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さよならの進化師  作者: 栗音
風を待つ鳥
2/6

風を待つ

朝になると、ピィルは作業台の上で丸くなっていた。

布の端をくちばしで少しだけ引き寄せ、小さな体をその中に沈めている。

眠っているように見えた。

けれど、窓の外で風が鳴るたび、羽の先がぴくりと動いた。


ユイトは椅子に座ったまま、しばらくその様子を見ていた。

夜の間に置いておいた木の実は、半分ほど減っている。

水皿の水も少しだけ減っていた。

食べられる、飲める。

それだけで、昨日よりはずっといい。


ユイトは記録帳を開いた。

昨日の最後に書いた文字の下へ、新しく書き足す。


『食欲あり。水分摂取あり。風の音に反応。睡眠は浅い』


ペンを止めて、ピィルを見る。

ピィルは目を閉じたまま、また羽を小さく動かした。


ユイトは声をかける前に、棚から薄い布袋を取った。

中に柔らかい草を敷き、小さな寝床のように整える。

それから、作業台の近くへゆっくり近づいた。


「おはよう。今日は、少し外に行こう。」


ピィルは目を開けた。

黒い目が、ユイトを見上げる。

すぐには逃げなかった。

けれど、体は少し固くなっている。


ユイトは布袋を作業台の端に置いた。


「ここに入ってくれたら、運びやすいんだけど。」


ピィルは布袋を見た。

ユイトを見た。

それから、水皿のそばまで一歩下がった。

まだ、ユイトの手の中に入ることは怖いらしい。


ユイトは無理に抱えなかった。

椅子に戻り、布袋をそのままにして待った。

ピィルはしばらく動かなかった。

小屋の外から、朝の風が窓を鳴らす。

その音に反応して、ピィルは顔を上げた。

そして、ゆっくりと布袋の方へ歩いた。


一歩。

もう一歩。

途中で足がふらつき、羽を広げて体を支える。

それでも、ピィルは布袋の中へ入った。

草の上で小さく丸くなり、すぐに顔だけ外へ出す。


ユイトは、できるだけ静かに笑った。


「ありがとう。」


ピィルは答えない。

ただ、袋の縁にくちばしを乗せたまま、窓の方を見ていた。


小屋を出ると、朝の空気は少し冷たかった。

草の葉には露が残っている。

街道の向こうでは、荷馬車がゆっくりと街へ向かっていた。

人の声も、車輪の音も、まだ遠い。


ユイトは布袋を胸の前で支えながら、小屋の裏手にある丘へ向かった。

高すぎない丘だ。

小さな魔物を連れていくには、ちょうどいい。

頂上には古い木が一本あり、その下からは森と街道が見える。


ピィルは袋の中でじっとしていた。

けれど、風が正面から吹くと、顔を少しだけ外へ出す。

羽の先が、袋の中でかすかに揺れた。


「飛ばなくていいよ。」


ユイトは歩きながら言った。


「今日は、風を感じるだけ。」


ピィルは黒い目で空を見ていた。

言葉がわかったわけではない。

それでも、ユイトの声に少しずつ慣れているようだった。


丘の上に着くと、ユイトは木の根元に腰を下ろした。

布袋を膝の上に置く。

ピィルはすぐには出てこなかった。

外の明るさに目を細めるようにして、袋の中から空を見上げている。


昨日より広い空だった。

小屋の窓から見える四角い空ではない。

木の枝の間を抜ける、どこまでも続く空。


風が吹いた。

草がなびき、木の葉が揺れる。

ピィルの羽が、袋の中でふわりと持ち上がった。


ピィルは驚いたように体をすくめた。

けれど、逃げるようには丸くならなかった。

もう一度、風が吹く。

今度は顔を上げた。

羽の先を、少しだけ広げる。


ユイトは何も言わなかった。

言えば、ピィルの意識がこちらに向いてしまう気がした。

だから、ただ見ていた。


ピィルは風がやむと羽を閉じた。

風が来ると、また羽を広げる。

広げると言っても、飛ぶための動きではない。

風に押されないように、倒れないように、少しずつ体の向きを変えている。


ユイトは記録帳を開いた。

膝の上で、できるだけ音を立てずに書く。


『風に合わせて羽を開閉。恐怖反応は弱い。正面風より横風に反応が強い』


書きながら、ユイトは小さく息を吐いた。

この子は、飛ぶ力がないのではない。

