敵の飢え
捕虜が増え始めた。
脱走兵が瑛朝軍に投降してくる。一人、二人ではない。五日間で三十人を超えた。いずれも痩せこけ、目ばかりが異様にぎらぎらと光っている。飢えた者の目だ。頬の肉は削げ落ち、頬骨が鋭く突き出ている。
暁風は捕虜の収容所を砦の一角に設けた。
「こいつらに何を食わせますか」
副官が尋ねた。補給は回復したが、余裕があるわけではない。捕虜に回す分を差し引けば、味方の食糧がさらに減る。
「兵と同じ粥を出せ」
「敵にですか」
「飢えた人間に飯を出す。それだけだ」
副官が何か言いかけたが、暁風の目を見て口を閉じた。将軍の目に迷いはなかった。
捕虜たちは痩せていた。頬がこけ、腕は骨と皮だけ。衣は汚れ、体から獣のような臭いがする。草原を逃げ回り、雪の中を這い、ようやくここに辿り着いたのだ。裸足の者もいた。足の指が赤黒く腫れ、凍傷の跡が見えた。
粥が配られた。
捕虜の一人が椀を受け取り、手が震えて粥をこぼした。白い粥が地面に落ちる。その男は地面に這いつくばって、こぼれた粥を手で掬い、口に運んだ。泥と雪が混じった粥を、一滴も残さず啜った。指の腹で地面をなぞり、土に染みた白い汁の痕跡まで舐めた。傍で見ていた兵が目を逸らした。
暁風は黙って見ていた。粥の匂いが収容所に漂っている。米と味噌の匂いだ。その匂いが——捕虜の鼻にも届いている。痩せた男たちの鼻翼が動き、目が一斉に釜の方を向いた。飢えた人間の嗅覚は鋭い。遠くの粥の匂いを嗅ぎ分け、体が反射的に反応する。拳が知らず知らず握りしめられていた。
「……いつから食べていない」
「五日」
捕虜が嗄れた声で答えた。唇が割れ、声を出すたびに血が滲む。
「五日前に、最後の干し肉を食った。それからは——水だけだ。水すら、お前たちに泉を押さえられてからは——雪を溶かして飲んだ」
「なぜ越境した。外交の合意があっただろう」
「合意を結んだのは穏健派だ。俺たちは——あの合意では足りないと訴えた。食糧が来るのは穏健派の部族だけ。俺たちの部族には何も来ない」
暁風は眉をひそめた。
「食糧が届かない部族がいたのか」
「穏健派が食糧を独り占めしている。そう聞いた。——だから、自分たちで取りに来るしかなかった」
捕虜が粥を啜った。椀を両手で包むように持ち、一口ずつ、大切に飲んでいる。指が震え、歯ががちがちと鳴っていた。寒さのせいか、飢えのせいか——おそらく両方だ。粥の湯気が男の鼻先で白く揺れ、痩けた頬に温もりが移っていく。椀の縁を唇で辿るように、一滴も残すまいとしている。
「……旨い。温かい飯を食ったのは、いつ以来だろう」
暁風は返す言葉がなかった。
ただの白粥だ。味付けもない。だがこの男にとっては——命そのものだ。
粥を食べ終えた捕虜が、空の椀を胸に抱いた。まだ椀の温もりを手放したくないかのように。その姿に、暁風は自分が麗華の握り飯の包みを捨てられないことを重ねた。温もりは食よりも長く残る。食がなくなっても温もりの記憶が人を支える。——だからこそ、温もりの元を断つことは残酷だ。
その日の夕刻、斥候の報告が入った。
「敵本隊で大規模な脱走が発生。三百名以上が散り散りに逃走している模様」
「三百——」
「食糧が完全に枯渇したようです。組織的な行動が取れなくなっています」
暁風は砦の櫓に登った。北の平原に、敵の陣営が見える。火が消えかけている。煮炊きの煙が上がっていない。
(飯を炊く火がない。食糧がないからだ。俺が——麗華の策で、補給路を断ったからだ)
収容所の隅で、捕虜たちが身を寄せ合って眠っていた。毛布が足りず、体温を分け合うしかない。暁風は毛布を二枚追加で運ばせた。副官が不服そうな顔をしたが、暁風は構わなかった。飢えた人間を寒さで殺すわけにはいかない。捕虜の一人が目を開け、暁風を見上げた。「なぜ俺たちに」と問う目だ。暁風は答えなかった。答えるなら——「俺の知っている女なら、そうするからだ」と言うべきだったかもしれない。麗華なら飢えた者に飯を出す。寒い者に毛布を渡す。敵にも味方にも。
陣営からは声も聞こえない。三千の兵がいたはずの場所が、まるで墓場のように静まり返っている。風だけが吹き、雪が舞い、人の営みの痕跡が少しずつ白に覆われていく。
暁風は拳を握った。
戦場では、こういうことが起きる。食糧を断てば敵は崩壊する。それは軍略として正しい。だが——
(あの捕虜は五日間何も食っていなかった。骨と皮になっていた。地面のこぼれた粥を手で掬って食った。あの男にも、故郷に家族がいるのだろう。飢えた子供がいるのだろう。——俺の策が、あの飢えを作った)
砦の厨房では、兵が夕飯の支度をしていた。鳳凰領から届いた米で粥を炊き、味噌を溶く。蒸気が天井に昇り、冷えた石壁に結露して水滴が垂れる。その粥の匂いが——収容所にまで届いているだろう。捕虜たちは、この匂いを嗅いで投降してきたのかもしれない。飯の匂いに抗える者はいない。腹が空いた人間にとって、温かい飯の匂いは——白旗よりも強い降伏の合図だ。
暁風は麗華への報告書を書いた。
「敵軍の食糧が枯渇。大規模な脱走が発生。軍としての体をなさなくなりつつある。——捕虜に飯を食わせている。飢えた人間を見殺しにはできない」
追伸を加えた。
「あんたの策は正しい。だが——これが戦だ。食を断つということは、こういうことだ」
飛脚が南に走った。
暁風は粥の椀を持ったまま、しばらく動けなかった。
食べなければ戦えない。だが——食を断たれた敵の姿を見た後では、粥の一口が重かった。米粒を噛むたびに、地面の粥を掬った男の手が目に浮かぶ。
それでも食べた。将軍が飯を食わねば、兵が飯を食えない。
一口ずつ、噛みしめるように。食べることの重さを、噛みしめるように。




