03. 始まりの夜
天井の青色が紺色になってきた頃、すっかり陽が落ちて室内は暗くなっていた。
「……あの、ひなかさん。悪いんだけど完成するまで家に帰ってもいいか?」
日向華は壁に筆を走らせたまま、振り返らずに言った。
「だめ。死なれたら困る」
開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。
ただでさえ計画を台無しにされ、無理矢理家まで連れて来られたと思ったらまだ死ぬなと言われたのに、今度は家に帰るなと言う。
「じゃあ……荷物だけ取りに帰らせてくれないか。着替えとか、必要なものがあるんだ」
「だめ。帰ったら死ぬでしょ」
危うく暴言を吐きかけて、幸治は深呼吸する。
気分を落ち着かせるのは得意だ。アンガーマネジメントの本は擦り切れるほど読んだ。
「……そんなことはしないよ」
「する」
即答だった。幸治は出来る限り長く息を吐く。
「じゃあ……必要なものだけ買ってくる。コンビニくらいは行ってもいいだろう?」
日向華は少し考えてから、こくりと頷いた。
「いっしょに行く」
「……わかった」
⸻
外は既に暗くなっていて、街灯が小さく灯っている。コンビニの明るい照明が眩しく見えた。
幸治は下着や弁当、飲み物など、当面必要になりそうなものをかごに入れていく。
「ひなかさんは……何か欲しいものはあるか?」
日向華は一瞬だけ目を伏せ、小さく呟いた。
「……チロルチョコ」
「チロルチョコが好きなのか?」
「うん。お母さんがいつも買う」
そうか、子どもの好きなものを買ってくれる母親なのかと、幸治は納得する。
「じゃあ、買っていこう」
小さなチロルチョコを一つカゴに入れ、日向華はそれ以上何かを欲しがることはなかった。
レジを済ませ、古ぼけたアパートへと戻る。
部屋に入り、幸治は弁当を冷蔵庫に入れようとした。
だが扉を開けた瞬間、違和感に気が付く。
「……冷たくない?」
冷蔵庫の横を見ると、コンセントが抜けていた。
もう一度扉を開き、中を確認する。まるで一度も使っていないかのような綺麗さで、食材は何一つ入っていない。
「ひなかさん、冷蔵庫、使ってないのか?」
「うん」
幸治は言葉を失った。生活感がないとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
本当に暮らしていけているのだろうかと疑問に思う。
「じゃあ……食事はどうしてるんだ?」
日向華はキッチンに置いてある大きいダンボールを指差した。
中を見ると、レトルト食品と缶詰がぎっしりと詰まっている。
ダンボールの表面に貼ってある宛名には、「常光 明美」と書かれていた。
「……常光?」
どこかで見たことがある気がして、玄関の方へ向かった。表札を見ると同じ苗字が書いてある。
どうやら家族の仕送りらしい。ここまで生活力のない少女をよく一人暮らしさせているなと、少し訝しく思った。
「もしかして仕送り?」
「うん。おばあちゃんのごはん」
日持ちするものばかりで、生鮮食品は一切入っていない。
なるほど、孫をよく理解している祖母だと幸治は感心する。おそらく日向華は生鮮食品を腐らせる。
「良いお祖母さんだな」
危うげな少女を気にかけている大人がいるのだとわかり、少し安堵する。気が抜けたせいか、小さな違和感に気が付くことができなかった。
幸治は冷蔵庫のコンセントを差し込み、先ほど買った食材を入れる。
「そういえばどこで寝てるんだ?部屋の中は絵の具まみれだろう」
「そこ」
日向華が幸治のいる廊下を指差す。
「……まさか廊下に?雑魚寝じゃないだろうな」
「布団あるよ」
日向華は徐に立ち上がると、玄関付近の扉を開けた。
中は2畳ほどの洗面所になっており、洗面台の横にある洗濯機の上に布団が畳まれて置かれていた。
「なぜここに……?というか、ドラム式?うわ、最新型じゃないか」
「おばあちゃんが服は必ず3日に1回洗えって。これ干さなくて良いんだよ」
日向華は胸を張り、どこか誇らしげに言った。祖母からの言いつけは守っているのかと少しだけ彼女のことを見直す。
「いやそうじゃくて、部屋に押し入れあっただろう?そこに入れないのか?」
「入れない」
「ああ、もしかしてまだ絵の具が乾いてない?」
「乾いてる」
「ならどうして……」
「絵が動くから」
幸治は全く理解ができず、口元を歪めた。
元から不思議な子ではあったから、今更この程度で動揺はしない。
「……そうか」
振り絞った声で答えて、幸治は考えるのをやめた。
⸻
21時30分になった時、日向華は不意に筆を置いて立ち上がると、洗面所から布団を出して廊下に敷き始めた。
そして軽く歯磨きを終え、風呂に入って行く。
髪を乾かし、ちょうど22時になる頃に日向華は布団に潜った。
「寝るのか?」
「うん。コウジ、死なないでね」
幸治は返答に困り、無意識に壁のひまわりを見た。
とても濃い1日だった。長く感じたせいか、死ぬつもりでいた今朝の自分は、どこか遠のいているような気がした。
「死なないよ。今日はもう寝るからな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ……」
安心したように目を閉じる日向華を見つめて、幸治はひまわりの部屋の真ん中で目を瞑る。
日向華は、理解のできない不思議な子だ。だが、放っておくこともできない。
そんな感情だけが、静かに胸に残った。