風を知らないだけなのかもしれない。


昼前になると、丘の風は少し強くなった。

ピィルは布袋から半分だけ体を出していた。

足元はまだ不安定だ。

それでも、袋の外に出ようとしている。


ユイトは手を出しかけて、止めた。

支えた方が安全だ。

でも、今はピィルが自分で出ようとしている。


ピィルは布袋の縁に足をかけた。

片羽を広げる。

体が傾く。

そのまま転びそうになり、ユイトの指が少し動いた。

けれど、ピィルは自分で体勢を戻した。


袋の外へ出て、草の上に立つ。

ほんの少しだけ、胸を張る。


ユイトは、出しかけた手を膝の上へ戻した。


「……できたな。」


ピィルは草の上で動かない。

ただ、風の来る方を見ていた。

羽は小さく、体も軽い。

少し強い風が吹けば、また転んでしまうかもしれない。


それでも、ピィルはそこに立っていた。


しばらくして、丘の上を大きな影が通った。

空を飛ぶ鳥の群れだった。

昨日、ピィルを置いていった群れと同じかはわからない。

何羽もの鳥が風に乗り、丘の上を越えていく。


ピィルの体がこわばった。

羽を広げる。

細い足が草を踏む。

目は、空の鳥たちを追っていた。


ユイトは、胸の奥が静かに痛むのを感じた。

飛べない体で、それでも空を見上げる。

その姿は、昨日と同じだった。

でも、同じではない。

昨日のピィルは、地面に倒れていた。

今日のピィルは、自分の足で丘に立っている。


群れが遠ざかる。

鳴き声も小さくなる。

ピィルはしばらく空を見続けたあと、羽をゆっくり閉じた。


ユイトは小さく言った。


「今日は、ここまでにしよう。」


ピィルは動かなかった。

まだ空を見ている。

帰りたくないのかもしれない、疲れているだけかもしれない。

ユイトには、はっきりとはわからなかった。


だから、少し待った。

風がまた吹き、ピィルは羽を開く。

風がやむと、羽を閉じる。

その動きを何度か繰り返してから、ピィルは自分で布袋の方へ歩いた。


ユイトは袋を少し傾けた。

ピィルは中に入る前に、一度だけ振り返った。

丘の空、風に揺れる草、古い木の枝。

それらを見てから、袋の中へ戻った。


小屋へ帰る道で、ピィルは眠らなかった。

袋の中から顔を出し、何度も外を見ていた。

街道の石、草の揺れ、遠くの森、風で回る小さな葉。

昨日までなら見えていなかったものを、ひとつずつ確かめているようだった。


小屋に戻ると、ピィルは作業台に下ろされてもすぐには丸くならなかった。

水を飲み、木の実をつつく。

それから、窓辺に近い場所まで歩いた。

作業台の上から窓を見るには、少し距離がある。

ピィルは途中で止まり、羽を広げた。

飛ぼうとしたのではない。

丘で覚えたように、風のない室内で、風を待つような仕草をした。


ユイトは記録帳を開いた。

今日の記録を書く。


『丘へ移動。布袋へ自分から入る。草地に自力で立つ。風に合わせて羽を開閉。鳥の群れに強く反応。帰宅後、窓辺へ移動しようとする』


そこまで書いて、ユイトは少しだけ迷った。

記録としては足りている。

けれど、それだけでは今日のピィルが残らない気がした。


ユイトはもう一行、書き足した。


『空を見る場所が、少し広がった』


夕方になると、小屋の中に橙色の光が差し込んだ。

ピィルは布の上ではなく、作業台の端で眠っていた。

窓に近い場所だ。

危ないので、ユイトはそっと布を近づける。

ピィルは目を覚まさなかった。


小さな羽が、夢の中で動いている。

飛んでいるのかもしれない。

ただ、風を待っているだけかもしれない。


ユイトは椅子に座り、しばらくその羽を見ていた。

明日も丘へ行こうと思った。

明後日も、風が吹けば連れて行こうと思った。

急ぐ必要はない。

飛べるようにするためではない。

ピィルが、自分の空を見つけるまで。


夜風が窓を鳴らした。

ピィルの羽が、眠ったまま小さく開く。


ユイトは静かに記録帳を閉じた。


「また、明日。」


ピィルは答えない。

けれど、その小さな羽は、しばらく閉じなかった。

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