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少女が思うより偶然は重なって

 ようやく四時限目が終わった。そして昼休みに入る。私は席を立ち購買へ向かう。購買は食堂に併設されていて校舎と体育館との中間に位置している。昔、学園には大学にしか購買がなく、皆、昼休みになると一斉に大学へ向かったため非常に混雑して、特に初等部生徒とのトラブルが絶えなかったらしく、そのため、各校にも併設されるようになった。だが各校の購買にはないものもあるため、それを求める生徒は他の購買を利用しに行くことになる。

 私は校舎から食堂へいく廊下を渡る、左手に食堂と購買の入り口が見え、正面には体育館につながる、幅三メートル高さ二メートルほどの所々塗装のはげた鉄製の頑丈な両開き扉がある。体育館へ行く生徒も幾人かは居るが、大半はその手前の食堂にて食事を取ろうと友人同士連れ添って歩いている。

 食堂の混み具合はかなりのもので食券を買う自販機に長蛇の列が出来、食堂の職員に食券を渡し、半券を受け取り待機所で待つスペースまで所狭しと生徒達が詰め寄っている。

 購買もまた人だかりが出来、目当てのものを買おうと、皆必死に店員に呼びかけている。

 私が買うものはいつも決まっていて、自販機で水と購買でコッペパンを買う。味気ないがしょうがない、食事についても通常は質素なものであるべきというのが修道院の規則だからだ。例外は人に呼ばれ馳走になる場合で、今朝の淵田との朝食がそれに当たる。

 ゆえに昼食はコッペパンと水、持ち帰り教室で食べようと思ったが、ペットボトルを捨てるゴミ箱は教室内になく、一々廊下に出て階段下のゴミ箱まで行かねばならぬなら、いっそここで食べたほうが合理的であることに気がつき、ここで食べることにした。

 ちょうど運良く窓の前に並んでいる一人席が空いているのでその隅に座るが、他の生徒たちが私のことを見る、居心地はあまりよくない。次回からは食堂で食べぬことを決め、手早く食べてしまおうと思いコッペパンの袋を空け両手で持ちながら端の方から噛付いていく。時折水を飲み喉を潤す。ふと窓の外を見ると私に湿布を張ってくれた保健委員が、裏門から学外に出ようとしている。裏門からは高校が一番近い建物であるが、彼女は何をしに外にでるのであろうか? 高校の購買にしかないものでも買いに行ったのであろうか? そう思案しながら、食べ終わる。早々に席を立ち、ゴミはゴミ箱に捨て教室に戻る。

 教室に戻った私だが五時限目の準備をする以外にやることはない。いつもならば教科書を開き予習に励むのだが、今はそんな気分ではない。


『Laban Shrewsbery』


 何者とも知れぬ、姿もしらぬ謎の人物。彼について思考を巡らせていくうちに、私は睡魔に襲われる。朝の様々な予定外の事項が、私の精神と肉体は随分と疲弊させてしまっていたようだ。

 深い眠りの果てに、この地の夢の国ではない、ヒアデスの伴星の夢の国へ誘われ星々を渡り顕現する。


……………………………


 暗き空、浮かぶは地球から見る月のおよそ数倍の月。私は小高い丘の上に立っていた。下を見下ろせば空と同じ暗き水面が広がる広大な湖と黒き森、さらにその奥に尖塔の立ち並ぶ都市、後ろを振り返れば道がある。道の幅は三フィート程度で砂利が敷かれている。

 自身を見下ろすと、ゴシック調の白い瀟洒な服で、靴は磨き上げられたエナメルの白い靴であった。

 丘を下り森へ近づく、森は黒く、針葉樹で百フィートはあろう木々が乱雑に聳え立つ陰鬱な森であった。

 森の入り口には猫が居た。体長は一フィートほど、四つの足と尻尾の先、さらに鼻から下と腹が白く他は全て黒い猫が斜めに構えながら警戒した様子でこちらを見る。

 私は猫に向かい一礼をした。猫はそれに答えるかのようにこう言い放つ。

「汝、その姿、現のものにあらず、夢見るものでありしか? 否、夢見の業にあらず。錬金の業と石笛なりしか?」猫は私にそろり、そろり、と近づき下から私を見上げ、匂いを嗅ぎ。

