国民的アイドルは生き続ける
「鷺谷ー! 久しぶりー!!」
その苗字を呼ばれると、私の体がびくっと揺れた。反射的だった。
息の塊が胸に詰まったような苦しさを感じながら、そっと、声の方に顔を向ける。
私は、途端に安堵した。そこにあったのは、昔馴染みの知っている顔。
「けいちゃん、みくちゃん、久しぶり!」
それは、小学生の頃の友達だった。
「鷺谷、ほんとめっちゃ良かったよ〜。すっごい可愛かったし、感動して死ぬほど泣いた!」
けいちゃんが目に涙を浮かべながら私に抱きついてくる。衣装がヨレることに気が回ってしまう私の思考を、ぐっと抑える。そして、けいちゃんの頭をとんとん撫でた。
「来てくれてありがとう」
それは、紛れもない私の本心。
「鷺谷は私たちにとって誇りだよ誇り! もう、いっつも鷺谷の顔がそこら中にあって、すっごいうれしい! なんか、私たちが誇らしいよ!」
みくちゃんはそう言うと、私に笑いかけてきた。私も微笑み返す。
鷺谷。もう、捨てた名前。
「もー、鷺谷って呼ぶの、恥ずかしいからやめてよー」
「いいじゃん! 小学生からの付き合いの私たちじゃないと、鷺谷のこと鷺谷って呼ばないでしょ! 逆にレア!」
まあ、誰が聞いている訳でもない。いや、聞かれてはいるか。でも、聞かれたところで、私の過去と結びつけられる人はいない。だったら束の間、ほんの数十秒、「鷺谷和」に戻っても良いかもしれない。
それから少し、雑談した。
仕事場で幼少期からの友達と会うのは、不思議な感じ。安心感があるけれど、恥ずかしい。例えば、高校の友達と一緒にいる時に、小学生の頃の友達とばったり会うような感じ。いや、少し違う。もっともっと、安心感がある気がする。いや、やっぱり、そうともいえない。
きっと、演じている自分が作っている関係性と、素の自分が作っていた関係性が、ごちゃごちゃこんがらがっているのだ。変わっていない自分と、変わっている自分が、同時に登場してしまうのだ。恥ずかしかったり、誇らしかったり、どっちの場合もあるだろう。例えば、今の私はどうだろうか。一般的に考えたらきっと、誇らしいと言って良い状況なのかもしれない。
旧友の後ろの列には、まだ沢山の大人達が、私に挨拶をするために並んでいる。少し離れたところでこちらを見ているマネージャーも、少し眉を潜めはじめている。だから、雑談は終えなければならなかった。
「今日は、来てくれて本当にありがとう。またご飯行こうね」
「うん! 誘うよ! あとでメッセージ入れる! 鷺谷、またね!」
私は二人に手を振ると、次に来る大人たちに向けてまた笑顔を作った。瞬間、その自身の顔の筋肉の動きではっと気づいた。あの二人の前では、表情を作らずに済んでいたのだと。やっぱり、旧友の存在はありがたいのだろう。
忙しい毎日だけれど、なんとか時間を作って、あの二人とご飯でも行こう。そんなことをほんの僅かな希望にしながら、無感情に弾けるような笑顔を改めて作ると、
「あの、すみません」
突然出口の方から、ぐいっと一人の男の子が現れて、私の前に割り込んできた。
「ん? どうしました?」
思わず困惑しながらも、表情を崩さずに質問をする。
その人の顔をしっかり確認すると、すぐに分かった。さっきすずめちゃんと一緒に居た人だ。すずめちゃんの先輩さんだ。どうしたのだろうか。
「唐突に、本当申し訳ないのですが、あの……」
そこまで言うと、少し言い淀む。彼の表情は、すごく硬い。私の前では、大抵の男の子は顔を硬くする。私に余裕を持って話しかけて来ることができる人なんて、年の離れた人か、よっぽどの自信過剰なナルシストだ。
だから、彼の表情も見慣れた男の子の顔……のはずだった。
でも、何かがおかしい。目は少し血走っているように、ぎょろっと開いている。興奮しているのか、口から息をしているようだ。
すると、スタッフの人が割り込んできた。
「すみません、他にも沢山お待ちの方がいるので――」
「あ、すみません、一言だけ、すぐ終わります。あの……」
私は、少し首を傾げる仕草を取った。「のどか」は人を無下に扱うことをしない。でも、早く済ませてほしい。少し微笑みながら、彼の顔を見る。彼の半開きの口が、動いた。
「あの……鷺谷成美、って言う名前に、聞き覚えないですか……?」
鷺谷、成美。
一瞬、自分の意識が無くなったかと思った。
コンマ数秒、何も覚えていない。体が、湿る。喉の筋肉が、収縮する。
「あの、ちょっとすみません、お帰りくださ――」
「鷺谷成美と、どういう関係ですか?」
スタッフの人が驚いたようにこちらを見る。
ここで気づいた。私は、声を出していた。スタッフの人の声を、制していた。咄嗟だった。目の前にいる彼が帰らされてしまう。ダメだと思った。だから、それを止めるために、声を出していたみたいだった。
「鷺谷成美さんが亡くなる直前の期間、よくお会いしていました」
彼は、真顔で、淀みなく、そんなことを言う。
さっきまで言い澱んでいた彼とは、まるっきり別人のよう。表情は硬くない。でも、柔らかくない。真顔。いや、無表情になっている。
この人が。
この人が……?
