落ちた羽
街道の端で、小さな羽が揺れていた。
風に飛ばされた羽ではない。
羽の下に、もっと小さな体があった。
灰色と白の混じった、手のひらに乗るほどの鳥型モンスター。
ピィルと呼ばれる小型の魔物だ。
森や丘に群れで住み、成長すれば風を受けて軽く飛ぶ。
群れで移動し、木の実をついばみ、危険を感じれば一斉に空へ逃げる。
進化師であるユイトにとって、見間違えるような相手ではなかった。
けれど、目の前のピィルは飛べなかった。
片方の羽が、体に比べて少し小さい。
もう片方の羽も、土と草に汚れている。
それでも、その小さなピィルは空を見ていた。
ユイトは、荷物を背負ったまま足を止めた。
「……巣から落ちたのか?」
ピィルは答えない。
ただ、黒い目を空へ向けたまま、小さく体を震わせていた。
近くの木の上で、鳥の鳴き声がした。
けれど、枝の間に見える群れはもう動き始めている。
風に乗れる仲間たちは、ユイトの頭上を越え、丘の向こうへ流れていった。
地面に残されたピィルだけが、置いていかれていた。
ユイトは膝をついた。
手を伸ばすと、ピィルはびくりと体をすくめた。
逃げようとして、片羽をばたつかせる。
けれど体は少しも浮かない。
土の上で転がり、細い足が草に絡まった。
「大丈夫、つかまえたりしないよ。」
ユイトは声を落とした。
ピィルはまた空を見た。
逃げられないのに、助けを求めるようには鳴かなかった。
ただ、群れが消えていった方を見続けていた。
その様子を見て、ユイトは胸の奥が少し痛くなった。
飛べない鳥、群れについていけない魔物。
進化師の店に持ち込まれたら、まず値はつかない。
育てるには手間がかかる。
戦闘にも競技用にも向かない。
進化させても、まともな飛行型にはならないかもしれない。
「ユイト、なにしてるんだ?」
背後から声がした。
振り向くと、荷馬車を引いていた男が不思議そうにこちらを見ていた。
街へ向かう途中で何度か顔を合わせた行商人だ。
男はユイトの足元を見て、すぐに肩をすくめた。
「ああ、ピィルか。しかも落ちたやつだな。」
「たぶん、羽が弱いんです。」
「なら、放っておいた方がいい。」
男は悪気なく言った。
「その手の魔物は育たない。育っても半端だ。進化師ならわかるだろ?」
ユイトはピィルを見た。
ピィルは男の声に怯えたのか、草の影に体を縮めている。
けれど目だけは、まだ空に向いていた。
「……わかります。」
「なら、急いだ方がいい。日が暮れるぞ。森の近くは狼も出る。」
「はい。」
ユイトはうなずいた。
男はそれ以上何も言わず、荷馬車を進めた。
車輪の音が遠ざかっていく。
道に残ったのは、ユイトと小さなピィルだけだった。
ユイトは袋の中から布を取り出した。
薬草を包むための、柔らかい布だ。
「触るよ。嫌だったら、つついていい。」
そう言ってから、ユイトはピィルの体をそっと包んだ。
ピィルは少し暴れた。
細いくちばしが、ユイトの指に触れる。
痛くはない。
怖がっているだけだ。
ユイトは無理に押さえず、布の中に空間を作るようにして抱えた。
ピィルの体は軽かった。
軽すぎるくらいだった。
「飛べないなら、飛べないままでいい。」
ユイトは小さく言った。
「でも、生き方がないわけじゃない。」
ピィルは布の中で動きを止めた。
言葉がわかったわけではない。
ただ、声の大きさに慣れただけかもしれない。
それでもユイトは、少しだけ安心した。
街道の先には、ユイトが借りている小さな小屋がある。
進化師としての看板も、まだ立派なものではない。
依頼は少ない。
預けられる魔物も、たいていは他の店で断られた子ばかりだ。
それでも、ユイトはその小屋を自分の場所だと思っていた。
強くするためだけではない。
その子が、どんなふうに生きられるのかを一緒に探す場所。
そういう進化師になりたかった。
小屋に着くころには、空が赤くなっていた。
ユイトは作業台の上に布を広げ、ピィルをそっと下ろした。
ピィルはすぐには動かなかった。
小さな胸が上下している。
かなり疲れているらしい。
ユイトは水皿を置き、細かく砕いた木の実を少しだけ並べた。
ピィルは警戒したまま、動かない。
ユイトは少し離れた椅子に座った。
「見てないから、食べていいよ。」
もちろん、本当に見ないわけにはいかない。
でも、真正面から見つめると怖がる。
だからユイトは、棚の整理をするふりをしながら、横目で様子を見た。
しばらくして、ピィルが首を伸ばした。
木の実をひとつ、つつく。
すぐに顔を上げる。
ユイトが動かないことを確認してから、もうひとつつついた。
水も少しだけ飲んだ。
それから、また空の方を見た。
小屋の小さな窓。
その向こうに、夕暮れの雲が流れている。
ピィルは食べることより、眠ることより、窓の外を見ていた。
ユイトは棚から古い記録帳を取り出した。
表紙には、何度も書き直した文字が残っている。
『進化記録』
まだ厚みのない記録帳だ。
ユイトは新しいページを開いた。
日付を書き、種族を書き、状態を書く。
そこまで書いて、少し迷った。
普通なら、欠点を書く欄がある。
片羽が小さい、飛行不可、体力低下、群れから脱落。
……商品価値なし。
そう書けば、進化師としては正しい記録になる。
でもユイトは、その欄に別の言葉を書いた。
『空を見ている』
それから、ペンを置いた。
夜になると、ピィルは布の上で丸くなった。
けれど眠ってはいない。
小さな羽が、ときどき動く。
外で風が鳴るたび、顔を上げる。
ユイトは作業台の横に座ったまま、その動きを見ていた。
飛ぼうとしているわけではない。
風を怖がっているわけでもない。
ただ、風が来るのを待っているように見えた。
「風が好きなのか?」
ピィルは答えない。
当然だ。
魔物は人の言葉を話さない。
それでも、ユイトは問いかけた。
「明日、丘に行こうか。」
ピィルは窓の方を見た。
その小さな体が、ほんの少しだけ前に傾いた。
答えではない、偶然かもしれない。
けれどユイトは、それを記録帳に書き足した。
『風の音に反応。窓の外を見る。高い場所への関心あり』
書き終えると、ピィルがゆっくりと作業台の端まで歩いてきた。
まだ足元はふらついている。
ユイトが手を差し出すと、ピィルは一度止まった。
逃げるかと思った。
でも、そうではなかった。
ピィルは小さなくちばしで、ユイトの指先をつまんだ。
強くはない。
ほんの少し、確かめるように。
ユイトは息を止めた。
そのあと、できるだけ静かに笑った。
「うん。明日から、一緒に考えよう。」
ピィルは指を離さなかった。
外では、夜風が小屋の壁を撫でていた。
飛べない小さな鳥は、まだ空を知らない。
けれど、空を見ることをやめてはいなかった。