「否、錬金にあらず。汝、なにものぞ? 汝、我に汝の証を見せるや!」

 私は言われるままに左手を上げ、指をかざし門を開く。炎は指先で無音に揺らめいた。

「汝、偉大なるCの娘か……」言うが猫は首を振り、否と言う。

 私はかざした手を下ろす、炎は舞う。猫はさっ、と飛びのき叫ぶ。

「否、銀鍵の使い手なり! 剣の業……否、杯の業なり!」炎を見つつ猫は宣言する。

「汝の業、見事なり。小さき魔術師殿、遠きフォウマルハウトよりヒアデスへ来る守護炎、しかと見た」猫は警戒を解き、ゆるりと寝そべる。その猫に私は聞いた。

「そはなにものぞ? ウルタールの猫と見受けるが、何故かような場所に?」猫は私の問いに黒き森の入り口に目をやりながらこう答えた。恐ろしい速度で動く月が、遠くにそびえる尖塔の前を横切る。

「確かに。我、スカイ河のほとり、ウルタールより来るものなり。夢を渡りて暗きハリ湖に来た。ただの戯れぞ」こちらを向き、後ろ足で頭を掻きながら、問い返す。

「我は汝を知らぬ。ウルタールの名を何処で?」私は彼に跪き、答えた。

「焔の洞窟、ナシュとカマン=ターにてその名を聞く、しかし我は未熟ゆえ七百階段を降れぬ。銀鍵にて門を開き、夢を渡りて顕現するのみなり。」この問いに猫は頷くと。

「魔術師よ、汝、ハスタァに助力を望まんとするや? 彼の盲目博士、ラバン・シュリュズベィのごとくセラエノにて、知の研鑽を積まんと来たりしか?」猫の問いに私は即座に答える。

「否、我導き手を探すものなり。夢渡り、幾多の地を渡りて、なお会うことあたわず」無表情に私は言う。猫もまた目を細めこういった。

「ふむ、そうであったか」そして猫は立ち上がる。私も立ち上がり猫に語るというより詩を吟ずるかのごとく。

「我、未だ目覚めぬ。導き手は未だ来たらず。未だ我が業、使いこなせぬ。他の業も知らぬ」私は空を見上げ星々、語る。さらに私は両の手を広げ声を上げる。

「我は、夢見るままに待ち至るなり! 我、見聞を書き連ね、呪の言を集めん! 祝詞を唱え、彼の偉大なる大司祭クトゥルーとその神々のごとく、死せる眠りより目覚めんとせん!」猫はそろり、と近づく。

「小さき魔術師よ、唱えるものが呪にあらず、書き連ねし書を見よ」私は反論をするため口を開く。

「祝詞を唱えずして、何を唱える? 書は語り部なり、如何に神秘を秘されしとも……」私の反論を猫は遮って、語る。

「否、書は語り部にあらず。魔術において書は、それすなわち力なり。力を知らずに業は使えぬ」そして、猫は正面に座り、今はここまでにすべし、と言い。

「もし汝が力を知り、業を自在に使いしとき、ウルタールに参るが良い。歓迎しようぞ」猫はじっ、と私を見つめた。そうすると次第に視界がぼやけて来た。視線をはずし指を動かそうとするが、ぴくり、とも動かない。躯すべてが硬直し、まぶたすらも閉じることが出来ずぼやけた視界で猫を見続けた。

「長く居てはならぬ。魂に障るゆえ。我が汝を在るべき場所に送ろうぞ。小さき魔術師殿、再び相見えんことを。願わくば導き手の現れんことを!」視界は揺らぐ。

 まって! まだ! まだ! もっと! もっと! やっと己の体を動かすことが出来た。

 私は宙に浮かぶ感覚の中、必死にもがいた。殆ど見えなくなった視界、思うように動かない腕、不意に何かを掴む。掴んだ手に全力で神経を集中させ、さらに両手でつかみながらこう言い放った。


「まって! 行かないで! まだ!」


……………………………


「にゃああああああああ!」

 猫の鳴き声が聞こえる。ああ、よかった間に合った!

