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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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翠微の耳

 翠微は大地に手を当て、目を閉じた。


 朝露に濡れた農地の土は冷たい。指先が凍えるような冷気が手のひらに沁みる。だが翠微の手のひらの下で、霊脈の声が聞こえる。


 それは音のようでもあり、感覚のようでもあった。翠微にとって霊脈は「聞こえる」ものだ。麗華が「感じる」と表現するものを、翠微は「声」として知覚する。人の声とも虫の羽音とも違う、大地そのものの響き。


 今、大地が語っている声は——悲鳴だった。苦しげに軋むような、引き裂かれるような声。毒に蝕まれた霊脈が、痛みを訴えている。


「ここまでは毒が来ています」


 翠微は地面に小さな石を置いた。目印だ。


 十歩北へ歩き、再び手を当てる。今度は声が変わった。悲鳴ではなく、弱々しい呻き。毒はまだ届いていないが、その気配が近づいている。


「ここからは……まだ大丈夫。でも弱ってる。毒が近づいてきている」


 また石を置く。


 翠微は朝から農地を歩き続けていた。被害区域と健全区域の境界を、一歩ずつ特定していく地道な作業だ。膝の泥を払う暇もなく、立っては膝をつき、手を当てては声を聞く。指先が冷たさで赤くなっていたが、翠微は気にしなかった。


 地養術を使える麗華は、汚染核の浄化に全力を注いでいる。だが浄化の効率は、汚染の正確な位置が分からなければ上がらない。闇雲に走り回れば、体力を無駄に消耗するだけだ。


 だから翠微が「耳」になる。毒の位置を聞き取り、境界を示し、麗華を導く。


「翠微」


 暁風が後ろから声をかけた。翠微の安全を守るため、暁風が同行している。手に長剣を帯び、周囲を警戒しながら翠微の後を歩く。蘇家の工作員が潜んでいる可能性はまだ否定できない。


「この先の畑、境界はどこだ」


「待ってください」


 翠微は畑の中を斜めに横切り、五カ所で手を当てた。膝をつくたびに泥が袴を染める。だが大地の声は明瞭だった。毒のある場所は苦しげに叫び、無い場所は弱々しくも穏やかに呼吸している。その差は翠微の耳には歴然だった。


「ここ——この線です。ここを境に、南側は毒が入っている。北側はまだ無事」


 翠微が地面に棒で線を引いた。暁風がその線に沿って杭を打っていく。将軍の手は力強く、杭は正確に地面に刺さった。


「正確だな」


「大地が教えてくれるんです。毒が入っている場所は——声が苦しそうだから。分かるんです」


 暁風は杭を打つ手を止め、翠微を見た。寡黙な武人の目に、素直な感嘆が浮かんでいる。


「あんたの力は——大したもんだ」


 翠微が顔を赤くした。冬の冷たい空気の中で、頬だけが熱い。


「そんな……あたしは、聞いてるだけで。浄化は先生しかできないし——」


「聞くことは、誰にでもできることじゃない。あんたがいなければ、麗華殿は三倍の時間をかけて、三倍消耗していた」


 翠微は唇を噛んだ。嬉しいのと、照れくさいのと、それでもまだ自分が足りないという思いが入り混じっている。浄化できない自分が歯がゆい。でも——今できることを全力でやる。それだけだ。


「……もっと聞けるようになります。もっと細かく。もっと早く」


「ああ。頼む」


 二人は境界線の特定を続けた。


 昼過ぎ、翠微が全ての被害区域の境界を地図に書き込み終えた。紙が泥で汚れ、墨が滲んでいるが、情報は正確だ。


 執務室に持ち帰ると、麗華が待っていた。顔色は蒼白だが、目は冴えている。午前中に三つの汚染核を浄化したところだ。額に汗の跡が残り、指先の翡翠色の光は完全に消えていたが、卓の前に座る背筋は真っ直ぐだった。


「翠微、見せてください」


 翠微が地図を広げた。被害区域が朱い線で囲まれている。汚染の核と推定される地点に印がつけられ、毒の流れる方向が矢印で示されている。翠微が半日かけて聞き取った大地の声が、一枚の地図に凝縮されていた。


