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さよならの進化師  作者: 栗音
風を待つ鳥
6/6

さよならの風

ピィルが空読み鳥になってから、小屋の窓はよく開けたままになった。

以前なら、夜風が強くなりすぎないように、ユイトはすぐ窓を閉めていた。

けれど今は、窓の縁に止まるピィルが、外から来る風に羽を開く。

その姿を見ると、閉めるのをためらってしまう。

もちろん、雨の日や冷え込む夜は閉めた。

それでも、晴れた夜には、少しだけ風を通した。

ピィルはもう、布の上で丸くなる小さな魔物ではなかった。

止まり木だけでは足りなくなり、窓の縁や、外の低い枝に止まることが増えた。

小屋の中で眠る夜もある。

けれど、朝になると必ず外を見ていた。


ユイトは記録帳に書いた。


『窓縁での滞在が増加』

『夜間、森方向への注視あり』

『朝、空の雲流れに反応』

『短距離滑空、安定』


そこまで書いて、ペンを止める。

記録は増えている。

けれど、記録するたびに、ユイトは少しずつわかっていた。

ピィルはもう、小屋の中だけでは収まらない。

それは成長だった。

喜ぶべきことだった。

そう思うたびに、胸の奥に静かな痛みが残った。


その日は、朝から空が低かった。

雲が重く、森の上に押し寄せるように流れている。

雨の匂いがした。

ただの雨ではない。

遠くの山から来る、強い風を含んだ雨の匂いだった。

ピィルは窓の縁で、じっと空を見ていた。

羽を広げ、閉じる。

また広げる。

その動きは落ち着かないというより、何かを測っているようだった。


「嵐が来るのか?」


ユイトが言うと、ピィルは空を見たまま羽を震わせた。

答えではない。

けれど、ユイトには返事のように思えた。


昼前、街道から騒がしい声が聞こえた。

ユイトが外に出ると、数人の旅人が森の入り口の方を見上げていた。

その先には、鳥の群れがあった。

小さな鳥型モンスターの群れ。

ピィルと同じではないが、近い種類の魔物たちだ。

群れは森の上を何度も回っている。

まっすぐ飛ばない。

どこかへ向かおうとして、風に押し戻されているようだった。

旅人の一人が言った。


「変だな。あの群れ、山向こうへ渡る時期だろ?」

「この風じゃ進めないんじゃないか。」

「嵐が来る前に森へ降りればいいのに。」


ユイトは群れを見上げた。

鳥たちは鳴き交わしている。

声は焦っているように聞こえた。

森へ降りる場所を探しているのかもしれない。

けれど、風が乱れていて、うまく高度を下げられないようだった。


ピィルが窓の縁から飛び出した。

高くはない。

小屋の前の低い枝へ移るだけだった。

けれど、その動きはいつもより鋭かった。

羽を広げ、空を見上げる。

群れの鳴き声に、ピィルの羽先が小さく震える。


ユイトは息を飲んだ。


「ピィル。」


呼んだ声は、自分でも驚くほど小さかった。

ピィルは振り返らなかった。

空を見ている。

群れを見ている。

雲の流れを見ている。

森の上を渡る風を、じっと読んでいる。


強い風が吹いた。

旅人たちが顔を伏せる。

草が一斉に倒れ、木々が大きく揺れた。

空の群れが乱れる。

一羽が大きく流され、森の上から街道側へ押し出された。

その鳥は体勢を戻そうとしたが、風に逆らえず、低く落ちていく。


ピィルが飛んだ。

ユイトは思わず一歩踏み出した。

ピィルは落ちてくる鳥の下へ向かった。

大きく羽ばたくのではない。

風に体を合わせ、押される力を横へ逃がすように滑る。

そして、落ちかけた鳥の近くで、短く鳴いた。

その声に、落ちかけた鳥が向きを変えた。

ピィルは森の低い方へ降りる。

鳥がそれを追う。

風の弱い隙間を抜け、二羽は低い枝へ降りた。


旅人たちが声を上げた。

ユイトは動けなかった。

ピィルは枝の上で、落ちた鳥のそばにいた。

その鳥は震えている。

ピィルは近づきすぎず、少し離れた枝で羽を開いた。

まるで、風の向きを見せるように。


空の群れがまた鳴いた。

ピィルは顔を上げた。

枝から離れる。