 私はさらに質問を加えるべく、ひた、と相手の顔を見た……がそこには望むものは居なかった。もがいた私が掴んだのは猫に近いが猫ではない人物のものであった。

「にゃに!? びっくりしたにゃ! 私はママじゃないにゃ!」驚き顔の彼女、北越が言う。どうやら『まだ』が『まま』に聞こえたらしい。

 私の声か、彼女の声かは知らないが、教室に居た全員が私のことを見る。えもいわれぬ羞恥が体を駆け巡り、寒気すらするが顔は熱く紅潮する。

「にゃぁああん! かわいいにゃあ! 辛抱たまらんにゃあああ!!」言うが早いか私は抱きしめられる。

「むが、むがが」彼女の腕の中でもがき苦しむ。しかし、猫口調の少女は意に介さず。

「にゅあああああ! にゃああ! にゅああああ!!」嬌声とも雄叫びともつかぬ声をあげる。当然、クラスの皆に見られている中で、だ。このような非常に恥ずかしい状況ではあったが、今考えていることは先ほどの夢の出来事であった。

 盲目博士、ラバン・シュリュズベリィ……やはり深層心理のなのだろうか? 盲目とついたのは私がまだ会ったことのない人物で、顔すらも想像出来なかったために、目がない、つまり顔を印象付けるセンテンスが欠如したのだろう。そして、知識が豊富であろうという考えで、私の中にあるセラエノ大図書館――これもまた何処かのパロディであろう――を結びつけ彼がセラエノに居たと猫に言わせたのだ。さらに猫は今、私を抱きしめている人物が相当するのであろう。

 適当な分析ではあったが、納得出来る答えに安堵した私は、にゃあ、にゃあ、鳴いている彼女に向かって、開放してくれるよう懇願した。しかし、彼女の答えは拒否であった。

「だめにゃあ、もう放さないにゃあ! 学校に居る間は私がママにゃあ!」その言葉にクラスの雰囲気は固くなる。しかし、猫少女は気づかない、彼女の背後に人影が出来たことも。

「にゃあ! ママってもう一回呼んd ぶぎゃ!」頭に手刀をくらい、驚く彼女。対して手刀を振り下ろした人物は少し低い声でこう言った。

「北越さん、もうやめにしなよ。ちょっと話があるの放課後いいかしら?」いつの間に戻ってきたのか、謎の行動の多い保健委員岩下が止めに入る。両親の居ない私のことを、気遣ってのことだろう。

 私は気にしていないのだが、他人は気にしてしまうらしく、それもまた私に近づかない理由の一つにもなるのであろう。

 北越は知らないゆえに私に躊躇なく接することが出来たのであろう。だが、これで知ってしまった。どういうことなのか不思議がる北越、岩下に疑問を口にしようとしたその時、本鈴は響き、五時限目の授業が始まる。

 今日はこれで最後の授業だ、当番も日直だけだからすぐに帰ることが出来る。修道院に戻り次第、柏原に許可をとり、急ぎ図書館へ行かなければ。はやる気持ちを抑えながら授業を受ける。許可が出るとよいのだが……そこが一番不安である。


……………………………


 許可はあっけなく取れた、というのも実に簡単なことで明日、大学で講演を行う人物こそがラバン・シュリュズベィその人であった。

 柏原にラバン・シュリュズベリィについて調べたいと言ったとたん、感心したとばかりに勝手に明日の講演の出席まで決めてしまって、さらには彼と学園長の夕食会への同席の許可まで下りた。学園長に夕食会への同席を得る際に、淵田は渋っていたようだが柏原に強引にねじ込まれたようだった。彼女曰く、勉学に励むのならばチャンスを逃してはならない、かの有名なミスカトニックの教授の授業などめったに聞けるものではない、ゆえに私が申し出たことが柏原の教育の成果でとてもうれしく思うと。あれこれと電話で連絡を取る柏原に、私は偶然というものの恐ろしさと沈黙が金であることを知った。

 彼女は苦労を背負い込む――ように見えるのも含む――人間に対して後押しをする性格なのだが、結果を残さないと満足しない性質でもあるので、レポートに関してかなりのものが要求されるだろう。好奇心の代償はかなり高くついたが、後悔はしていない。

 そのようなわけで、私は今大学付属図書館前に居る。この図書館はセキュリティが高く幾つかの区画ごとに分けられIDカードによってドアのロックが解除される仕組みである。

 入退室は監視カメラ記録され、不審な行動を取れば即座に警備員が飛んでくるという、大学本体より警備が厳重なのである。それもそのはずでここの図書には考古学上貴重なものや、その価値たるや億に達する書物が収められているということである。

