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隠《  》  作者: 相宮祐紀
紫陽花
1/6

1.柊 

 




 透き通る風が吹いてくる。オーバーサイズの真っ白いシャツが綿雲みたいにふくらみ揺れる。ふわりと、スーツケースのチャックに軽く引っかかり、すぐに外れた。無造作に引くタイヤとともに、ごろごろと音を立てているのは黒レンガ調のアスファルト。並ぶ街灯はガス灯風で、葉のみずみずしい街路樹も立つ。木陰に植えられた紫陽花(あじさい)が、照れくさそうに咲きだしている。

 今度呼ばれたこの町は、都会だけれどぎらぎらしなくて、落ち着いていてどこか小粋だ。道行くひとも同じ雰囲気で、ひらっと挨拶なんかしたくなる。ここ一帯を管轄している小隊の事務所というのはたぶん、このあたりにあると思われる。地図アプリは申し訳程度にひらいて、ほとんど勘で進んできたが、なんとなくたどり着きそうだ。今回はこの町で、なんとかというひとのバディになる。そう、確か。

高坂(こうさか)(しゅう)

 それだ。二十一歳男。筋金入りの顕影隊士(けんえいたいし)で、なかなか腕が立つらしいのだが。困ったことになっているので、助けが必要ということだった。正直、かなり面倒そうだ。ひっそりため息をついてみる。目の端、紫陽花のつぼみが揺れた。





** **





 それは、どこにも見えないものだ。目の前にあったとしても見えない。風も、地面も少しも鳴らさず、ドブや生ゴミの臭いもなければ柔軟剤の香りもしない。両手を伸ばし触れたとしても、熱さ冷たさすらないうえに、口を開けても舌で舐めても、苦いも甘いもなにもない。

 それは、なにも感じさせない。しかし、確かにそこにいる。確かに、そこに存在している。見えていない、聞こえていない、においも味も感触も、気づいていないだけなのだ。

 それは、知覚できないそれは────(おに)は、確かに存在する。(おに)。感情の残滓の集合。ひとの感情の成れの果て。

 ひとの感情は空気に溶ける。ほとんどの場合、時間が経つと自然に消失するのだが、稀に残留し、集合する。集合体は変化(へんげ)となって、ひとを脅かす。それが(おに)である。

 (おに)は、生身のひとを食い、消す。この世から消滅させる。あっという間に気づかぬうちに、消される。家族はみんな消された、でも。

 どうやって、消え去ったのか。どんな表情でなにを言い、なにを願って消え失せたのか。どんな顔を、声をしていたか、なにを抱いて生きていたのか。どんな、ひとたちだったのか。いまでは、もう思い出せない。


「思い出せないの。本当に?」 

 扇港(おうぎみなと)顕影隊(けんえいたい)二の隊隊長、真折(まさき)薫子(かおるこ)が問うてくる。教壇のような机の向こうに背筋を伸ばしてきちんと座り、タブレット端末を操作している。机上には数種のグミの袋が開けっ放しで散らばっており、点滅しそうな原色ばかり。そのうちひとつのパッケージでは、見知らぬ熊型キャラクターなどが眠そうな笑みを浮かべている。扇港顕影隊二の隊三班班長である、高坂(こうさか)(しゅう)は隊長席の向かいに不動の直立をきめ、色の海の中たゆたう熊を恨めしい気分で()めつけていた。

「それ、思い出せないんじゃなくて、とらえきれてなかったんじゃないかな。あなたの書いた報告書、ずいぶん抽象的になってる。一か月くらい前からね。支障があるほどではないんだけど、それも証拠になると思うな」

 真折は細い指先で、飛び出していたグミをつまんだ。黄色いそれを口へほうって、ね、と下から覗き込んでくる。長い睫毛が数度またたく。染みだらけの低い天井のもと、いっそ氷みたいな肌とざっくりまとめたベージュの巻き毛、蛍光ピンクの緩いパーカーがやけに冴え冴えして見える。つやめくネイルのワインレッドとグミの原色も加わって、色に叱られているような気になる。

(おに)顕認(けんにん)しきれてないね。顕術(けんじゅつ)は使えてるんだけど、感覚が鈍くなってるんだな。『(かげ)』の量が減ってるからだ。やっぱり調べてみてよかったよ」

 真折はにこりと微笑んで言う。

「高坂くん。顕認しきれてないね」

「はい。おっしゃる通りです」

 柊は仕方なく、ついに認めた。近頃、(おに)がぼやけている。顕術を使っても知覚しにくい。

 (おに)は、通常知覚できない。それなのにひとを食って消すので、顕影隊が討伐している。しかし、知覚のできないものは撫でることさえ不可能だ。そこで顕影隊の隊士は、「顕術」を使い(おに)(あらわ)す。そうすれば隠れている化け物を、(おに)を、五感でとらえられる。

 柊も一か月ほど前までは、顕術を使うと(おに)が見えたり、音が聞こえたりなどしていた。徐々に、感覚が薄らいできた。顕術行使に必要な力、「影」が減ってきたためだ。不利な状態ではあるものの、戦えないわけではないし特に珍しいことでもないので、だれにも伝えていなかった。真折は、よろしいとひとつうなずく。

