「今のようなアプローチは推奨しない」
『バンタム署長、おはようございます!』
ポーン、と軽やかな音とともに、きりっとした若い女性の姿がモニターに現れ、同時に、部屋の全ての照明が点灯した。
ソファの肘掛けから長い足を突き出して仮眠していたジーズは腹筋の力だけでむっくりと起き上がると、アイマスクを外して伸びをした。
仮眠していた時間は、きっかり15分間。
これで、しばらくはしのげそうだ。
『敷地内に侵入したドローン2機を撃墜。同様の事例は、3日前の事件から数えて22件目です。3日でですよ!? まったく、しつこいですねえ』
「ほとんどが素人よ。素人は、アタシらの怖さを知らないから。……残骸は、ラボに回して分析させて。犯人割れたら、即検挙で」
『はい! あと、お休みのあいだに5件のコールがありました。そちらに着信の履歴を上げましたので、ご確認ください』
「了解」
ウエットティッシュを5枚も使って、寝起きの顔を綺麗に拭きながら、ジーズはちらりとデスクの上を見やった。
ずらりと並んだ通信端末のうちのひとつ――彼女が言う「5件」には入っていない――が、激しくランプを明滅させているのを見て、目を細める。
「必要なら、こっちで選んでコールし直すわね。他に報告は?」
『特にありません!』
「そう、じゃ、今はもういいわ。ありがとね」
『はい。では、失礼いたします!』
折り目正しく敬礼し、女性がモニターから姿を消すと、ジーズはごきごきと首を鳴らしながらデスクに歩み寄り、端末を取り上げた。
「おはよう。3日ぶりね。こんな朝っぱらから、アタシに何の用?」
ジーズはそれからしばらく黙ったまま、端末の向こうの相手の言葉に耳を傾けているようだった。
途中で急にすたすたと歩き出し、棚の引き出しからパック入りの栄養剤を取り出し、キャップを開けて中身を吸いはじめる。
ほぼ一瞬で中身を吸い尽くしたパックを握り潰し、ゴミ箱に放り込み、
「だぁから、それは、こっちに一任ってことで、話がついたはずよねぇ?」
二本目を、引き出しから取り出す。
「えぇ? ……ええ。……ああそう? それは無理よ。……ふーん……あー……んー……」
二本目のパックのキャップを開けず、ぐちゃぐちゃと揉みほぐすような動きをしていたジーズの右手が、急に、ぐしゃりとパックを握り潰した。
「グダグダうるっせぇわ、このクソジジイ!」
中身のゼリーが飛び散り、ソファと床を汚す。
「見苦しいんだよ! 一度はついた話を、ぐじゃぐじゃぐじゃぐじゃ蒸し返しやがって! てめえら、誰のおかげで、このオータム・シティで商売できてると思ってんだ……!?」
悪鬼のような形相で凄んだジーズの顔が、すうっと、まるで誰かが画像加工でもしたみたいに、元の表情に戻っていく。
「ええ。……ええ、そう。分かればいいのよォ。こっちだってアンタ、ねえ、全面戦争なんて、やりたくないんだからさあ?