 私は柏原から借りたIDカードを使い、入り口のゲートを開く。殆ど音もなく開く自動ドアを潜り抜け、受付に向かう。

 受付司書は無愛想な男で、調べものの名を告げると無言でコンソールをたたき、行き先を告げる。

「A区画から二階に上がって渡り廊下のT字路を左、E区画を抜けて廊下を真っ直ぐ行って、G区画のSの棚」そういうと印をつけた地図を渡され、IDカードについて質問をされる。柏原の名を出し彼女から借り受けたと説明すると。彼はお使いと思ったのか受話器をとり警備室に連絡し、私が柏原のIDカードで図書を借りていることを説明していた。

「こういっておかないと警備員が来ちゃいますから。あと本の貸し出しですが通常六冊までですが、G区画のものは二冊までです。G区画で借りると他の区画で一冊しか借りれませんから注意してください。それと借りるときはIDカードを提示してください」彼はそう言うと、席に座りこんだ。私は礼をいいその場を離れA区画と呼ばれた場所に入る。

 百メートル四方の内部は整然として本棚が設置され、分類ごとにきちんと整理された本が、ある種の美を伴っておりその美の中には人は幾人か居るものの、皆しゃべらず物音も最小限に止めようと神経を尖らせ調べものの邪魔にならぬよう配慮している。

 案内板と地図を見ながらA区画の階段を見つけ、渡り廊下を通る。渡り廊下から見える風景は夕日に染まる図書館の他棟や、影の長くなった道行く人々である。

 渡り廊下もT字路を左に突き当たりにあるE区画へのドアをIDカードで開く。無機質な電子音とともにドアは音もなく開いた。センサーによって点灯する蛍光灯が私のほかに誰も居ないことを告げ、硬いローファーの足音は二十メートル四方の区画全体に響いた。

 E区画からは右にF区画の、正面にG区画への扉があり、同じくIDカードによってのみ開けられる。G区画への入り口の前でもう一度地図をみるが、ややおかしな点があることに気づく。

 紙面の関係だろうが、地図の上ではG区画がE区画に並ばず矢印でつなげられていた。これはどういう意味なのだろうか? ただ紙面のレイアウトを勘案してずらしただけなのだろうか? そう疑問に思いつつ、IDカードを使いドアを開くとそこには縦横二メートル、高さ二メートル半ほどの部屋であった。なるほどエレベーターということか。

 私はエレベーターに乗り込み、行き先ボタンを見るがボタンは二つしかなかった。

 『上』と書かれたボタンが点灯しており、『下』と書かれたボタンが消灯している。『下』ボタンを押すと、ドアが閉じ少しの浮遊感とともに降下を始める。

 階を示す表示灯はなく、エレベータにあるのは行き先ボタンと非常用ボタンのみ。実に簡素なエレベーターであった。

 三分ほどであろうか、降り始めてからなんら変化のないエレベーターの中で待ち続けると、不意に電子音が鳴りドアが開く。開いたドアの外は暗闇で、エレベーターから漏れる光だけでは中をうかがい知ることは出来なかった。

 深淵に続くかのような闇に私はとある言葉を思い出し少し躊躇した。


『深淵を覗く者は深淵も等しく見返す』


 誰も居ないはずなのに、恐ろしい怪物が身を潜めているかのようで一歩を踏み出す勇気が出ない。しかし、ここであきらめるには高すぎる対価を支払っている。柏原から受けた期待はそれほどまでに高い。そう思い一歩を踏み出す。

 不意に蛍光灯がつき、びくりと震えた。あらかじめセンサーがあることは、他の区画で理解していても、心がそれに追いついておらず恐怖に揺れ動いた。

 この区画も他の区画同様に本棚が整然と設置されている。上から垂れ下がった案内板には、英語と併記して『写本資料集積室』と書かれていた。本棚を見るが、その背表紙には日本語で書かれたものが少なく、日本語らしきものもあるが毛筆体で書かれ判別が出来ないものもあった。

 私は棚の表記を見ながらSの項目を探し、程なくしてそれは見つかった。そこで私は彼が明日講演する内容――海洋民族と信仰――を思い出し、それに沿った内容のものを探す。

 それは簡単に見つかった、日本語でそのままのタイトルのものがあったのだ。私はその本を手に取り脇に抱える。あっけなく見つかったことに拍子抜けして気を緩めてしまった私は、めったにない機会なので、他に面白いものがあれば借りていこうと様々な本棚を見て回った。

 しばらく、目で追ってみるとここに置かれた本には幾つかの種類に分類されることがわかった。。

 一つ目は原書の書体のまま複製をしたもの、二つ目は書体を現代の常用に変更したのも、三つ目はその翻訳版。四つ目は赤字で『replica』と判の押された、材質以外は原書とまったく同じに再現したもの。

 どの本も同じ内容のものなら、並列して置かれていたので、翻訳版があればその内容をうかがい知ることが出来た。

 原書は古めかしい雰囲気そのままで、御伽噺に出てくる魔法使いが持っているような本に似ていた。似すぎていた、ありえない、そんなはずはない、なぜ?

