第51話 クララ・モルナール
チョコレツィカがチョコフィエルで暮らし始めてから、五年の歳月が流れました。
玄関チャイムの安っぽく乾いた音で目を覚ましたチョコレツィカは、二日酔いの頭痛に顔をしかめながら、頼りない足取りで玄関に向かい、ドアを開けました。立っていたのは大柄な宅配便の配達員で、彼は大きめの段ボール箱をチョコレツィカに渡して立ち去りました。
"頭がガンガンする…。ゆうべは確かバーボンをショットで十杯ほど煽って…千鳥足で帰ってきたんだよな。革ジャンだけ脱いでそのままソファで寝てしまったのか…まったく、絵に描いたような自堕落な生活だ"
チョコレツィカは痛みの中でそんなことを考えながら、ダイニングテーブルの上に置かれたジッポーライターを手に取り、口にくわえた煙草に火をつけました。
"誰からの荷物だ…?わたしの住所を知っている者など、いるわけが…"
箱に貼られた伝票の差出人の記入欄には、「チョコアデバル」と記されていました。
"チョコアデバル!?今頃になって、あいつが一体、何をわたしに送ってきたのだろうか?"
チョコアデバルは、チョコクラージュの秘書官で、レジスタンスのメンバーだった男です。彼女はチョコアデバルのことを、「チョコクラージュと同じくらい信用できる男」だと考えていました。
"ここの住所は誰にも教えていないのに、あいつ…レジスタンスのメンバーだった連中に協力してもらって、調べやがったな…"
レジスタンスの中には、私立の探偵事務所をはるかに超える調査能力を持っているメンバーが複数いたことをチョコレツィカは知っていました。隠していることを勝手に調べられたわけなので、彼女は少し腹が立ちましたが、同時に、"あいつがそこまでするということは、何か理由があるのだろう"とも思いました。
受取人の欄には、「クララ・モルナール」と記されていました。
五年前、チョコレツィカが全ての行政機関との縁を切り無職になる道を選んだ際、新政府に属する担当者は彼女に、こう言いました。
「乳幼児を除けば、ほとんど全ての国民があなたのことを知っています。いや…わたしは赤ちゃんがブラックカカオの悪口を言っているのをテレビで観たことがありますし、乳幼児の知識量は侮れません。全ての国民があなたを知っている可能性すら、あるのです。いくら何でも、今の名前のままでは、一般人として平穏に生きていくのは無理です。見た目は髪型を変えたり、眼鏡をかけたりして変装できますが、名前を偽って就職したりすれば、刑法 第159条・161条の有印私文書偽造・同行使罪、あるいは第246条の詐欺罪に該当することになります。詐欺罪であれば、科される刑罰は10年以下の拘禁刑です。あ…すみません、この国の憲法と刑法の草案を作成したのはあなたなのですから、チョコ孔子にチョコ論語でしたね。(※チョコ孔子は、チョコの国黎明期の思想家で、『チョコ孔子にチョコ論語』は、チョコの国の諺です。)とにかく、そのような事態を回避するため我々は、特別措置を講じることにしました。新しい名前で、あなたの新しい戸籍を作るのです。新しい名前は、好みもあるでしょうから、あなたが考えたもので構いません。これから先はそのお名前で、ご自身の幸せを優先して、人生を歩んで頂きたいと我々は思っています。我々は皆、あなたのことを心から尊敬しています。あなたに幸せになって頂くにはどうすればいいか、我々に何か出来ることは無いか、皆で真剣に話し合った末に辿り着いた答えなのです。あなたはとても高潔な方なので、役職や退職金などを用意しても、頑として受け取ってくださらない。せめて、この特別措置くらいは、受け入れてくださいませんか」
亡き両親に対して深い愛情を持っているチョコレツィカは「大切な名前を捨てることなど、出来るものか!」と頑なに固辞していましたが、担当者は辛抱強く説得を続け、最後には彼女の了承を得ることが出来ました。
チョコレツィカは「チョコクラージュの"クラージュ"と同じように、Cから始まる名前がいいな」と考え、「クララ」に決めました。苗字については、両親が収容所に送られた後、彼女は育ての親である夫婦の実子であるかのように戸籍を偽装して生きてきたので、夫婦と同じ「ディマ」という苗字を持っていました。既に説明したことですが、偽装が可能だったのは、レジスタンスのメンバーが行政機関の中にも複数いたからです。「チョコレツィカ・ディマ」という彼女の名前は国民に広く知られていたので、苗字も新しく作ることになりました。彼女は響きが好きだという理由で、モルナールという苗字に決めました。モルナールという苗字は粉挽き、つまり穀類をすり潰して小麦粉などの粉にする仕事に由来するのですが、彼女はその点も「牧歌的で、いいな」と気に入りました。「クララ・モルナール」という新しい名前を得て、彼女はチョコフィエルに居を移したのです。
齢四十を過ぎたチョコレツィカもといクララは、五年の間、ずっと同じアパートで暮らしていました。チョコフィエルはチョコの国の中にある街の中でも屈指の「不人気な街」だったため家賃が極めて安く、彼女は"ここまで相場が安いなら、ワンルームじゃなくてもいいか"と考えて2DKのアパートを借りました。家賃は、人気のある街のワンルームよりもずっと安いくらいの金額でした。