今度は少し高く飛んだ。

森の端から、群れの下へ。

強い風の中で、ピィルの体は何度も揺れた。

けれど、落ちなかった。

空読み鳥になってから、ピィルは遠くを見られるようになった。

今、その目は、群れ全体を見ていた。


ユイトは手を握った。

行くな、と言いたかった。

危ない、と言いたかった。

まだ無理だ、と言いたかった。

けれど、声は出なかった。

ピィルの羽は、もう小屋へ戻るためだけの羽ではなかった。

森で迷った子どもを導いた時と同じように、今も誰かを導こうとしている。


ピィルは群れの前へ出た。

一度、森の低い方へ降りる。

また上がる。

斜めに風を受け、群れの端へ回る。

何羽かが、ピィルの動きに合わせて向きを変えた。

それから、群れ全体が少しずつ形を変え始めた。

まっすぐ山へ向かうのではなく、森の尾根に沿って、風の弱い場所を探すように動いていく。

旅人の一人がつぶやいた。


「道を作ってるのか……?」


ユイトには、そう見えた。

空に道があるのなら、ピィルはそれを読んでいた。

鳥たちが通れる細い道。

嵐の前の、ほんの短い隙間。

ピィルはそこへ、群れを導こうとしている。


そのとき、空が白く光った。

少し遅れて、低い雷の音が森に響く。

群れが乱れた。

ピィルの体も、一瞬風に流された。

ユイトの足が前に出た。


「ピィル!」


今度は声が出た。

ピィルは振り返った。

ほんの一瞬。

遠い空から、黒い目がユイトを見たような気がした。

それから、ピィルはまた前を向いた。


群れの中に、まだ飛び方の弱い小鳥がいた。

風に遅れ、後ろへ流されている。

ピィルはその小鳥のそばへ移った。

近くで羽を開く。

小鳥がその動きをまねる。

風を正面から受けず、斜めに逃がす。

体勢が戻る。

小鳥は群れへ戻った。


その瞬間、ピィルの体が光った。

森の上を流れる風が、細い線になって集まっていくように見えた。

淡い青と白。

今までの進化より、ずっと静かな光だった。

雷の光とは違う。

まぶしくはない。

けれど、目をそらせなかった。


ユイトは空を見上げたまま、息を止めた。

光の中で、ピィルの羽が広がる。

大きく、けれど重くはならない。

羽先の模様が風の流れのように伸びていく。

体は鳥のままだ。

けれど、ただの鳥ではない。

空の中に溶けるような、静かな姿へ変わっていく。


光が消えた。

そこにいたのは、群風の導き鳥だった。

記録帳の中でしか知らなかった名。

群れの風を読み、弱い鳥を導き、嵐を避ける道を選ぶ魔物。

めったに人のそばには残らないと、師匠が言っていた。

その理由が、今ならわかる気がした。


群風の導き鳥になったピィルは、群れの前へ出た。

ひと鳴きする。

高く、澄んだ声だった。

群れが応えるように鳴いた。

そして、空の流れが変わった。

乱れていた鳥たちが、少しずつひとつの形になる。

ピィルは先頭ではなく、少し横にいた。

先頭を引っ張るのではなく、風の道を示しているようだった。


ユイトは見ていた。

ただ見ていた。

手を伸ばせば届いた頃のピィルを思い出す。

布の中で震えていた小さな体。

窓の外を見ていた黒い目。

初めて木の根に乗った日。

枝の上で眠った夜。

森でミロを導いた夕方。

その全部が、今の空へつながっていた。


群れは山へ向かう道を外れ、森の奥へ流れていった。

嵐を避けるための道なのだろう。

ピィルもそこへ向かう。

遠ざかっていく。

ユイトは声をかけようとした。

でも、何を言えばいいのかわからなかった。


行かないで。

危ない。

戻ってきて。

よく頑張った。

ありがとう。


どの言葉も、今のピィルには小さすぎる気がした。


ピィルが一度だけ、群れから離れた。

空を大きく回り、小屋の方へ戻ってくる。

ユイトは顔を上げた。

ピィルは低く降り、ユイトの前の枝に止まった。

以前なら近くに来ると安心した。

けれど今は、その近さが別れの前の静けさのように感じた。


ピィルはユイトを見た。

何も言わない。

魔物は、人の言葉を話さない。

それでも、ユイトはその目から逃げられなかった。


