1.柊
透き通る風が吹いてくる。オーバーサイズの真っ白いシャツが綿雲みたいにふくらみ揺れる。ふわりと、スーツケースのチャックに軽く引っかかり、すぐに外れた。無造作に引くタイヤとともに、ごろごろと音を立てているのは黒レンガ調のアスファルト。並ぶ街灯はガス灯風で、葉のみずみずしい街路樹も立つ。木陰に植えられた紫陽花が、照れくさそうに咲きだしている。
今度呼ばれたこの町は、都会だけれどぎらぎらしなくて、落ち着いていてどこか小粋だ。道行くひとも同じ雰囲気で、ひらっと挨拶なんかしたくなる。ここ一帯を管轄している小隊の事務所というのはたぶん、このあたりにあると思われる。地図アプリは申し訳程度にひらいて、ほとんど勘で進んできたが、なんとなくたどり着きそうだ。今回はこの町で、なんとかというひとのバディになる。そう、確か。
「高坂柊」
それだ。二十一歳男。筋金入りの顕影隊士で、なかなか腕が立つらしいのだが。困ったことになっているので、助けが必要ということだった。正直、かなり面倒そうだ。ひっそりため息をついてみる。目の端、紫陽花のつぼみが揺れた。
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それは、どこにも見えないものだ。目の前にあったとしても見えない。風も、地面も少しも鳴らさず、ドブや生ゴミの臭いもなければ柔軟剤の香りもしない。両手を伸ばし触れたとしても、熱さ冷たさすらないうえに、口を開けても舌で舐めても、苦いも甘いもなにもない。
それは、なにも感じさせない。しかし、確かにそこにいる。確かに、そこに存在している。見えていない、聞こえていない、においも味も感触も、気づいていないだけなのだ。
それは、知覚できないそれは────隠は、確かに存在する。隠。感情の残滓の集合。ひとの感情の成れの果て。
ひとの感情は空気に溶ける。ほとんどの場合、時間が経つと自然に消失するのだが、稀に残留し、集合する。集合体は変化となって、ひとを脅かす。それが隠である。
隠は、生身のひとを食い、消す。この世から消滅させる。あっという間に気づかぬうちに、消される。家族はみんな消された、でも。
どうやって、消え去ったのか。どんな表情でなにを言い、なにを願って消え失せたのか。どんな顔を、声をしていたか、なにを抱いて生きていたのか。どんな、ひとたちだったのか。いまでは、もう思い出せない。
「思い出せないの。本当に?」
扇港顕影隊二の隊隊長、真折薫子が問うてくる。教壇のような机の向こうに背筋を伸ばしてきちんと座り、タブレット端末を操作している。机上には数種のグミの袋が開けっ放しで散らばっており、点滅しそうな原色ばかり。そのうちひとつのパッケージでは、見知らぬ熊型キャラクターなどが眠そうな笑みを浮かべている。扇港顕影隊二の隊三班班長である、高坂柊は隊長席の向かいに不動の直立をきめ、色の海の中たゆたう熊を恨めしい気分で睨めつけていた。
「それ、思い出せないんじゃなくて、とらえきれてなかったんじゃないかな。あなたの書いた報告書、ずいぶん抽象的になってる。一か月くらい前からね。支障があるほどではないんだけど、それも証拠になると思うな」
真折は細い指先で、飛び出していたグミをつまんだ。黄色いそれを口へほうって、ね、と下から覗き込んでくる。長い睫毛が数度またたく。染みだらけの低い天井のもと、いっそ氷みたいな肌とざっくりまとめたベージュの巻き毛、蛍光ピンクの緩いパーカーがやけに冴え冴えして見える。つやめくネイルのワインレッドとグミの原色も加わって、色に叱られているような気になる。
「隠。顕認しきれてないね。顕術は使えてるんだけど、感覚が鈍くなってるんだな。『影』の量が減ってるからだ。やっぱり調べてみてよかったよ」
真折はにこりと微笑んで言う。
「高坂くん。顕認しきれてないね」
「はい。おっしゃる通りです」
柊は仕方なく、ついに認めた。近頃、隠がぼやけている。顕術を使っても知覚しにくい。
隠は、通常知覚できない。それなのにひとを食って消すので、顕影隊が討伐している。しかし、知覚のできないものは撫でることさえ不可能だ。そこで顕影隊の隊士は、「顕術」を使い隠を顕す。そうすれば隠れている化け物を、隠を、五感でとらえられる。
柊も一か月ほど前までは、顕術を使うと隠が見えたり、音が聞こえたりなどしていた。徐々に、感覚が薄らいできた。顕術行使に必要な力、「影」が減ってきたためだ。不利な状態ではあるものの、戦えないわけではないし特に珍しいことでもないので、だれにも伝えていなかった。真折は、よろしいとひとつうなずく。
「もう、一か月にはなるでしょう。そのままでよくやってたね。わたしがなにも言わなかったら、そのままでまだ続けてた?」
「おそらく、おっしゃる通りかと」
「だろうね。すぐ戻ると思ってたのかな。戻ることには戻るんだけど、長くかかってるみたいだし、やっぱり報告は必要だよね。わたしが分けてもよかったんだし」
