【狼】【夜】
さぁ、始めよう。
声。
声が、聞こえていた。
誰の声かはわからない。
リリィかもしれないし、さっきの奴かもしれない。
もしかしたら、『あいつ』かもしれなかった。
とにかく、誰のものかもわからないその声が。
ーー泣いていたのは、確かで。
またか、と。
薄っすら開いた目に写ったのは、天へ伸びる失くしたはずの右手。
必死に、まるで空でも掴むかのように。
何にも触れることなく空振った、無力な手。
いつだってこの手が、欲しいものに届いたことはないんだ。
そう、いつだって。
でもこれ以外に、何かを求める方法を俺は『知らない』から。
何度だって、手を伸ばす。
無様に、滑稽に。
まさしく馬鹿の一つ覚えだ。
ーーほら、ニューゲームの時間だ。
耳元で聞こえる狼の声。
嘲笑の混ざったその声で、思い通りに操作されて。
ーー何度だってやり直せば良い。【我】は、餌さえ手に入れば構わないのだから。
覚えている限り捌億と弐千禄百四十二万回目の人生が、始まった。
最初に感じたのは、息苦しさ。
傷自体は全て治っているんだが……状況は改善されてないからなぁ。瓦礫の間に横たわっていて、気分が良い訳もないか。
自己完結。
とりあえずどうしようもない息苦しさを堪えながら、両肘を支えに起き上がる。
生まれ変わって初めて直視した自分の衣服なんかは、お世辞にも無事とは言い難い有様だった。コートも靴も、飛び散った血液で濡れている。
「……ん?」
後片付けが大変そうだな、色々と。
なんて溜息混じりに顔を上げれば、途端に視界へ写り込む薄紫。
呆然と、そしてどこか嬉々としてこちらを見上げるその姿は、想定外に笑えた。
『信じられない物を見たような』。
そんな目線は何度も向けられてきたけれど、そこに純粋な歓喜が含まれていたことは初めてで。
生きていて良かったと、そういう反応をされたのも初めてで。
ほんの少しの気恥ずかしさを感じつつ、力の入らない足を無理やり奮い立たせた。
何故かは、わからない。
このまま死んだふりをしていれば、俺もリリィも生き残れると知っているのに、わざわざ無駄なことをして。
ただ、こいつの前で逃げたくなかったというか。我ながらガキっぽい理由に呆れるけれど、でもそれは、俺がもう一度立ち上がるには充分過ぎる理由だった。
昔なら絶対に想像もしなかった現象。これも【色欲】によって『変えられた』結果なんだろうか。それともーーああいやいや、やめておこう。何もかも大罪のせいということで。
普通はそう簡単に人は変わらないし、変われないし。別に俺はこいつに感化されたりしない。
だから大罪のせいだ。うん。
あんなガキに見栄を張っていたいと思うのも
あんなガキに救われたような錯覚も
全てが全て、大罪のせいだ。
だったらいっそ、願い通りに踊ってやるとしよう。
「は、?」
俺を見て間の抜けた声を漏らした襲撃者と、座り込んだままのリリィを見下ろして。
意地で作った笑顔。もう、身体中の怠さだって抜ける頃だ。
また返り討ちに遭うかもしれないが、そういうのは敗北し地面に倒れ伏して、空を見上げてから考えればいい。
難しいことを思うのは嫌いだ、ガラじゃない。
「ったく、ふざけんなよーー」
「ゲームじゃねぇんだから、生き返んの大変なんだぞ」
殺して、殺されて、生きて、生かされて。
なんだか漠然と、理由もなく。
今度伸ばした手は、間に合いそうな気がしていた。
なんとなく、なんだけれど。
人生という喜劇の、再演を。