アタシなんて、あの事件からこっち、上からはボコボコに叩かれるし、マスコミにはチクチクつつかれるし、世の中の言いたがり連中からはゴチャゴチャ批判されるし、もう、散々なんだから。寝る時間もないんだから。
ここはひとつ、痛み分けってことで手を打とうじゃねえかよ、なぁ?」
ときどき急変する口調が、異様に怖い。
ギアたちを相手にしているときとはまた違う、氷の針を刺し込むような口調だ。
「ええ、ええ……そうよ。坊やのことは、諦めな。あんたのファミリーを継ぐタマじゃない」
言い放ち、通話を切ったジーズは、手に端末を持ったまま部屋の隅まで歩き、そこに据え付けてある強力な破砕機に端末を放り込んで粉々にした。
外見は有名な通信会社の端末のひとつだが、通常の通信会社を通さない、通話記録も完璧に抹消されるホットライン。
しばらく破砕機を睨みつけていたジーズだが、おもむろに先ほどの女性を呼び出すと、
「ああ、ジエラちゃん? ごめんねぇ、また呼び出しちゃって! アタシってば、今、ソファに栄養剤こぼしちゃって。……そう、そうなのよ、あの真っ赤なソファ! やっぱ、疲れが出ちゃってるみたい。悪いんだけど、手が空いたときにでも、みんなに声かけて、運び出しに来てくれないかしら。新しいの買うから」
モニター越しにそう告げると、ジーズはおもむろにデスクにかけ、むんと腕まくりをした。
今日も一日、上への弁解とマスコミへの対応と、もっと厄介な連中の相手に追われることになるだろうが、さばき切って見せる。
手元のスイッチを操作すると、全ての窓の濃いスモークグラスが一瞬にして透明になり、眩い朝日が射し込んできた。
市民たちの安全と、部下たちの命を守り抜くことが、彼の仕事なのだ。
* * *
屋外訓練場の上に広がる空は、今日も、抜けるように青い。
「よう」
私服の黒いパーカーのフードをかぶり、ぶらぶらと歩いてきたギアは、急に足を止めて片手を上げた。
最後に見たときと全く同じ簡素なトレーニングウエアに身を包んだアスカが、《特急》専用の訓練施設の玄関前に、腕組みをして立っている。
彼女は、別段何の感慨もない様子で、じっとギアを見返してきた。
特に何らかのコメントをする様子もない。
ギアは小さく肩をすくめ、自分から続けた。
「あれから、マスコミのマークが凄くてよ。せっかくの非番だってのに、おちおち、外にアイスも食いに行けねえんだ。あんたなんか、普段、どうしてんだ?」
「勤務時間外は主にメンテナンスを受けるか自主訓練を行っている」
確かに、この「女性」が街でショッピングや女子会を楽しんだり、テーマパークでキャラクターグッズを手にはしゃいだりということは、ありそうにない。
「あんたんとこの装備、世話になったな。おかげで、どうにか上手くいったぜ」
ギアはそう言って、頷く程度に軽く頭を下げた。
アスカも同じように頷く。
「サイズ上の問題はなかったか」
「ああ。問題なかった」
皮肉なのか本気なのか全く判別のつかない問い掛けに、ギアは軽く返答した。
アスカは、また頷いた。
「凶悪犯罪対策課でも購入を検討してはどうか。あれは犯罪者を殲滅するために非常に有効な装備だ。しかし――」
珍しく、途中で間を置き、
「今回はそうではなかったようだな。『101の最強コンビ、演技力で犯罪者を制圧』」
彼女が口にしたのは、最もオフィスに好意的なメディアが今回の事件を報じる記事につけた見出しだ。
アスカは組んでいた腕をほどき、突き出せばやわな壁など貫通する右手の指先を、まっすぐにギアの顔に向けてきた。
「ロック捜査官。常に背後に気をつけることだ。お前のやり方はいつか身の破滅を招く」
「へえ、俺を心配してくれるのか?」
「起こり得る危険について警告しているのだ」
そう告げるアスカの表情は、発声のために口元が動く他には、まったく変化というものがない。
ギアは、苦笑した。
「せっかく、見事に事件解決したんだぜ。もうちょっと、めでてえことが言えねえのかよ? そんな、氷みてえな顔してねえでよ」
苦笑から、苦みが抜け落ちて、少年のような笑顔になった。
「なあ、あんた。……笑えるなら、笑ってみせてくれよ」
アスカの表情は、変わらなかった。
ただ、瞬きを必要としないはずの彼女が、2度、ゆっくりと瞬きをした。
「ギア・ロック捜査官」
やがて、彼女は言った。
「ひとつの可能性を提起する。――お前は私を『口説いて』いるのか?」
「俺は今、とにかくアイスが食いてえんだ。美人と一緒なら、なおいい。機械でもな」
場合によっては人権団体が束になってかかってきそうなギアの言葉に、アスカは、長いあいだ、無言でいたが――
「既婚者への今のようなアプローチは推奨しない」
「…………ん?」
「繰り返す。既婚者への今のようなアプローチは推奨しない。私は既婚者だ」
「な、なな何ィッ!?」
コミックの一コマにありそうな動きと表情で驚愕したギアに対し、アスカはきっちりと詰めていたトレーニングウエアの襟元から、楕円形のロケットペンダントを取り出し、ぱちりと開いてみせる。
「これがマイスイートハニーだ」
そこには50代に手が届こうかというマッチョな男性が、海軍の制服姿で誇らしげに映っていた。
胸の徽章は、潜水艦の艦長であることを示すものだ。
「ネルソン・ブルーシード大佐。SDS型潜水艦《ホワイトシャーク》艦長」
「どんな夫婦だ!? つうか、夫婦生活……いや、ちょっと待て。あんた、何歳!?」
フル・サイバードは外見上、歳を取らない。
いや、そうではない。
外見上、いかなる年齢、いかなる容貌にもなることができるのだ。
だが、夫が、潜水艦の艦長になるような年齢であるということは――?