「もう、一か月にはなるでしょう。そのままでよくやってたね。わたしがなにも言わなかったら、そのままでまだ続けてた?」

「おそらく、おっしゃる通りかと」

「だろうね。すぐ戻ると思ってたのかな。戻ることには戻るんだけど、長くかかってるみたいだし、やっぱり報告は必要だよね。わたしが分けてもよかったんだし」

「はい」

 「影」はだれでも持っているもので、他者に分け与えることも可能だ。ただし、当然のことながら、与えた側の「影」は減る。隊の中のだれかに頼むと、そのひとが顕術を使いにくくなる。(おに)とやり合うときに危険だ。

「あなたなりに、気を遣ったんだろうけど。それとも、ぼやけているだけだから、じゅうぶんやれると思ってたの。実際やれてたみたいだけどね。だって、ずっといつも通りに見えた。だけどたぶん、やってしまったんでしょう。あんなことや、こんなこと」

「真顔でおかしな言い方をなさるのはやめてくださいませんか。真折隊長」

「確かに、ちょっと茶化してしまった。そうするべき場面ではないね。(おに)をあなどるなと言いたいんだよ」

 死ぬよと真折はかろやかに添える。それはつまり、消えるということ。

「軽率に死なれると困るんだ。万年人員不足なんだし」

 柊はうしろを振り向いた。町の片隅の小さなビルの、最上階の部屋である。さほど広いところではなく、古びてがらんと殺風景だ。くたびれたソファと長い机に、ジャケットや半纏が引っかけてある。全員、出払っているのだ。

 柊は真折に向き直った。一歩あとずさり、頭をさげる。

「軽率な判断でした。誠に申し訳ございません」

「もういいよ。わたしも実は、もう少し前から違和感を持ってた。あなたがやれるから頼ってたんだね」

 真折はかすかに柳眉をひそめ、さっぱりとした口調で続ける。

「でも正直、あなたはやれるよね。やるなと言ってもやるひとだよね。だから仕事は任せるよ。すでに一件見つけてるんだ」

 その言葉に、柊は詰め寄った。机に革靴の先があたった。

「どのような件でしょうか」

 真折は動じる様子もなく、グミをもうひとつ優雅につまむ。濃い紫の星型だった。それを目の上にすかしつつ、ほのかに笑みを浮かべて応じた。

「うん。あなたの担当区域だから、巡回のついでに見てほしいんだ。だけど単独ではないよ。しばらく単独任務はさせない。波花(なみはな)支部の補給班から、優秀な隊士を呼んできた」

「──え」

「『影』の補給を受けながら、任務にあたってもらうということ。『影』の補給が専門の、すごい隊士を呼んだんだよ。しばらくはそのひとと共同任務ね」

 柊は、しばし絶句した。ここから電車で約二十分の都市に位置する波花支部は、扇港顕影隊など複数の隊を統括している。首都本部よりは近しいが、親しくつき合うところではない。なにか大事(おおごと)になっている気がする。さっさと報告したほうが、ましだったのかといまさら思う。

「あれ、珍しい光景かもね。高坂くんがびっくりしてる」

 真折が微笑ましげに呟いたので、柊は慌てて姿勢を正した。思いきりからかわれたほうがましだ。硬直する柊を面白そうに見ながら、真折は紫の星を齧った。

「じゃあ、共同任務のお相手、ちょっと呼んでみるね。いまから」

「はい。よろしくお願いいたします」

 柊は素知らぬ顔でこたえた。真折はにこりとうなずくと、よく通る声で呼ばわった。

「お待たせしたね、出ておいで。あなたのバディはここにいるよ」 

 すでに近くにいたのかと柊は驚いてしまったが、どこからもこたえは返らなかった。真折が静かに首を振る。

「だめだね。やっぱり寝てるみたいだ。ちょっと起こしてきてくれる?」

「え……」

「給湯室で寝ている。一時的なことだからって、仮眠室に住み込むことになってて。昨日到着して一泊したの。さっき給湯室でコーヒー淹れて一緒に飲んでたんだけど、そのままそこで寝ちゃったんだ。もう起きてるかと思ったんだけど」

「そんな、それは……」

 柊は呻いた。仮眠室に泊まり込みでバディになってもらうというのは、迷惑をかけすぎだという気がする。どんなひとが来てくれたのだろうか、カフェイン摂取直後に寝るひと────なにか頭が混乱してくる。

「はい、早く行ってきて。名前呼んで、起こしてあげてよ。名前、ハルカね。ミケシハルカ」

御衣(みけし)……?」

 古くから顕影隊を支え、現在も幹部の地位にある名家だ。つい呆然としていると、真折はさらりとつけ加えた。

「御衣って呼ばれるのは、ちょっぴりいやみたいなんだけどね」

 とても状況が飲み込みにくいが、ともかく給湯室へ向かう。向かうと言ってもすぐそこだ。ソファとテーブルの横を過ぎ、古風な花柄の壁に張りついた、丸いドアノブに手をかける。思い直して、ノックした。

「失礼します────」

 ハルカさん。御衣が気に入らないらしいと聞いても、勝手にそちらのほうで呼ぶのは、なかなかにハードルが高い。口ごもり、耳を澄ませるものの、中からの反応は皆無であった。柊は真折を振り向いた。ベージュの髪を揺らしながら、ちょいちょいとドアを示している。開けてみよということらしい。

 尻込み、している場合ではない。任務があると言われたのだ。即刻聞いて出かけたいのだが、単独では出してもらえない。よって、御衣ハルカなる人物に、速やかに起床してもらわねばならない。柊は開けますと声をかけ、給湯室のドアをひらいた。

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