7 グロリア・インエクセルシスデオ
首元のタイを締め直し、ジャケットの襟を立てる。
開始直前、気合を入れる為に身だしなみを整えて、舞台袖に立った。
客席は満員――とはいかないが、まあまあの入りだ。劇場の規模を考えれば、かなり入ってるとも言える。
オレの右手側、様子を見に来ていたアジャイが笑っている。
「……で、今日の調子はどうなんだ?」
「悪くないですよ。設備は整ってるし、客もお行儀が良い」
「そりゃ劇場の調子だろう? 光栄だな」
笑って答えると、最近めっきり増えた白髪を左手で梳きながら、舞台へと視線を向けた。
「結局、お前は……向いてるってことかね、こういうのが」
「ま、向いてるんでしょう、こういうのが」
「それじゃま、今後もよろしく頼むや」
「よろしく」とアジャイが差し出した拳に、軽く拳をぶつけて返す。
「そりゃ有り難い。じゃあ、これが終わったら次は――」
「次の生徒ももう目星はついてるさ。最終的にはお前さんの判断を待つが」
「じゃ、それは後で確認しましょうかね。この――彼の初ステージが終わってから」
肩を竦めて、左手側を振り向いた。
今日の主役はどうやら初舞台を前にして、緊張がピークに達しているようだ。
オレだって、開幕前のこの瞬間は緊張する。主役本人なら尚更だろう。
ただでさえ小さな身体は、衣装に着られていると言っても良い程、ますます小さく縮こまっている。
黒い髪はさっきワックスでまとめたはずだったのに、既に元の癖っ毛の通りにぴんぴん跳ねてしまっている。
年よりも更に若く見える姿に、オレは苦笑を浮かべた。
「せ、んせ……」
「ほら、聞いただろ。これはあんたの初めてのステージで――そしてオレがあんたに関わる最後のステージだ。出ていく覚悟は出来たか? 新人蝶吐師さん?」
「……待って、し、死にそう……」
蝶吐師としての一歩を踏み出したばかりの彼にとっては、人の前に立つこと自体が緊張の種なんだろう。
ましてやそれが、劇場の、ステージの、中央でたった1人光を浴びるとなれば。
肩には、力が入り過ぎてガッチガチだ。
まるで昔のオリエみたいだ。
この瞬間、オレはいつも、オリエの初ステージを思い出す。
たった12人を前に、傲慢を装いながら、緊張で死にそうになってたあいつの顔を。
「おいおい、何をそんな心配してる。あんた自分の才能を信じてないのか? いつも偉そうに言ってた癖に?」
「し、んじてない訳じゃないで、すが、こんな大勢のひとの前で、失敗した、ら……」
なるほど、自分のことは信じてるらしい。上出来だ。
動きの悪い新人くんの指先に、オレは人差し指を乗せた。
「……落ち着け。今日はオレもここにいる。裏方蝶吐師として、あんたのステージを盛り上げてやるし、多少とちっても何とでも誤魔化してやるさ」
「そ、んなの分かってます、けど」
「あんたはこのオレが見出した才能ある大新人なんだぞ、自分の才能に加えて、オレの言葉も信じとけよ」
新人蝶吐師はごくりと息を呑み、再び手を動かし始めた。
まだ若い彼は緊張を隠しきれず、縋るような目で見上げてくる。
「あの……先生は昔、あのオリエさんのマネージャだったって本当ですか? 中央で活躍してるあの偉大な蝶吐師オリエさんの……」
「だったらどうする? 自分とオリエとどっちがすごいか比べて欲しいか?」
「いえ、そういうつもりじゃ……」
彼の気持ちは良く分かった。
オリエを踏み台に、勢いをつけたいのだ。
そういうのもまあ、作戦としては悪くない。
だけど……本当に飛べるヤツには、踏み台なんていらない。
「良いか、オリエはすごい蝶吐師だ。だが、自分の目で見てないものを信じちゃいけないぜ」
「自分の目、ですか」
「そうさ、見てみろよ。ここにあるのは何だ?」
「ステージ……と、いっぱいの観客です」
「そう、このステージと観客が全部あんたのもんだ。生きてる限り、あんたのステージは続くんだ。あんたが気にすべきなのはそれさ」
片目を閉じてやると、ぎこちないまま新人くんは笑って、スポットライトの当たる舞台の中央へ目を向けた。
