表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さよならの進化師  作者: 栗音
風を待つ鳥
5/6

空を読む

森へ行く日が増えた。

最初は、小屋から見える木々の手前まで。

次は、獣道の入り口まで。

その次は、低い枝が集まる場所まで。

ピィルは少しずつ森に慣れていった。

落ち葉の上を歩く、木の根に乗る、低い枝へ移る。

葉の間を流れる細い風に羽を開く。

それらはどれも、小さな変化だった。

けれどユイトは、その小さな変化を記録帳に残し続けた。


『森の風への反応、安定』

『低枝から低枝への移動を確認』

『鳥型モンスターの声に反応するが、追従はしない』

『枝上での姿勢保持、以前より長い』


そこまで書いて、ユイトはペンを止めた。

以前より長い。

そう書くだけでは、少し足りない気がした。

ピィルはただ枝に長くいられるようになったのではない。

枝の上から、森を見ている。

風を待つだけではなく、風がどこから来て、どこへ抜けていくのかを確かめているように見える。


ユイトは新しい一行を書き足した。

『風の先を見ようとしている』

書いてから、少し笑った。

記録としては曖昧すぎる。

師匠が見たら、赤を入れられるかもしれない。

けれど、その一文を消す気にはなれなかった。


その日、森の空気は重かった。

雨は降っていない。

けれど雲が低く、木々の間に湿った匂いが残っている。

風は弱い。

それでも、葉の上の方だけが時々揺れた。

ピィルは止まり木の上で、朝から落ち着かなかった。

窓の外を見て、羽を開く。

閉じる、また開く。

ユイトが布袋を用意すると、いつもより早く中へ入った。


「今日は、森の奥までは行かないよ。」


ピィルは袋の縁から顔を出し、外を見ている。

言葉が伝わったわけではない。

それでもユイトは、言っておきたかった。


小屋を出て森へ向かう途中、街道の方から声が聞こえた。


「誰か見なかったか!」


男の声だった。

切羽詰まっている。

ユイトは足を止めた。

街道の脇に、数人の大人が集まっている。

その中の一人が、ユイトに気づいて駆け寄ってきた。

服は泥で汚れている。

顔色も悪い。


「進化師の人か!あんた、森に詳しいか!?」

「少しなら、どうしました?」

「子どもがいなくなった!朝、木の実を拾いに入って、そのまま戻らない!」


ユイトは森を見た。

このあたりの森は、深い迷い森ではない。

けれど、獣道がいくつも分かれている。

子どもが一人で歩けば、同じ場所を回ってしまうこともある。


「どのくらい前ですか?」

「朝の鐘のあとだ、もうずいぶん経つ……!」


男の声が震えていた。


「名前はミロ、七つだ。赤い上着を着てる。」


ユイトはうなずいた。

ピィルが布袋の中で動いた。

森の方を見ている。

羽の先が、小さく震えていた。


「手伝います。」


ユイトは言った。


森へ入ると、大人たちの声が遠ざかっていった。

何人かは別の方向を探している。

名前を呼ぶ声が、木々の間で反響している。


「ミロ!」

「返事をしろ!」


声は大きい。

けれど、森の中では音が曲がる。

近くに聞こえても遠いことがある。

遠くに聞こえても、すぐそばにいることがある。

ユイトは足元を見た。

小さな足跡、落ち葉の乱れ、折れた枝。

それらを探す。

けれど、昨日の雨で土は柔らかくなりすぎていた。

大人たちの足跡も重なっている。

ユイトだけでは、追いきれない。

ピィルが袋の中から顔を出した。

黒い目が、森の奥を見ている。


「なにか、気になるのか?」


ピィルは答えない。

ただ、羽を開いた。

袋から出ようとしている。

ユイトは近くの倒木に布袋を置いた。

ピィルは中から出て、倒木の上に立った。

風はほとんどない。

それなのに、ピィルは羽を広げたまま動かない。

葉の揺れを見ている。

枝の間の暗さを見ている。

森の奥から、かすかに鳥の声が聞こえた。

ピィルの羽が少し傾いた。

ユイトは耳を澄ませた。

子どもの声は聞こえない。

大人の呼び声だけが遠くにある。

けれどピィルは、倒木の上で向きを変えた。

獣道から外れた、少し暗い方角だった。


「そっち?」


ピィルは振り返らない。

倒木から根へ移り、そこから低い枝へ跳んだ。

風を待ったわけではない。

枝の上で体の向きを定め、また羽を開く。

ユイトは迷った。

獣道から外れるのは危ない。

子どもを探しているのに、自分まで迷えば意味がない。

それでも、ピィルの動きには迷いがなかった。

少なくとも、ユイトにはそう見えた。


「わかった、行こう。」


