の甘い匂いが鼻をかすめた。椀の中で米粒が揺れ、とろりとした白が光を映している。
一口食べた。甘い。米の甘みが口に広がる。温かい粥が胃に落ちて、体に力が戻る。鳳凰領の米は、いつ食べても甘い。この甘さが——北辺の子供には届いていない。
(食べることは、考え続けること。考え続けなければ、解決策は見つからない)
粥を食べながら、麗華は考えた。椀から立ち上る湯気が顔に触れ、眼鏡をかけていれば曇るほどの温かさだ。匙で粥を掻き混ぜると、米粒が白い渦を描く。一粒一粒が光を受けて小さく輝いている。この一粒が、北辺の村では宝石と同じだ。
敵の補給路を断った。それは軍事的に正しい。だが民を巻き込んでいる。
では——民だけに食糧を届ける方法は?
粥を食べ終えた麗華は、厨房に立った。味噌汁を仕込む。北辺の兵に送る干し味噌の品質を、自分の舌で確かめるためだ。鍋に水を張り、煮干しの出汁を取る。煮干しの腸を取り除く作業を丁寧にこなす。この一手間が、味を左右する。出汁が澄んだら味噌を溶く。赤味噌を少量、指で潰しながら鍋に入れる。湯に溶けた味噌の色を見る。濃すぎず薄すぎず。この味が兵の舌に届く。一匙の味噌が百人の士気を左右する。麗華は匙で味見し、塩加減を調整した。
(帝都では、官糧と市糧を分けた。同じことが戦場でもできないか。軍を飢えさせたまま、民に食糧を届ける仕組みを——)
粥の最後の一口を飲み込んだ。椀の底に残った米粒を箸で丁寧に集めて口に入れた。一粒も無駄にしない。
「春蘭。北の穏健派との連絡ルートは生きていますか」
「はい。外交会議の時に構築したルートが残っています」
「穏健派に密使を送ります。——食糧を送る代わりに、強硬派を止めてほしい」
(帝都で食糧を武器にした時、私は「官糧を止めても市糧は流す」仕組みを作った。権力者だけが困る精密な兵糧攻め。あれが私の誇りだった。だが戦場では、同じ精密さが通用しなかった。軍と民の境界が消える。補給路を断てば周囲の全てが飢える。——ならば、逆をやればいい。食糧を送って、戦を止める。武器の反対側にある食の力を使う)
春蘭が目を見開いた。
「敵に食糧を送るのですか」
「敵の民に送るのです。飢えた子供に敵も味方もない」
麗華は筆を取った。墨を含ませた穂先が紙に触れ、一文字目を書く。指先に力を込めた。この一文字が、戦場の子供に届くまでに何日かかるだろう。
(食を武器にすると決めたのは私だ。ならば——この結果からも目を逸らさない。そして、別の方法を見つける。食で戦を始めた者が、食で戦を終わらせる。——それが、私にできる唯一の償いだ)
密書を書き始めた。筆先が紙の上を走る。一文字ずつ、覚悟を込めて。
「食は武器にもなる。だが本来は——命を繋ぐものだ」
その言葉を、自分自身に言い聞かせながら。




