■ 第1話:便器の飛沫と、変わりゆく男の流儀
・御子柴 健(42歳・男):よれよれスーツのリーダー。常にスケールの大きな極論へと飛躍させたがる。
・氷室 司(28歳・男):銀縁眼鏡のデータ至上主義者。常に現実的・唯物論的な解釈で御子柴に反論する。
・轟 大吾(35歳・男):筋肉質でタクティカルジャケットを着用。現象の裏に他国や軍の「悪意」を見出そうとする。
・烏丸 玲奈(30歳・女):黒髪ロングのミステリアスな女性。科学の議論に「精神世界」や「オカルト」の概念を混ぜ込む。
・七海 悠太(24歳・男):パーカー姿の若者。専門用語に戸惑い、最悪の結論が出ると誰よりもわかりやすく怯える。
無機質な換気扇のファンが、低く単調な音を立てて回っている。
窓一つない地下深くの第4会議室。
長机の端で、氷室司は手元のマイボトルから冷たいブラックコーヒーを紙コップに注ぎ、無駄のない動作で一口飲んだ。
そして、曇りのない銀縁眼鏡の奥の瞳を細め、タブレットの画面をスワイプする。
「……以上が、現在社会において完全に定着した『新しい生活様式』のデータ群です」
氷室の指先の動きに連動して、壁面の巨大モニターにカラフルな円グラフがいくつも投射された。
「日本の一般家庭における、男性の洋式トイレでの排尿姿勢。2010年代前半には『立ってする派』が半数以上を占めていましたが、2029年現在、実に【82パーセント】の男性が『座って用を足す』と回答しています」
「82パーセント……。圧倒的だな」
轟大吾が、腕組みをしたまま重々しく頷く。
分厚い胸板を包む黒のタクティカルジャケットが、わずかに軋む音を立てた。
「ええ。このパラダイムシフトの最大の要因は『衛生面』と『家事負担の軽減』です」
氷室は、タブレットをトントンと指先で叩きながら、冷徹な声で解説を続ける。
「男性が立って排尿した場合、目に見えない微細な尿の飛沫(マイクロ飛沫)が、床や壁に向かって半径2メートル以上も飛び散ることが科学的に証明されました。これがアンモニア臭や、頑固な黄ばみの原因となる」
氷室はそこで言葉を切り、長机の奥でふんぞり返る男を一瞥した。
「近年、共働き世帯の増加に伴い、家事の効率化は最重要課題となりました。それに伴い、女性保護団体やフェミニストのロビー活動、さらにはメディアの啓蒙キャンペーンが功を奏したのです。『トイレを汚さないのは家族への思いやり』であり、『立ってするのは自己中心的でマナー違反』であると」
「……あー、わかります、それ」
パーカー姿の七海悠太が、後頭部をポリポリと掻きながら、気まずそうに手を挙げた。
「俺も実家で、母ちゃんにめちゃくちゃ怒られたんですよね。『あんたが立ってすると壁が汚れるから、絶対に座りなさい!』って。今じゃもう、座らないと落ち着かなくなっちゃいましたし……」
「正しい判断です、七海くん」
氷室が、眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げる。
「これは道徳と科学が結びついた、極めて【合理的な社会の進化】です。男性が座ることで、家庭内の不和は減り、清掃の手間という無駄な労働力も削減された。……特務考察機関サイファーが扱うような、オカルトめいた謎などどこにもありませんよ、御子柴さん」
絶対的なデータ至上主義者である氷室の結論。
しかし、リーダーの御子柴健は、無精髭の顎をジョリッと撫でながら、口の端をニヤリと歪めた。
「ククク……相変わらず、表面上のデータしか見えてねえな、氷室」
「何ですって?」
「『合理的な進化』だと? 笑わせるな。何万年も前から、オスってのは立って放水マーキングをして己の縄張りを主張してきた生き物だ。そのDNAに刻まれた本能を、たった十数年の『マナー』とかいう薄っぺらい言葉で、8割の男がやすやすと放棄すると思うか?」
御子柴が、パイプ椅子から身を乗り出し、机をコンコンと指の関節で叩く。
「誰かが意図的に、男たちから【立つ】という行為を奪い去ろうとしているんだよ。それも、気付かれないように、ゆっくりとな」
「……意図的に立つことを奪う? 何のためにですか」
氷室が眉をひそめる中、腕組みをしていた轟が、ふと険しい顔つきになった。
彼はタクティカルジャケットのポケットから携帯端末を取り出し、猛烈な勢いで何かを検索し始める。
「……御子柴の直感も、あながち狂ってはいないかもしれないぞ、氷室」
「轟さんまで……。一体何のデータを見ているんです?」
「軍と、警察の【体力測定データ】だ」
轟は端末を長机の上に置き、鋭い眼光で全員を見回した。