ユイトは腰の紐をほどき、通ってきた道の枝に結んだ。

目印を残す。

それから、ピィルのいる方へ進んだ。


森の奥は、思ったより静かだった。

大人たちの声が遠い。

足元には湿った葉が重なり、歩くたびに小さな音がする。

ピィルは低い枝から枝へ移った。

まだ長く飛ぶことはできない。

けれど、短い距離なら風を受けて体を運べるようになっていた。

枝へ、根へ、倒木へ、また枝へ。

その動きは、昨日までより少しだけ軽い。

ユイトは後を追った。

途中で何度も目印を結んだ。

戻れるように。

ピィルを追うだけにならないように。

しばらく進むと、ピィルが止まった。

低い枝の上で、じっと耳を澄ませるように首を上げている。

ユイトも止まった。

森の奥から、細い音が聞こえた。

泣き声。

風の音に紛れそうな、小さな声。


「……聞こえた。」


ユイトは息を飲んだ。

ピィルが羽を開いた。

そのまま、声の方へ進む。

ユイトも後を追った。

やがて、木の根が大きく張り出した場所に出た。

根と岩の間に、小さな隙間がある。

その奥に、赤い布が見えた。


「ミロ!」


ユイトが呼ぶと、隙間の中で何かが動いた。

小さな顔が、ゆっくりこちらを向く。

泥と涙で汚れている。

赤い上着の子どもだった。


「大丈夫、迎えに来た。」


ユイトは膝をついた。

ミロは口を開いた。

けれど声は出なかった。

怖がっている。

怪我をしているのかもしれない。

ユイトは隙間の中を確認した。

足が木の根に挟まっている。

強く引けば痛める。

周りの土を少し掘る必要がある。


「すぐ出すから、動かないで。」


ミロは小さくうなずいた。

そのとき、ピィルが枝から降りた。

ミロの近くの根に止まる。

驚いたようにピィルを見た。

ピィルは鳴かなかった。

ただ、羽を少し開いたまま、そこにいた。

ミロの呼吸が、ほんの少し落ち着いた。

ユイトは腰の小道具袋から小さな木べらを取り出した。

土を崩す。

根のまわりを少しずつ掘る。

焦ると、根が動いてミロの足を傷めるかもしれない。

ユイトはできるだけ静かに作業した。

ピィルはその間、ミロのそばを離れなかった。

風が吹くたびに、羽を開く。

その淡い羽先が、木々の暗がりの中で小さく光って見えた。

しばらくして、足が抜けた。

ミロは泣きそうな顔でユイトにしがみついた。


「よく頑張った。」


ユイトは小さく言った。


「もう大丈夫。」


ピィルが顔を上げた。

森の奥から、風が来た。

さっきまで湿って重かった空気が、少しだけ動く。

葉が揺れる、鳥が鳴く。

ユイトはミロを背負った。


「戻ろう。」


けれど、帰り道は簡単ではなかった。

目印はある。

それでも森の中は薄暗くなり始めている。

ミロを背負っているため、足元も見えにくい。

大人たちの声は、もう聞こえなかった。

ユイトは最初の目印を探した。

枝に結んだ紐。

見つけた。

次の目印へ進む。

だが、そこで風が強くなった。

葉が一斉に揺れる。

森の音が増え、方向感覚がずれる。

ユイトは足を止めた。


「……まずいな。」


ピィルが低い枝に移った。

羽を広げる、風を受ける。

けれど、ただ受けているのではなかった。

羽の角度が何度も変わる。

顔が少しずつ上を向く。

枝の隙間から見える空を、じっと見ている。

ユイトはピィルを見上げた。

ピィルは空を見ている。

雲の流れ、葉の動き、風の抜ける道。

それらを確かめているようだった。

そして、ピィルは枝から飛び降りた。

短く滑空し、少し先の枝へ移る。

そこで一度振り返る。

ユイトはその動きを見て、胸の中で何かがほどけた。


「……そっちなんだな。」


ピィルはまた先へ進む。

ユイトはミロを背負い直し、ピィルの後を追った。

目印とは少し違う道だった。

けれど、歩きにくくはない。

倒木を避け、ぬかるみを避け、低い枝の下を抜ける。

ピィルは高く飛ばない。

ユイトが見失わない高さを進んでいる。

そう思った瞬間、ユイトの胸が熱くなった。

ピィルは、ただ自分の行きたい場所へ向かっているだけではない。

今は、ユイトとミロが歩ける道を選んでいる。


森の出口が見えた時、空は夕方の色になっていた。

街道の方から、大人たちの声がした。


「ミロ!」

「いた!」


ミロの父親らしい男が駆け寄ってきた。

ユイトはミロを下ろした。

男はミロを抱きしめ、何度も名前を呼んだ。

ミロは泣き出した。

ユイトは少し離れて、その様子を見ていた。

ピィルは近くの枝に止まっている。

森から出た風が、羽を揺らしていた。

男がユイトに頭を下げた。


「ありがとう……、本当に、ありがとう……!!」