目を剥いて問い掛けたギアに、アスカは、すっと人差し指を差し出し、驚くほど柔らかくギアの唇に触れた。
それから、その指を顔の横に立て、ちっちっちっ、というように振ってみせた。
「年齢と体重は乙女のヒ・ミ・ツ!」
「ふざけんなー!」
完全な真顔が、異様に腹立たしい。
ギアはどんどんと地団駄を踏み、アスカを睨んだ。
顔が真っ赤になっている。
「くそっ、何だよ! 男心を弄びやがって……」
「私は何も。お前の一方的な判断ミスだ」
「うるせえーっ! スクラップにされてぇのか!? おお、そういや、あのときの勝負が、まだ決着してなかったよなぁ……!?」
「あの戦闘を続行する意思があるのか? 死ぬぞ」
「言ってくれるじゃねぇか? 負けてポンコツになっても恨むなよ!」
「私ではなくお前がスクラップになる可能性のほうが遥かに高いな」
「てめぇ!」
アスカ・ブルーシード。
生真面目そうな外見に騙されていたが、実は、ものすごく人を食った性格なのではないだろうか?
同じ体質、同じ機械の身を持つ者として抱いた淡い想いを、完膚なきまでに破壊され、ギアがぎりぎりと歯を軋らせた、そのときだ。
「ギアーッ!!!」
どこからともなく現れたカースが、ダッシュで飛び掛かってきたのを、
「ぎゃあああぁっ」
とりあえず、パンチ一発で地面に沈める。
要するに、八つ当たりだ。
「カース! お前は、くそややこしいときに、いきなり何の脈絡もなく出てくるんじゃねえ!」
「ううう……ひどいよギア~」
悲しげに唸りながら、しかし、さしたるダメージを受けた様子もなく立ち上がって、カースはくねくねと妙な踊りを踊った。
「ねえねえ、僕、君に付き合って、あれだけ頑張ったんだからさぁ~。ご褒美くらい、くれたって、罰は当たらないと思うんだけどなぁ~?」
「その喋り方やめろ。気色悪い」
先ほどのアスカとのやりとりを、カースは聞いていただろうか?
もし聞いていたなら即座に口を封じておかなきゃな、と物騒な決意を胸に秘めつつ、
「仕方ねえな」
ギアは、心底嫌そうに言った。
「菓子パン、おごってやるよ。オフィスの食堂で」
あれだけ危険な作戦を完遂したにしては、凄く安い報酬だ。
「そういうんじゃなくてぇ」
くねくねをやめて、今度は「うねうね」とでも言うべき奇怪な動きをしながら、カースはにっこり笑った。
「キスとか! ――あ、やめてよギア、あ痛、痛い、痛い、痛い!」
「て・め・え・はぁぁぁ……」
カースを取り押さえ、ギアは、その頭を両側からがっちりと拳で挟み込む。
「一度、本気で死ななきゃ、そのバカは治らねえらしいな、おぉ? オレの超最強必殺技《こめかみ陥没捻り込み》で地獄へ送ってやろーかコラァァァァッ!?」
「ぎゃあああああっ!? 痛い痛い痛い! ああああああ!」
ひとしきり、あられもない悲鳴を上げてから、カースはいったい何をどうしたものか、ギアの手からあっという間に抜けだして逃げていく。
「待てこらあああああッ!」
「ああああ! 誰か、助けてぇ~!」
抜けるように青い空の下を、遠ざかってゆく怒号と悲鳴。
ひとり残されたアスカは、二人の姿をしばらく見送り――
にいっ、と、満面の笑みを浮かべた。
【END】