ステージの上、司会の女が派手な手つきで彼の名を紹介している。
「さあ、出番だ。行ってこい。気を抜いてると、裏方蝶吐師のオレが全部飲み込んじまうぞ」
軽く肩を押してやると、一瞬だけオレの方を振り向いた。
背筋を伸ばした新米くんは、もうそれからは躊躇せず、光の下へと歩き出していった。
舞台袖に残ったオレは、黙ってオレ達のやり取りを眺めていたアジャイに向かって首を傾げて見せる。
「アジャイさんは、こんなやり取りは日常茶飯事じゃないか? わざわざ見に来るほど、面白いかね?」
「まあ、お前さんがどんな風にやってるかとか。あちこちで評判は聞いてるが、本当のところはどんなものか見とかないと。……蝶吐師を育成する裏方蝶吐師ってのも、中々面白そうな仕事じゃないか」
「……でしょう?」
答えて、再びステージへと視線を戻した。
ライトの下の新人くんは、少しばかり足に力が入っているが――良い呼吸をしている。
「ま、こっちはちょっと勿体無い気持ちもあるがね。裏方じゃなくて、中心に立っても良いんじゃないかってさ。だってお前さん、噂じゃ昔はそれなりの――」
「――ああ、いや……」
一度考えたが――考えたところで、最初に思っていたのと違う答えは出てこなかった。
多分、誰よりもオレが良く知っている。
黄金の蝶を掴み損ねた自分のことを。
だから……可能性に賭けるというなら、この世界の可能性に賭けたかった。
自分じゃない、蝶吐という世界全部で、あの黄金に重なれるように。
だから。
「……どうもね、オレは、ただ単に蝶が好きなだけの人間らしい。それも、それなりじゃなく本物の凄みをもったど迫力のが好きなんだ。見ていたいんだよ、一番近くで」
そういうものが生まれるなら、それが誰のステージだろうが構やしない。
誰かに執着する必要はない。
オレ自身にすら拘らなくて良い。
だから、そこに――その現場にいること。
蝶吐師の周囲を整え、飾り立て、背中を押すこと。
その誕生を、観客とともに言祝ぐこと。
それが、どうやらオレのステージらしい。
表には立たない、誰も知らない――オレにしか必要のないオレだけのステージ。
「……そう言えば、オリエとカマラのニュース見たか?」
舞台では新人くんが、軽い挨拶を始めている。
もうすぐメインも始まるのに、アジャイの両手は性懲りもなく動き続けている。
横目で舞台を見ながら、気のない答えを返した。
「いや、知りませんね。オレはあんまりニュースは見ない。あいつら、ついに結婚でもしましたか?」
「……そんな分かりやすいことやってくれるぐらいなら、あの時逃がしゃしなかったよ。うちに入っておいて、うまく抜け出したのはあいつらだけだ」
苦々しく動く太い指を見て、オレはこっそりと笑みを浮かべる。
2人が、中央の大舞台から引き抜かれ、アジャイの傘下を抜けた時のことを思い出したからだ。
良い舞台と仕事を提供して貰ってるのは確かだが、がめついアジャイには個人的に恨みだってある。少しぐらい苦々しい思いもしてもらった方が良いだろう。
「勝手に笑ってろ。あいつら、昨日から全世界ツアーであちこち回ってるらしいぜ。その内、この街にも顔を見せるかも……」
アジャイの言葉を最後まで見ない内に、オレの眼は、客席に見覚えのある姿を見つけていた。
最前列の端っこ、いつか見慣れた金髪と赤茶けたウェーブの髪。
どこか不貞腐れたように斜めからステージを見る、青い瞳。
そして、期待に濡れたような黒い瞳。
懐かしいような息苦しさで、うっかり鼓動が跳ねかけた。
……が、それもまあ、今はどうでも良い。
注目すべきは他にあるんだ。
ステージ上で、新米くんが大きく息を吸う。
オレもまたそれに合わせるように、喉を膨らませた。
さあ、パフォーマンスの始まりだ!
そう、吸って――そして、吐け。
吐き出せ、思うままに。
あんたの――あんただけの蝶を。
オレはその誕生を助け、そして祝福と賞賛のハンドサインを送る。
ここが、この舞台袖こそが――オレだけのステージだから。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。