30
地下牢から解放されたのは、翌朝になってからだった。
校舎の廊下は、そこら中に赤黒い血痕が残っていて荒んだままだ。牢から出られても、あまり爽快な気分にはなれなかった。
とりあえず全身に活力を行きわたらせるように背伸びをして、固くなっていた手足の筋肉をほぐしていく。
どんなに耳をすませても、もう校庭から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくることはない。広い校舎のどこに行っても、子供たちとすれ違うこともないんだ。
その事実が、寒風のように胸のなかを撫でつけてきて、寂しさを掻き立ててくる。
それでも、俺のことを待っていてくれる人はいた。
「……リオン」
廊下に立っていたルリアは、俺と目が合うと走り出した。白い髪をなびかせながら、そんなに距離はないのに全力で駆け寄ってきた。
目の前で立ち止まると、ルリアは唇をつぐんだまま息を飲み、少しだけ目元をあげて切なそうに見あげてくる。
「ルリア……」
たった数時間離れていただけなのに、ずいぶんと久しぶりに会ったような不思議な感覚がする。そんなふうに感じてしまうほど、俺たちを取り巻く環境は何もかもが変わってしまった。
「ダインから、いろいろ話を聞いたよ」
ヘーレス先生のことも、とルリアは付け加える。
その声音はやるせなさを帯びていて、ヘーレスのやったことが許せないようだ。
「それに……ダインがやろうとしたことも」
地下牢で俺を攻撃しようとしたことを、律儀にもダインはルリアに打ち明けたみたいだ。黙っていればいいものを、不器用な性分をしている。
「ダインがわたしの幸せを願ってくれるのはうれしいけど、それで誰かが傷つくようなら、わたしは幸せになんてなれないよ。……そう言って怒ったんだ」
ルリアは重ねた両手を胸元に当てると、申し訳なさそうに眉尻を下げてくる。ダインの犯した過ちが自分の罪であるかのように心を痛めている。
「はじめてちゃんと、ダインのことを叱ることができたよ」
ルリアは唇をゆるめる。笑うことはできていないけど、それでも笑おうとしてくれていた。
「いつもみたいに、グダグダにはならなかったんだな」
うまく笑えていないルリアの代わりに微笑む。俺は大丈夫だってことを伝えてあげたくて、口元をほころばせる。
そんな俺を見て、ルリアは唖然としていた。そして胸のつかえが取れたように、強張っていた肩から力を抜いていく。
「……よかった。リオンがリオンのままでいてくれて。本当によかった」
つぶらな白い瞳の奥に波紋がひろがる。目尻がにじんでぬれると、それは大粒の涙となって、頬をすべり落ちていった。
「ノエルがいなくなっちゃって……お姉ちゃんも変わっちゃって……それにわたしたちは魔物から生み出されたもので……」
いっぺんに大切なものを失いすぎた。受け入れがたい現実に押し潰されてしまい、ルリアは止めどなく涙を流す。そのしずくが雨粒のように床へと落ちていく。
昨日からずっと、一人で泣いていたのかもしれない。頼れる人が誰もいなくて、感傷に浸るしかなかったのかもしれない。辛くて傷ついているのに、肝心なときに、そばにいてあげることができなかった。
そっと手を伸ばす。ルリアの背中と腰に触れて、その体をつつみこむように抱きしめる。ルリアはちょっとだけ肩をビクリとさせたけど、抵抗することなく受け入れてくれた。
お互いの体温と鼓動が、肉体を通して感じ取れる。
「俺たちの正体がなんであろうと、俺は俺だ。ルリアはルリアだ。何も変わりはしない」
勇者候補が魔物からつくりだされたものだとしても、俺たちの関係が変わることはない。どれほど凄惨な真実があろうとも、それだけは変えさせない。
「だけど、このままだと、わたしたちは……」
まもなく卒業試験が行われる。そうなったら俺たちは殺し合わないといけない。生き残れたとしても、その先に待っているのは暗い瞳をした姉さんの姿だ。
抱きしめているルリアの顔を見つめる。涙にぬれた頬が赤くなっている。心がボロボロになっているのが見て取れる。
「絶対になんとかする。大人たちの勝手な都合に、これ以上振り回されてたまるか」
胸が熱くなるほどの火を灯して、決意を込めて、そう言った。
運命なんかに負けたりしない。
この世界に生まれてきたことを、後悔したくない。
もう何一つ、大切なものを奪わせはしない。
この腕のなかにある温もりだけは、命に代えても守ってみせる。
「リオン……」
ルリアが見あげてくる。いつの間にか瞳からこぼれていた涙は止まっていた。
一度だけ唇を結ぶと、ルリアは右手を伸ばしてくる。俺の頬をなぞるように細い指先が触れてくる。
「わたしも戦うよ。リオンを守るから」
そう言うと、ぬれている瞳に強固な意思の光が宿った。
「わたしだけじゃない。ダインだって、リオンを守ってくれるよ。だから何でもかんでも一人だけで背負い込もうとしないで。リオンが悲しんでいたら、わたしも一緒に悲しむよ。リオンが怒っていたら、わたしも一緒に怒ってあげるから。だからわたしたちを信じて。リオンが背負っているものを、ちゃんと分けてくれないといやだよ」
訴えてくるようなルリアの必死な言葉が、狭まっていた視野をひろげてくれる。頬をはたかれて、目が覚めたような気分だった。
何もかも一人で背負い込んで、みんなを助けてやろうだなんて、思い上がりもはなはだしい。俺の力なんて、高が知れている。そんな上等な人間なんかじゃない。
みんなに支えられているから、俺は戦うことができる。
みんながいてくれるから、俺は立ち向かうことができるんだ。
そんな当たり前で大切なことを、忘れていた。
「リオンはもっと自分のことを大切にしないとダメだよ。じゃないと、リオンのことも叱っちゃうからね」
ルリアは目尻をゆるめて微笑んでくる。ちゃんと笑うことを思い出してくれたみたいだ。
胸のなかが、いろんな想いで満ちていく。俺には、一緒に戦ってくれる仲間たちがいる。それが、うれしくてたまらない。これ以上ないほどに、その存在に心を支えられている。
「あぁ、頼りにしている」
もう一度だけ、ルリアのことを抱き寄せる。その温もりを、心地よい香りを、心音の響きを感じる。
ルリアも俺の胸元に顔をうずめてくると、子守歌でも聞いているような安らかな笑みを浮かべて目を閉じていた。
いろんなものを失った。掌からこぼれてしまったものは、とてもじゃないが数え切れない。そのなかには、もう二度と拾いあげることができないものだってある。
……それでも。
今でも俺のそばには、仲間たちがいてくれる。
俺を支えてくれる人たちのことだけは、何があっても信じることができる。