「すごい——これだけ正確なら、浄化の優先順位が立てられます」


 麗華が地図を読み込んだ。指先で汚染核の位置を辿り、霊脈の流路と照らし合わせる。暁風が隣に立ち、軍事的な視点で地図を見る。三人の影が卓の上に重なった。


「汚染の核は残り八つ。うち三つが大型で、五つが小型だ」


「大型から叩くのが定石だが——」


「いいえ」


 麗華が首を振った。


「小型から片付けます。小型核を先に浄化して、毒の流入経路を塞ぐ。そうすれば大型核も孤立する」


「川の支流を断って、本流を弱らせるようなものか」


「ええ。暁風殿は軍略がお得意ですね」


「兵站の考え方と同じだ。補給線を断てば本隊は動けなくなる」


 暁風が地図に指で線を引いた。翠微が示した汚染核の配置を見ながら、最も効率的な浄化順序を提案する。軍略で培った兵站の思考が、霊脈の浄化戦略にそのまま適用される。


 麗華がそれを修正し、翠微が「ここの大地の声が一番苦しそうでした」と補足する。


 三人の連携が——自然に噛み合い始めていた。知略と武略と感知力。それぞれが別の力を持ち、互いの足りない部分を補い合う。


 春蘭が盆を持って入ってきた。


「お食事をどうぞ。——と言いたいところですが、皆様お忙しそうですので、差し入れだけ置いていきますね」


 盆の上に肉饅頭にくまんじゅうが三つ。ふっくらと蒸し上がった白い生地から、肉と葱の香りが漂っている。蒸籠せいろから出したばかりなのだろう、湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。


「春蘭姐さん、ありがとうございます!」


 翠微が真っ先に手を伸ばした。一口齧ると、肉汁がじゅわりと溢れた。


「旨い——」


 翠微が目を輝かせた。半日歩き回って空腹だった体に、肉汁の旨味が沁みる。暁風も一つ取り、黙々と食べた。大きな手で饅頭を包み、一口で半分を頬張る。


 麗華が肉饅頭を手に取り、一口齧った。温かい。肉汁が口の中に広がる。春蘭が仕込んだ特製の餡は、鳳凰領の地鶏と筍と椎茸を細かく刻んだもので、噛むたびに違う食感と味が現れる。地鶏の旨味が最初に来て、筍の歯ざわりが追いかけ、椎茸の風味が余韻を残す。


「旨い」


 暁風が呟いた。二口目を噛みしめながら、深く頷いている。


「ええ」


 麗華が頷いた。危機の最中にあっても——食は旨い。


 暁風が翠微を見た。翠微がぺろりと一つ食べ終え、二つ目に手を伸ばそうとして止まった。


「……残りは先生の分です」


「いいえ、食べなさい。あなたが一番動き回ったのですから」


「でも——」


「食べなさい」


 師の声は穏やかだが、有無を言わせない響きがあった。翠微が嬉しそうに二つ目を頬張った。口の端に肉汁がついているが、拭う余裕もないほど夢中で食べている。


 暁風が麗華に小声で言った。


「あの子がいなければ、もっと広がっていた」


「ええ。私の自慢の弟子です」


 穏やかな声だった。危機の最中にあっても——食を囲む瞬間だけは、温かい。


 暁風と麗華の視線が一瞬交わった。翠微の活躍を共に見守る、穏やかな共有の瞬間。師弟でも主従でもない——家族のような距離感が、三人の間に生まれつつあった。暁風の墨色の瞳が麗華を見つめる時間が、ほんの一瞬長かった。


 肉饅頭を食べ終え、麗華が立ち上がった。


「続けましょう。翠微、次の核の場所を案内してください」


「はい、先生!」


 翠微が駆け出した。暁風が剣を帯び直し、後に続く。


 師弟と将軍が農地へ向かう。大地の声を聞き、毒を祓う。一人では無理だったことが——三人ならできる。


 春蘭が窓から三人の背中を見送り、静かに微笑んだ。


「お嬢様も——変わられましたね」


 呟きは冬の風に溶けた。空の蒸籠の湯気が、窓辺でゆっくりと消えていく。


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