「僕だけじゃありません。」


ユイトは枝の上を見た。

男もつられて視線を上げる。

ピィルは人間たちを見下ろしていた。

鳴きもしない。

胸を張ることもしない。

ただ、風を受けて羽を開いている。

ミロが涙を拭きながら、ピィルを見た。

小さく手を伸ばす。

ピィルは近づかなかった。

けれど、逃げもしなかった。


しばらくして、森の上を風が渡った。

ピィルの体が淡く光り始めた。

ユイトは息を止めた。

二度目の光だった。

けれど、前よりも深い。

森の葉の影を透かすように、淡い青と白の光がピィルを包む。

羽の先から、細い風の線が広がった。

それは枝の上だけではなく、空へ向かって伸びるように見えた。

ミロの父親が驚いて一歩下がる。

ユイトは動けなかった。

光の中で、ピィルの体が少しずつ変わっていく。

羽が長くなる、体つきが細く整う。

羽先の風紋が、淡い線からはっきりした模様へ変わっていく。

光が消えた。

枝の上にいたのは、もう風待ちピィルではなかった。

少し大きくなった鳥型の魔物。

羽はしなやかで、淡い青の模様が風の流れのように広がっている。

黒い目は、森ではなく空を見ていた。


ユイトは小さくつぶやいた。


「空読み鳥……。」


記録でしか見たことがない進化だった。

空を飛ぶことだけが得意な鳥ではない。

風の向き、雲の動き、地形に沿った空気の流れを読む。

旅人の道案内や、嵐の前触れを知る魔物として知られている。

けれど、ユイトが知っている説明より、目の前のピィルはずっと静かだった。

強くなったというより、遠くを見られるようになった。

そんな姿だった。


ピィルは枝からユイトを見た。

ユイトは笑おうとした。

けれど、うまく笑えなかった。

嬉しかった、本当に嬉しかった。

ピィルは誰かを助けた。

風を読んで、道を選んで、子どもを森から連れ戻した。

それは、ユイトが教えたことではない。

ピィルが自分で見つけた力だった。

だからこそ、胸が痛かった。

自分の手の中から、また少し遠くへ行った気がした。


ピィルは羽を広げた。

風が吹き、その体が、枝からふわりと離れた。

高くはない。

けれど、今までよりずっと長く、空中にいた。

そのまま、ユイトの近くの低い枝へ降りる。

ユイトの肩ではない。

手のひらでもない。

少し離れた枝。

そこが、今のピィルの場所だった。

ユイトは静かに息を吐いた。


「おかえり。」


ピィルは答えない。

ただ、羽を一度だけ閉じた。


小屋へ戻るころには、すっかり日が暮れていた。

ピィルは布袋に入らなかった。

ユイトの歩く少し先の枝へ移り、また少し先の枝へ移る。

時々振り返る。

ユイトが遅れると、近くの枝で待つ。

それは、帰り道を教えているようにも見えた。

小屋に着くと、ピィルは窓辺の止まり木には乗らなかった。

止まり木を見て、少しだけ羽を動かす。

それから、開けた窓の縁へ移った。

外の風が直接当たる場所だ。

ユイトは何か言いかけて、やめた。

窓の縁は、止まり木より高い。

外にも近い。

危ないと思った。

けれど、今のピィルには、その場所が自然なのだろう。

ユイトは記録帳を開いた。


『森で迷子を発見。風と鳥声への反応から位置を推定した可能性』

『帰路、風向きと地形に合わせて移動。人が歩ける道を選んだように見える』

『救助後、進化を確認』

『空読み鳥』


そこまで書いて、ペンを止めた。

手が少し震えていた。

今日の記録は、これだけでは足りない。

でも、何を書けばいいのかわからない。

ユイトは窓辺を見た。

ピィルは外を見ている。

小屋の中ではなく、夜の空を。

ユイトは最後に一行だけ書いた。


『ピィルは、誰かを導いた』


その文字を見て、ユイトはしばらく動けなかった。


小さな鳥は、もうただ空を見ているだけではない。

空を読んで、道を選んで、誰かを帰すことができる。

それは誇らしいことだった。

誇らしいことのはずだった。

夜風が窓から入る。

ピィルの羽が揺れる。

ユイトは窓を閉めなかった。

その代わり、窓辺の下に柔らかい布を置いた。

落ちても痛くないように。

それが、今のユイトにできる一番小さな支えだった。


ピィルは窓の外を見続けていた。

遠くの森から、鳥の声が聞こえた。

ピィルは一度だけ羽を広げた。

飛び立ちはしなかった。

けれど、ユイトにはわかった。

ピィルの見ている空は、もう小屋の窓から見えるだけの空ではない。

もっと広くて、もっと遠い。

そしてきっと、その遠さの中に、ピィルが選ぶ道がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