この人が、鷺谷成美と会っていた人?
鷺谷成美が……私のお姉ちゃんが、自殺する直前に、会っていた人?
「ちょっと、こっちに、きて」
気づけば私は、彼の手を取って走り始めていた。
「ちょっと、のどかちゃん!」
「ごめんなさい、家族のプライベートの話しで、すぐに戻ります!」
マネージャーから声が飛んできたが、そっちの方には振り向かず、声だけで返事をする。周りにいるスタッフは、突然のことで動けていないみたいだった。
「え、え、のどかちゃん? 先輩? 急にどうしたんですか?」
少し離れた所から、すずめちゃんが困惑したようにこっちに寄ってきた。私は無視する。
彼の手を引っ張りながら、廊下を曲がる。暗くなっている部屋があった。覗いてみる。中には誰も居ない。私は彼の手を強く引きながら、部屋の中に入り、電気をつけた。
廊下から、私を呼びながらこちらに走ってくる足音が聞こえてくる。咄嗟に扉の方に戻り、鍵を閉めた。
私は一息吐く。そして彼に向き直ると、驚きで体がびくっと固まった。彼しかいないと思っていたが、その横にはなぜかすずめちゃんもいたからだ。付いてきていて、一瞬の隙でちゃっかり部屋の中に入ってきたようだった。気づかなかった。
でも、この際どうでもいい。
私は、その男の子の前に立つ。背が高い。少し見上げる形になる。
真っ直ぐ目を見ると、その男の子も、真っ直ぐ、私の目を見ている。
「あなたは、〈短命〉?」
私は、確認をしなければいけなかった。
「そうです」
男の子は、無表情にそう答えた。
「寿命は、十九歳?」
「はい」
お互い、目を離さない。
「そう」
そうなのか。この人が。この人が、そうなのか。
「あの、すみません、可能なら、聞きたいことが――」
「ねえ、あなた、お姉ちゃんから聞いた?」
男の子が何かを話しかけたが、私はそれを遮った。
「鷺谷さんは、君のお姉さんなんですね。今まで、何度も目に入っていたのに、なんで気づかなかったんだろう。じゃあ、あの、聞きたいこと――」
「私の質問に答えて。お姉ちゃんから聞いたの?」
「なんのこと?」
「分かってるでしょ?」
「分かんないよ」
あいかわらず、彼に表情はない。その目は真っ直ぐ私を見ているが、でも、私を見ていない気がした。目が、黒い。人からこんな目で見られることなんて、いつ以来だろう。
「……バカげた革命の話しよ」
声が震えないように、はっきりと、私は言った。
「……聞いたよ」
彼は、肯定した。じゃあ、やっぱり、間違いない。
「そう。じゃあ、やっぱり、あなたなのね」
「えっと、何がかな?」
ここまできて、シラを切るつもりなのか。私が、鷺谷成美の妹が、何も知らないとでも思っているのだろうか。
「しらじらしいね。私は、知ってるから」
「……」
まだ、黙る。
何も、言わない。
そういうことなら、じゃあ、別に、いい。
元々私は決めていた。
干渉はしないと。
「別に、私はあなた達のような〈短命〉に興味ないし、あなた達のような〈短命〉に私が言う言葉なんてない」
私は、〈短命〉が嫌いだ。お姉ちゃんが生きていた頃から、ずっと、嫌いだ。
「でも、一言言っておく。私はあなたのこと、いや、あなた達のことを、軽蔑する。心の底から」
「……」
ここまで言われても、彼は、何も言葉を発さない。
でも、やっと表情が揺らいだ気がした。
しかしその表情は、私に看破されたことに驚く訳でも、焦る訳でもなく、私の言葉に不快感を表したものでも、傷ついたものでもない。少し、後悔するような、ただただ悲しそうな、そんな表情。
「なに、その表情。〈短命〉お得意の悲劇のヒロイン? 勘違いしないで。あなたは被害者じゃないよ。加害者だよ。お姉ちゃんのバカげた革命の話し、聞いたんでしょ? あなたが、それを引き継いだんでしょ?」
干渉しないと決めていた。でも、一言言ってやりたかった。
それだけだったはずなのに、私の口から、言葉が溢れ出る。
「私はあなた達を認めない。あなた達の存在自体、認めない。だから、関わる気もない。別に、あなたのことは誰にも言わないから、安心して。かわいそうな人達なんだもの。好きにしたら良いじゃない。被害者ぶって、自分達のことしか考えていない。でも、そんな人間、どうせ何もできない」
彼の表情は、変わらない。
この人は、何を考えているのか。
でも、私は、干渉しない。
でも、私は、目は逸らさない。
「……まどかちゃん、あの、ちょっと話しが見えないんだけど」