「座りションが普及し始めたこの十数年間。見事に比例するように、若い男性の『握力』『背筋力』、そして『基礎体力』が、世界規模で異常な低下を引き起こしている」
「それは……スマホの普及や、インドア志向による運動不足が原因では?」
「それだけじゃない!!」
轟が、分厚い両手でドンッ!と長机を叩いた。
「体力の低下以上に深刻なのが、精神面だ。自衛隊の入隊志願者の心理テストにおいて、『闘争心』や『競争意識』のスコアが、ここ数年で信じられないほど激減している。……まるで、男たちから【牙】が綺麗に引っこ抜かれているみたいにな」
「男たちから……牙が抜かれている……?」
七海が、怯えたように肩をすくめる。
「ええ。その現象、生物学的なデータにもハッキリと現れているわ」
密室の空気を縫うように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女はペットボトルの水をコップに注ぐと、透き通るような指先でその縁をなぞり、妖しく微笑んだ。
「轟さんの言う通り、若い男性の気力が落ちている。その根本的な原因は、男性の闘争本能や筋力を司るホルモン……【テストステロン】の血中濃度が、世界中で急激に低下しているからよ」
「【テストステロン】……男性ホルモンですか」
氷室がタブレットを操作し、瞬時にデータを補足する。
「確かに、WHO(世界保健機関)の昨年のレポートでも、成人男性の平均テストステロン値が、過去50年間でかつてないほどの右肩下がりを記録しているという報告があります。しかし、それは環境ホルモンや、現代社会のストレスが原因だと……」
「ククク……ハハハハハ!!」
不意に、御子柴が天を仰いで狂ったように笑い出した。
彼は立ち上がり、よれよれのスーツのポケットから手を抜いて、巨大モニターの「座りション普及率のグラフ」を指差した。
「繋がったぜ! お前ら、まだ気づかねえのか! 握力の低下も、闘争心の欠如も、テストステロンの減少も! すべてはこの【便座に座る】という行為そのものが引き起こしている【物理的な結果】なんだよ!!」
「座って用を足すことが……男性ホルモンを減らしていると言うんですか!?」
氷室が、信じられないものを見るように眼鏡の奥の目を見開いた。
「そうだ!! 氷室、お前はフェミニストや女性団体が『トイレを汚さないで』と男を座らせたと言ったな! 違うね!」
御子柴が、ホワイトボードの前に歩み寄り、黒のマーカーで『女性団体』『マナー』という言葉を書き、その上に大きくバツ印を引いた。
「彼女たちは、ただ綺麗好きなだけだ! 家族のために、掃除の手間を減らしたいと願っただけの【善意の被害者】に過ぎねえ!!」
「被害者……? どういう意味ですか、御子柴さん」
七海が、ごくりと生唾を飲み込む。
「影の支配者……世界を牛耳るグローバル企業や、一部の特権階級の連中が、女性たちの『清潔さへの願い』を隠れ蓑にして、最悪のプロパガンダを仕掛けたんだよ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「奴らの本当の目的は、男たちから暴動や戦争を起こす『闘争本能』を奪い去り、権力に絶対に逆らわない【従順な家畜(労働力)】へと肉体改造することだ! そのために、男たちを毎日、必ず【ある装置】の上に無防備な状態で座らせる必要があったんだ!!」
「ある装置……」
轟が、顔面を蒼白にしながら、低く呻いた。
彼のような戦場のプロフェッショナルでさえ、その兵器の「設置場所」の悪辣さに、背筋を凍らせていた。
「そうだ。俺たちが毎日、自分の最も無防備な急所を、密室の中で曝け出している場所……」
御子柴は、悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の真実を告げた。
「最新の【温水洗浄便座】だよ!!」
「……っ!!」
七海が、パイプ椅子から転げ落ちそうになりながら、息を呑んだ。
誰もが毎日、疑うことなく腰を下ろしている、あの温かくて清潔な便座。
それが、全人類の男たちを去勢するための、世界規模の「罠」だったというのか。
「な……!!」
七海の脳裏に、実家のトイレの風景がフラッシュバックする。
毎日、何も知らずに便座に座り、ホッと一息ついていたあの時間が、実は自分の男としての本能を削り取られる「処刑台」だったなんて。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
逃げ場のない地下の第4会議室に、七海悠太の絶望の悲鳴が響き渡った。
無機質な換気扇の音が、まるで彼らの恐怖を吸い込むように、一段と高く鳴り続けていた。