ピィルは羽を少し動かした。

一枚の羽が、ふわりと落ちた。

淡い青の模様が入った羽。

ユイトの足元へ落ちる。


ユイトはそれを拾った。

軽い。

とても軽いのに、手の中で消えない重さがあった。


「……行くんだな。」


ピィルは答えない。

ただ、枝の上で羽を広げた。

風が吹く。

森の奥から、群れの鳴き声が聞こえる。

ピィルの体が、そちらへ向いた。


ユイトは羽を握りしめた。

引き止めたい気持ちは、まだ消えていなかった。

それでも、今のピィルを手元に置くことはできない。

置いてはいけない。

ピィルはもう、風を待つだけの小さな鳥ではない。

誰かを導く鳥になった。


ユイトは息を吸った。

胸が痛い。

けれど、声は震えなかった。


「行っておいで。」


ピィルは一度だけ羽を閉じた。

そして、空へ飛んだ。

高く。

今までより高く。

風に流されるのではなく、風の道を選んで飛んでいく。

群れの方へ、森の奥へ、嵐を避ける空へ。


ユイトは見送った。

ピィルは群れに戻った。

小さな鳥たちが、その周りで形を整える。

やがて群れは、雲の下を抜け、森の向こうへ消えていった。

最後に聞こえた鳴き声は、風に溶けて、すぐにわからなくなった。


雨が降り始めた。

最初は、細い雨だった。

ユイトは小屋へ戻らなかった。

手の中の羽を濡らさないように胸元へしまい、しばらく空を見ていた。

もうピィルの姿は見えない。

それでも、空のどこかに道があるように思えた。

ユイトには見えない道。

ピィルなら読める道。


やがて雨が強くなり、ユイトは小屋へ入った。

窓辺には、ピィルがいつも止まっていた場所がある。

止まり木も、窓の縁も、そこにある。

けれど、そこにはもう何もいない。

ユイトは濡れた上着を脱ぎ、作業台の前に座った。

記録帳を開く。


『群風の導き鳥へ進化』


そう書いた、手が止まる。

続きが書けなかった、進化の特徴。

羽の模様、飛行姿勢。

群れへの反応。

書くべきことはいくつもある。

けれど、文字にした途端、今日の空がただの記録になってしまいそうだった。


ユイトはしばらくして、もう一行だけ書いた。


『ピィルは群れを導き、森の奥へ旅立った』


それ以上は書けなかった。

ペンを置く。

窓の外では、雨が降っている。

風は強い。

けれど、さっきよりも荒れてはいない。

森の上を通る風は、どこか整っているように見えた。


ユイトは胸元から羽を取り出した。

淡い青の模様が、灯りを受けてかすかに光る。

ピィルが残していったもの。

別れの印かもしれない、再会の約束かもしれない。

ユイトには、どちらとも決められなかった。


夜になっても、ユイトは窓を閉めなかった。

雨が吹き込まない程度に、少しだけ開けておいた。

いつもの癖だった。

ピィルが戻ってくるわけではない。

それでも、閉めきってしまうのが怖かった。


窓辺の下には、昨日まで敷いていた柔らかい布がある。

落ちても痛くないように。

そう思って置いていた布だ。

もう必要ない。

ピィルは、落ちる高さよりずっと高い空へ行った。


ユイトは布を手に取った。

たたもうとして、やめた。

しばらく膝の上に置く。

そこには、小さな体の重さはない。

羽の温度もない。

ただ、布だけが残っている。


外で風が鳴った。

ユイトは顔を上げた。

遠くで、鳥の声がしたような気がした。

本当に聞こえたのかはわからない。

雨音かもしれない。

木の葉が擦れただけかもしれない。


それでもユイトは、窓の外を見た。


「……またね。」


小さく言った声は、雨と風に消えた。

返事はなかった。

けれど、開いた窓から入ってきた風が、机の上の羽を一度だけ揺らした。


ユイトはその羽を記録帳の間に挟んだ。

ページを閉じる。

灯りを落とす。

小屋の中は、いつもより広く感じた。

広くて、静かで、少し寒かった。


それでも、窓の外には風があった。

ピィルが選んだ空へ続く風が、今も吹いていた。

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