数秒、沈黙が続いたあと、彼の横に呆然と立っていたすずめちゃんが、ボソッと声を漏らした。
「すずめちゃん、ごめんね。また今度ご飯行こう」
彼の無機質な瞳から目を逸らさずに、すずめちゃんの言葉に適当な返事をする。
別に、すずめちゃんに話しを見せようとしていない。
これは、鷺谷成美と、目の前にいる彼と、私の問題なのだ。
「ぜひぜひ! でも、その、この先輩、その、そんなに悪い人じゃないというか……まあ、めんどくさかったりイラついたりすることもあるけど、でも、悪意とかないし、人間は出来て……はないけど、でもちゃんとしてるところはしてるっていうか……」
部外者は、黙っていてほしい。この子は空気が読める子だと思っていたけど、所詮……。
「すずめちゃん。こっちの話しだから。ごめんね。またね」
「……のどかちゃんも、短命差別をする人だったの?」
所詮、この子も、〈短命〉。
この子は「違う」と思っていたけど。
「あのさ、別に……」
もう一言言おうと思い、私は、ここでやっと彼から目を逸らして、すずめちゃんを見た。
すずめちゃんは、目に一杯、涙を溜めていた。でも、堪えていた。今、私の目の前で、必死に、堪えていた。
いや、今だけじゃない。そういえば、この子と初めて会った時から、ずっと、この子は……。
「……帰ろう。時間取らせて、ごめん」
彼は、やっと口を開いた。
そして、全身に力を入れて、何かを堪えて固まっているすずめちゃんの手を引っ張って、扉の方へ歩いて行った。
「うわっ、やっぱここにいたぞ! のどかちゃん、何してるんだよ!」
彼が鍵を開いて、開け放った扉から、すぐにマネージャーが飛び込んできた。
「すみません。大丈夫です。すぐ戻ります」
「ちょっと、のどかちゃん、その顔どうしたの? そんな顔で出てったらやばいよ。どうしたのよ。 ……まさか、あれが彼氏とか元彼とか言わないよね? やめてくれよ。のどかちゃんの商品価値が……今後のキャリア計画が変わってくるぞ……おい、ちょっとあいつのこと帰すな!」
「違います! やめてください。私の家族と知り合いだった人です。私のデバイスでも何でも見てください。何もないですよ。私は、あの人と関わりありません」
「いや、色んな人が来ている前であんな行動されたら――」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。でも、何でもないんです。あの人とは、関わりなんて、ないです。……私が、全部を……今までのキャリアを棒に振る訳ないじゃないですか」
「……まあ、いいよ。わかった。あとでプライベート用のデバイスは確認するからな。とりあえずほら、いつもみたいに笑って。いつもみたいに、あの場、和ませてくれよ。結局このグループはのどかちゃんなんだから。こういう小さな綻びから、キャリアは狂っていくんだからな。ほんと、勘弁してくれよ」
マネージャーの後ろ姿を見ながら、関係者挨拶の場へと歩みを進める。
疲れた大人たちのいるところへ向かう。
私のことなんて、興味のない人たちのところへ。
私のことなんて、誰も知らない人たちのところへ。
私のことなんて、下心でしか見ていない人たちのところへ。
私のことなんて、道具としか見ていない人たちのところへ。
私は、今、何をしているのだろう。
なんで、こんなことをしているのだろう。
いや、答えは決まっている。
私は、生き続けなければいけないのだ。
どんなことがあっても、どれだけ辛くても、どれだけ理不尽でも、どれだけ悲しくて、苦しくても、どれだけ「恵まれて」いても、向こう何十年、幸せな人生を歩むために、立派に、しっかり生き続けなければいけないのだ。
『短命』みたいに、諦めて済んでしまう人とは違う。絶望で済んでしまう人とは違う。ましてや、『短命』のくせに、自殺する人とは、絶対に違う。
私は、これから、何十年も、生き続けなければいけなんだ。この社会の中で、逃れられない命の中で、何があっても、惨めな思いをせずに、立派に生き続けなければいけないのだ。
だから私は、私は――
「みっなさーん! お待たせしちゃって、ごめんなさい! 昔に私の親族がお世話になってた人で、親族のプライベートな話しだったんで場所変えちゃいました! 突然でびっくりしたぁ〜。あ、吉岡さん! 来てくれてたんですね〜! ありがとうございます! あれ、このカバンかわいい。どこで買ったんですか〜?」