おかえりなさい
翌朝。
暁風が手勢を率いて正式に帰還した。
外縁部の掃討と残党の確認を終え、鳳凰領の安全を確保した上での帰還だ。前日の夕方に一度戻っていたが、それは緊急報告のためで、正式な帰還はこの朝だった。
鳳凰領の門前に、麗華が立っていた。
朝日を背にした麗華は、藍染めの交領袍に深紅の腰帯という普段の装いだ。特別なことは何もしていない。ただ——門前に立って、待っている。髪は銀の簪一本で纏められ、袖口にまだ昨日の土汚れが薄く残っていた。
暁風が手勢と共に門をくぐった。甲冑に戦の跡を残し、顔に疲労を浮かべた男たちが、一列になって石畳を踏む。
麗華が一歩前に出た。
「おかえりなさい」
普段は言わない言葉だった。
監視役と被監視者の間柄では、「おかえりなさい」は不自然だ。主従でも同僚でもない二人の間で、その言葉は——どこに位置づければいいのか。政治の言葉でも知略の言葉でもない。ただ人が人を迎える、最も素朴な言葉。
暁風の足が止まった。
手勢の視線が集まっているのを感じる。だが暁風は——周囲を気にしなかった。
「ただいま」
返した。
何の装飾もない二文字。だがその二文字に——暁風の声が僅かに温かみを帯びていた。帝都で十年、軍営で一度も使ったことのない言葉を、暁風は自然に口にした。
二人の間に沈黙が流れた。一秒か二秒。だがその沈黙の密度は——何十もの言葉に匹敵した。朝日が二人の間を通り、石畳に長い影を落としている。
手勢の一人が咳払いをした。
「将軍、荷車の——」
「ああ。春蘭どのに引き渡してくれ」
日常が戻った。暁風が手勢に指示を出し、麗華が春蘭を呼んで荷物の受け渡しを始めた。何事もなかったかのように。二人とも表情を取り繕い、いつもの「当主」と「将軍」の顔に戻る。
だが——翠微だけが気づいていた。
門の脇から覗いていた翠微が、にやにやと笑っていた。
「おかえりなさい、だって——」
春蘭に耳を引っ張られた。
「人の恋路を覗かないの」
「いたたた——でも春蘭姐さんも見てたでしょ」
「大人は節度を知っているのです」
春蘭の目も笑っていたが。
*
暁風は自室に戻った。
甲冑を外し、平服に着替える。鱗甲を外すたびに肩が軽くなり、体が解放されていく。鉄紺の軍袍を丁寧に甲冑掛けに戻し、灰白の麻袍に袖を通した。
書卓の前に座り、紙と筆を取った。
皇帝への密書を書く。
筆を墨に浸し、一行目を書いた。武骨な筆跡が紙の上を走る。
——陛下に奏上する。蘇家が鳳凰領の霊脈に対し、組織的な破壊工作を実行した。
筆が走る。事実を記す。霊毒の注入。農地の被害。工作員の拠点制圧。霊脈図の発見。大量の霊毒原料の押収。一つずつ、見たままを書いた。暁風の筆は美しくないが、正確だ。事実を歪めない。
全てを書いた。
そして——筆を止め、考えた。
以前の暁風なら、ここで筆を置いていた。事実の報告。それが監視役の任務だ。起きたことを記し、判断は皇帝に委ねる。それが暁風の仕事だった。
だが暁風は——書き加えた。
——蘇家の行為は、鳳凰領のみならず瑛朝の食糧安全保障を根底から脅かすものである。蘇家の暗躍を放置すれば、国家の存亡に関わる。
さらに書く。筆が紙を引く音が、静かな部屋に響いた。
——鳳麗華殿は私財と労力を投じ、霊毒の浄化と農地の回復に全力を尽くしている。領民は鳳家を信頼し、鳳凰領は朝廷の助力なく自力で危機を克服しつつある。
そして最後に。
——陛下。鳳麗華殿は反逆者ではない。この国の食を守ろうとする者である。蘇家こそが、瑛朝の敵である。
暁風は筆を置いた。墨が乾くのを待ちながら、自分が書いた文字を見つめた。
この密書は——「皇帝の将軍」の報告書ではなかった。一人の人間の訴えだった。
