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第1話 誕生

 今から十年と少し前の、六月の、ある日のことです。

 ルーマニアのブラショフという都市にある病院の一室(いっしつ)で、ひとつの新しい生命(いのち)が生まれようとしていました。ひとりの女性が、生まれて初めて"お母さん"になる瞬間が、訪れようとしていました。

 女性は、強く目を閉じて痛みをこらえていました。大粒の汗がおでこから流れ落ちてきて、どんなに強く閉じても完全に無くすことはできない目蓋(まぶた)隙間(すきま)から、中に入りました。目に染みて、少しピリッとしました。少しだけ目を開けると、天井の照明の光が(にじ)んで見えました。とても、まぶしく感じました。


 痛みが激しさを増し、分娩台(ぶんべんだい)の左右にある把手(とって)を握る女性の手に、いっそう力が入りました。一瞬、気を失いそうになりましたが、なんとか正気を保ちました。その次の瞬間です。


「ふ…ふぎゃあ…!ふぎゃあ…!」


 決して大きくはない、しかし確かな生命力を感じる泣き声が、白い部屋の中に響きました。女性はその無垢な泣き声を聞いたとき、今まで一度も味わったことのない不思議な感動に包まれながら、こう思いました。


"わたしはこの声を、一生忘れないだろう"


 目に入っていた汗は、流れる涙で洗い流されました。涙がゆっくりとこめかみを流れ、水晶のように輝きながら落ちていきました。


 助産師さんが、おくるみ(・・・・)と呼ばれる柔らかい布で赤ちゃんをやさしく包み、女性の顔のすぐ横に近づけてくれました。赤ちゃんの体温や、生まれたての"生命の匂い"が伝わってくるほどの近さでした。


「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」


 汗と涙で(にじ)んでいましたが、女性は生まれて初めて、"自分の子供"を見ました。生まれて初めて、"自分の子供"と対面しました。言葉は何も、出てきませんでした。女性はただ静かに、汗と涙で濡れた瞳で、やさしく微笑みながら我が子を見つめました。


 元気に生まれたその赤ちゃんにお母さんは、ラクラミキオアラという名前をつけました。


 その名前は、ルーマニア語で「すずらん」「小さな涙」を意味する"ラクラミオアラ"と、未希という名前を組み合わせて、お母さんが考えたものでした。未希という名前は、お母さんが読んだ日本の小説の登場人物の名前でした。その小説は男の子が主人公で、未希という女の子に恋をするお話でした。その小説を好きになったお母さんは、ルーマニア語に翻訳されたものだけでなく、日本語で書かれた原作も手に入れました。日本語で使われる"漢字"というものにも興味を持ったお母さんは、「未」「希」という、ふたつの漢字についても調べました。そして、「未」は「未来」の「未」であり、「希」は「希望」の「希」であることを知ったのです。"未来への、希望…。なんて素敵な名前なのっ!"お母さんは意味を知って、とても感動しました。それでお母さんは、普通はやらないことですが、ふたつの名前を組み合わせて新しい言葉を作って、娘の名前にしたのです。

 物語の中の未希はとても明るく、人懐こくて優しいのですが、少し小悪魔的なところも持っていました。ニコニコしながら、相手があたふたするようなことをわざと言うのです。けれどもそれがなぜか、とっても可愛くて、魅力的なのです。ラクラミキオアラも、幼稚園に入って一年ほど経った頃には、そういうところがたくさん見え始めました。お母さんは少し驚きながら、こう思いました。

"この子は本当に、未希の魂を持って生まれてきたのかも知れない"

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