 私はその赤字で『replica』と判の押された本に見覚えがあった、より正確にはその書体に。恐らくそれは古代の象形文字を中世の人物がそのまま羊皮紙に写し、翻訳と注釈を入れたものなのだろう。翻訳のほうは知らない、だが象形文字に見覚えがあった。

 それは、夢の中で見た神殿都市ルルイエの小さく奇妙な形の象形文字そのままだった。

 これも深層心理で心の片隅に在った物が浮き出たというのか。通常の人間ならばテレビでちらと映ったものを見ることもあるだろうが、生憎私はテレビを見たことが殆どない。

 この図書館に来るのも初めてである。私は空調の効いているこの部屋で冷や汗をかいていた。汗は額から滴り落ち頬を伝って床に落ちた。重なりすぎた偶然に私は、私の心が悲鳴を上げている。あの神々が実在するとまでは言わずとも信仰され、崇められていたというのならば人類の歴史のなんとちっぽけなことか!


 偉大なる大司祭クトゥルフ、名状しがたき導き手ハスタァ、燃え盛る悪しき太陽クトゥグア、無窮にして無敵なるものラーン=テゴス、門の鍵にして守護者ヨグ=ソトース、千匹の仔を孕みし森の黒山羊シェブ=ニグラス、這い拠る混沌にして知性の神ニャルラトホテプ、中心宇宙に座する秩序にして白痴の神アザートス


 それら全ての神は人外なるものたちによって信仰されていた。無論人間にも居るがそれは残滓のようなものに過ぎない。それらの存在を証明するかも知れない書物の複製品に私は心が震え、自分の中の正気が、少しづつ揮発していくような感覚を味わった。

 戯言と思っていたそれらが、現実に存在するなど誰が正気で居られようか? 空想はいくら現実に近くとも所詮は戯言、対岸の火事だから、干渉出来ない、安全なのであって、火事が隣で起きるならば平静ではいられないし、自身にも降りかかる。そしてそれは薄皮一枚の裏側で起こるのだ。人間は地球の支配者を気取るが、そんな程度で支配者を気取るなど、もやは滑稽を通り越して哀れすら感じられる。

 私はその本を奪い取るように手に取り、急ぎ早エレベーターに乗り込む。上昇している間壁にもたれ、荒い息をついた。上昇している三分間が恐ろしく長く感じられた。

 誰も居ないE区画を早足で駆ける。少しでも早く人の居るところに行きたかった。

 もどかしい思いでIDカードを使いドアを開けA区画に逃げ込む。A区画に入ると幾人か居て私のほうを見やると、皆ぎょっ、としている。無理もない、年端もいかぬ少女が分厚い本を二冊持ち、息は過呼吸のように荒く、目は見開き、汗をだらだらと流している様は何か尋常ならざることがあったのではないかと、推察させるには十分だった。

 そう思ったのか私を見ていた司書が話しかける。

「君、大丈夫かい? 何かあったのかい?」私は取り繕うようにいった。

「い、いえ、なんでもないです」そういうのが精一杯だった。その答えに納得のいかない様子の彼はこう私に言った。

「そ、そう、それならいいけど。それにしても変わった本を持ってるね。ラテン語なんてめずらしい」私から状況を聞きだすのは無理と判断したのか、話題を振ってきた。

「はい、頼まれて借りてきました」ラテン語だったのか、翻訳の言語がわかったのは幸いだった。象形文字の方はわかっているのだが翻訳言語がわからなかったのだ。

「あとラテン語の辞書も探しているのですが、どこにありますか?」人が居ることによって幾分落ち着きを取り戻した私は、最後の一冊を借りるべく司書に尋ねた。

「ああ、それなら向こうの棚にあるよ」快く司書は教えてくれ、私は無事、本を借りることが出来た。

 図書館から出て真っ直ぐ修道院に向かう。迂回路まで、修道院西門まであと二十メートルというところで、ある男女二人組みに出会う。

 女性のほうは年のころなら三十代後半、身長百七十センチ越え、リクルートスーツを着て、落ち着いた雰囲気でこちらを見ている。スカートから出ている足、上着の上からでもわかる鍛え上げられた筋肉、アスリートなのだろうか、その鋭い目で見られると萎縮してしまい、私は立ち止まってしまった。