以前の密書は「鳳麗華の動向を報告する」ものだった。やがて「鳳凰領の現状を報告する」ものに変わり、今は——「蘇家を告発し、麗華を擁護する」ものになっている。
暁風自身はこの変化に——半ば気づき、半ば気づいていない。事実を書いているだけだ、と本人は思っている。だが事実の取捨選択は——暁風の心が決めている。何を書き、何を省くか。その判断に、暁風の感情が滲んでいる。
密書を封じ、信頼できる伝令に託した。
「帝都へ。皇帝陛下の御手元に、直接」
「承知しました」
伝令が去った。
暁風は窓を開けた。鳳凰領の朝の空気が流れ込む。冬の澄んだ空気は冷たいが、帝都の灰色の空気とは違う。土と草と水の匂いが混じった、生きている空気だ。農地の向こうに、炊き出しの片付けをしている領民が見える。
(帰ってきた)
帝都ではない場所を「帰る場所」と思ったのは——初めてだった。陸家の次男として軍に送られ、禁軍の宿舎で十年を過ごした。どこにも「帰る」という感覚はなかった。宿舎は寝る場所であって、帰る場所ではなかった。
だが今——鳳凰領の門をくぐった時、「帰ってきた」と思った。麗華の「おかえりなさい」を聞いた時、胸の奥が軋んだ。
窓の外で、麗華が翠微と共に農地に向かっていた。今日も浄化作業だ。残りの大型核を二つ片付ければ、浄化は完了する。
暁風は窓を閉め、部屋を出た。
執務室に向かう途中、厨房から匂いが漂ってきた。鶏の清湯の澄んだ香り。麗華が朝のうちに仕込んでおいたものだ。鶏骨を低温でじっくり煮出した透明な出汁の香りが、廊下いっぱいに広がっている。
厨房を覗くと、春蘭が盆に椀を並べていた。
「あら、将軍殿。丁度よかった。お嬢様が『暁風殿に温かいものを』と仰って、手打ちの麺と清湯を用意してあります」
椀に湯気が立っている。透き通った鶏の清湯に細い手打ち麺が浮かび、白葱の薄切りと鶏のほぐし身が載っている。麺は麗華が自ら打ったもので、均一な太さに切り揃えられていた。
暁風は椅子に座り、箸を取った。麺を一口。
清湯の旨味が口に広がった。鶏の出汁は澄んでいるのに深い。雑味がなく、旨味だけが凝縮されている。麺は滑らかで喉越しがよく、噛むともちもちと弾力がある。白葱の香りが鼻を抜け、鶏肉のほぐし身が食感の変化をつける。一口目で体が内側から温まるのが分かった。
「……旨い」
暁風が呟いた。二口目を啜り、三口目を噛みしめる。戦場帰りの体が、一口ごとに解れていく。
春蘭が微笑んだ。
「お嬢様は、将軍殿が帰ってくると分かっていましたから。朝一番に仕込んでいましたよ」
暁風は麺を啜る手を止めた。
「戦場帰りに温かい飯があるのは——初めてだ」
帝都の軍営では、任務から戻っても出迎えはない。食事は自分で糧食を取りに行く。温かいものが待っていることはなかった。冷めた乾パンと水。それが軍人の帰還だった。
「お嬢様に——伝えましょうか」
「何をだ」
「旨い、と」
「自分で言う」
暁風は麺を食べ終え、椀の清湯を最後の一滴まで飲み干した。椀の底に残った白葱の薄切りまで、一片残さず。
椀を置き、静かに立ち上がった。
「自分で、言う」
暁風が農地に向かっていった。
春蘭は空の椀を見つめ、穏やかに笑った。
「おかえりなさい——ですか。良い響きですね」
窓の外で、暁風の背中が農地に向かって歩いていた。手に水筒を持っている。麗華に届けるつもりだろう。灰白の麻袍が冬の日差しに照らされ、暁風の長い影が農地へと伸びている。
密書は帝都に向かった。暁風の言葉が、皇帝に届くまで——数日。
皇帝がそれを読んだ時、何を思うのか。
嵐は——まだ、終わっていなかった。