「はい」
「影」はだれでも持っているもので、他者に分け与えることも可能だ。ただし、当然のことながら、与えた側の「影」は減る。隊の中のだれかに頼むと、そのひとが顕術を使いにくくなる。隠とやり合うときに危険だ。
「あなたなりに、気を遣ったんだろうけど。それとも、ぼやけているだけだから、じゅうぶんやれると思ってたの。実際やれてたみたいだけどね。だって、ずっといつも通りに見えた。だけどたぶん、やってしまったんでしょう。あんなことや、こんなこと」
「真顔でおかしな言い方をなさるのはやめてくださいませんか。真折隊長」
「確かに、ちょっと茶化してしまった。そうするべき場面ではないね。隠をあなどるなと言いたいんだよ」
死ぬよと真折はかろやかに添える。それはつまり、消えるということ。
「軽率に死なれると困るんだ。万年人員不足なんだし」
柊はうしろを振り向いた。町の片隅の小さなビルの、最上階の部屋である。さほど広いところではなく、古びてがらんと殺風景だ。くたびれたソファと長い机に、ジャケットや半纏が引っかけてある。全員、出払っているのだ。
柊は真折に向き直った。一歩あとずさり、頭をさげる。
「軽率な判断でした。誠に申し訳ございません」
「もういいよ。わたしも実は、もう少し前から違和感を持ってた。あなたがやれるから頼ってたんだね」
真折はかすかに柳眉をひそめ、さっぱりとした口調で続ける。
「でも正直、あなたはやれるよね。やるなと言ってもやるひとだよね。だから仕事は任せるよ。すでに一件見つけてるんだ」
その言葉に、柊は詰め寄った。机に革靴の先があたった。
「どのような件でしょうか」
真折は動じる様子もなく、グミをもうひとつ優雅につまむ。濃い紫の星型だった。それを目の上にすかしつつ、ほのかに笑みを浮かべて応じた。
「うん。あなたの担当区域だから、巡回のついでに見てほしいんだ。だけど単独ではないよ。しばらく単独任務はさせない。波花支部の補給班から、優秀な隊士を呼んできた」
「──え」
「『影』の補給を受けながら、任務にあたってもらうということ。『影』の補給が専門の、すごい隊士を呼んだんだよ。しばらくはそのひとと共同任務ね」
柊は、しばし絶句した。ここから電車で約二十分の都市に位置する波花支部は、扇港顕影隊など複数の隊を統括している。首都本部よりは近しいが、親しくつき合うところではない。なにか大事になっている気がする。さっさと報告したほうが、ましだったのかといまさら思う。
「あれ、珍しい光景かもね。高坂くんがびっくりしてる」
真折が微笑ましげに呟いたので、柊は慌てて姿勢を正した。思いきりからかわれたほうがましだ。硬直する柊を面白そうに見ながら、真折は紫の星を齧った。
「じゃあ、共同任務のお相手、ちょっと呼んでみるね。いまから」
「はい。よろしくお願いいたします」
柊は素知らぬ顔でこたえた。真折はにこりとうなずくと、よく通る声で呼ばわった。
「お待たせしたね、出ておいで。あなたのバディはここにいるよ」
すでに近くにいたのかと柊は驚いてしまったが、どこからもこたえは返らなかった。真折が静かに首を振る。
「だめだね。やっぱり寝てるみたいだ。ちょっと起こしてきてくれる?」
「え……」
「給湯室で寝ている。一時的なことだからって、仮眠室に住み込むことになってて。昨日到着して一泊したの。さっき給湯室でコーヒー淹れて一緒に飲んでたんだけど、そのままそこで寝ちゃったんだ。もう起きてるかと思ったんだけど」
「そんな、それは……」
柊は呻いた。仮眠室に泊まり込みでバディになってもらうというのは、迷惑をかけすぎだという気がする。どんなひとが来てくれたのだろうか、カフェイン摂取直後に寝るひと────なにか頭が混乱してくる。
「はい、早く行ってきて。名前呼んで、起こしてあげてよ。名前、ハルカね。ミケシハルカ」
「御衣……?」
古くから顕影隊を支え、現在も幹部の地位にある名家だ。つい呆然としていると、真折はさらりとつけ加えた。
「御衣って呼ばれるのは、ちょっぴりいやみたいなんだけどね」
とても状況が飲み込みにくいが、ともかく給湯室へ向かう。向かうと言ってもすぐそこだ。ソファとテーブルの横を過ぎ、古風な花柄の壁に張りついた、丸いドアノブに手をかける。思い直して、ノックした。
「失礼します────」
ハルカさん。御衣が気に入らないらしいと聞いても、勝手にそちらのほうで呼ぶのは、なかなかにハードルが高い。口ごもり、耳を澄ませるものの、中からの反応は皆無であった。柊は真折を振り向いた。ベージュの髪を揺らしながら、ちょいちょいとドアを示している。開けてみよということらしい。
尻込み、している場合ではない。任務があると言われたのだ。即刻聞いて出かけたいのだが、単独では出してもらえない。よって、御衣ハルカなる人物に、速やかに起床してもらわねばならない。柊は開けますと声をかけ、給湯室のドアをひらいた。