 男性のほうは顔に深く刻まれた皺が、彼が老齢であることを示し、夕方であるにも関わらず古風な装飾をあしらった、真っ黒なサングラスをかけ、きっちりと背広を着こなしている。黒いガラスによってその双眸はうかがい知ることは出来ない。

 黒いサングラスの紳士が私のほうをじっ、と見た。その視線の先がどこにあるのかはわからないが、何か心の全てを見透かされるような感覚に陥った。そして、恐るべきことを口にする。

「おや、それは私の本じゃないかね?」もはや、偶然などという言葉は聴きたくない。誰かが、運命を操る機械仕掛けの神が私を導いているのではないのだろうか? ああ、目の前に居る人物こそ、ラバン・シュリュズベリィなのだ。私の口から彼の二つ名が漏れる。

「盲目博士……」目を見開き、全身から汗が噴出し、躯が震える。あからさまに女のほうが警戒する。

「ふむ、君は私のことを知っているのかね?」右手で女のほうを制し、紳士は左手でサングラスをはずす。その双眸は……私の思考が停止する。

「勉学に励むのは結構だ、だが内容がいけないな。いや海洋民族と信仰の方じゃない。そっちの本だ。いやラテン語はいい、この学園の宗教も神聖な儀式と呼ばれるものにラテン語を使う。問題はレプリカのほうだよ。何故持ち出せたのかね? ああ、なるほど、IDカードは君本来のものではない、修道院の施設長のものだね?まったく困ったものだ。セキュリティが甘すぎる、これでは簡単に持ち出せてしまうな。やれやれ、Mr.淵田にも困ったものだ。後で言い聞かせないといけないな。彼は俗人過ぎる。さて君の処遇だがどうしたものか? 君の名前は? ……ふむ、答えられる状況ではないようだね。少々悪いがその本は返してもらおう、そして一連の記憶は封鎖が妥当だろうな。日野君、周囲の警戒を頼むよ」

「はい、教授」


……………………………


 む?あの子はさっき本を借りにきた子じゃないか? なんだろう? まだ用事があるのかな?

 え? この本を返したい? ああ構わないよ、こっちで手続きをするからそこの棚においてくれればいい。

 はい、それじゃね。ごくろうさま。……本を間違えちゃったのかな?

 G区画の本なんて難しいのばっかだし、しょうがないか。さて、返しに行くには警備員に連絡しないとな。レプリカとはいえ、すごい歴史的価値があるからって言っても厳重すぎるような気もするけど。何が書いてあるのかな? 俺、ラテン語読めないんだよね。今度勉強すっかな。

 あ~、もう少しで定時だ。今日の仕事やっと終わる。帰ってネトゲでもすっかな、幻夢郷は面白いな。これで月五百円は安すぎる。課金でお布施してもいいのにな。っとまた人が来た。はい、なんでしょう?


……………………………


 私は修道院に帰る。柏原はニコニコ顔で私が何を借りてきたのかを見る。『海洋民族と信仰』と『ラテン語辞典』を見るとさらに顔をほころばせた。

「ああ、修道女の道を歩む気になりましたか。それはすばらしいことです。そうでなくとも、儀式の言語を学ぶのは良いことです。さ、夕食前のお祈りの時間です。皆、集まっていますよ。行きましょう、みやこさん」私は言われるがまま、歩く。

 私達の他三人が食堂に集まり祈りをささげている、それに倣い祈りをささげ、夕食――マッシュポテトサラダ――を食べる。質素とはすばらしい、考え出した人物を糾弾し十字架に磔にしたいくらいに。

 夕食後は明日のための予習、借りてきた本を読み重要な部分をメモする。今日は特別に消灯時間は二十二時まで許可された。十分に時間があるのでしっかりと予習できた。

 しかし、心に違和感がある。何か重要なものを欠落したような感覚であるが、それがなんなのかまったくわからないし、心当たりもない。

 明日のラバン・シュリュズベリィ教授の講義が楽しみだ。……そもそもなんで興味を持ったのか、その理由は忘れたがそれでも楽しみだ。満たされないのに満足。私の心の中の何かが変化したような気分がする。

 そんな自分でもよくわからない心境を胸にしまい、明日に備えて眠りにつく。

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