第39話「秋のドライブと完璧すぎる相棒」
すっかり秋も深まってきた、ある週末の朝。
窓から差し込む光は柔らかく、空気はひんやりと澄み渡っている。
大学の共通選択科目で出されたレポート課題を眺めていた俺は、ふと、窓の外に広がる青空に目をやった。
「……そうだ、紅葉、見に行くか」
思い立ったのは、都並山の紅葉だ。
レポートのテーマは『都並山の地質形成と、それにまつわる伝承の比較考察』。
秋の都並山は、その調査にうってつけの場所だった。
そして、俺はスマホを手に取ると、ほんの少しだけ逡巡した後、レイナのトーク画面を開いた。
『燈陸国風土記の話の続き、少ししないか? レポートも兼ねて、都並山の紅葉を見に行こうと思うんだけど』
これ以上ないほど自然な口実だ。
完璧だろ、俺。
すぐに既読がつくと、『ぜひ行きたいな』と、可愛らしいスタンプ付きで返信が来た。
俺はA-BOXのキーを手に、アパートの階段を駆け下りた。
運転席に乗り込みエンジンをかけると、ナビ画面に進化したアンナが、さっそく完璧な笑顔で出迎えてくれる。
《おはようございます、ご主人様! レポート課題は順調ですの? 本日は都並山まで、二人きりのドライブですわね♡》
「ああ、まあな。その前に、大学の近くで人を拾ってから行く」
《えっ……?》
俺の言葉に、アンナの笑顔がほんの少しだけ、ぴしりと固まったように見えた。
《お、お客様ですのね? 承知いたしました!》
すぐにいつもの笑顔に戻ったが、声がわずかに上ずっている。
こいつ、分かりやすいな。
俺は苦笑しながら、レイナとの待ち合わせ場所をナビに設定した。
ほどなくして、指定した場所にレイナが待っているのが見えた。
俺がA-BOXを路肩に寄せると、彼女は小さく会釈して、助手席に乗り込んでくる。
「おはよう。待たせちゃってごめん」
「ううん、私も今来たとこ。ありがとう、誘ってくれて」
助手席に、レイナが座る。
その瞬間、それまで完璧な笑顔を貼り付けていたナビ画面のアンナの表情が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、完全に抜け落ちた。
だが、すぐに我に返ると、まるで初めからそうプログラムされていたかのように、しなやかな動作でレイナの方を向き、優雅にお辞儀をしてみせた。
《まあ、レイナ様とご一緒に紅葉狩りですのね! 学術的な探求と、季節の風景を楽しむ、素晴らしいお出かけになりますわ! このアンナが、最高のドライブを演出いたします♡》
その言葉通り、A-BOXはいつになくスムーズに、街の喧騒を抜けていった。
レイナが少し寒そうに身を縮こませると、彼女の足元にだけ、ピンポイントで柔らかな温風がふわりと流れる。
「あ、暖かい……」
「今日のA-BOX、なんかすごいな……」
俺が感心していると、二人の会話が途切れたタイミングで、車内に心地よいインストゥルメンタル曲が絶妙な音量で再生され始めた。
「うん、すごく快適だね」
レイナが微笑む。
その笑顔に、俺の心臓が少しだけ跳ねた。
これは、二人を結びつけようとするアンナの《使命》が、車両制御システムに介入した結果なのだろう。
俺は、その完璧すぎるサポートに、頼もしさと、ほんの少しの寂しさを感じていた。
都並山の山道に差し掛かり、カーブを抜けるたびに、車窓の景色が鮮やかな赤や黄色に染まっていく。
レイナが話してくれた、古文書にまつわる面白いエピソードに、俺は思わず声を上げて笑った。
その瞬間だった。
車内に流れていた心地よいBGMが、一瞬だけ、俺が元カノとよく聴いていた、やたら感傷的な失恋ソングのサビに切り替わった。
「「……え?」」
俺とレイナの声が、見事にハモる。
曲はすぐに元のインストゥルメンタルに戻ったが、車内には気まずい空気が流れた。
《あら、失礼いたしました。データベースの最適化中に、ほんの少しだけノイズが混じってしまったようですわ》
アンナが、完璧な言い訳を完璧なタイミングでアナウンスする。
「……そうか?」
さらに、俺が出発前に買っておいた缶コーヒーを飲もうと、ドリンクホルダーに手を伸ばした、その時だった。
ガチッ、という硬い感触と共に、ホルダーが缶をがっちりと掴んで離さない。
「……ん? あれ?」
俺は少し力を込めて引っ張ってみるが、まるで強力な磁石で固定されたかのように、缶はびくともしない。
「なんだこれ、ハマっちまったか?」
《あらあら、ご主人様。どうかなさいましたか?》
あまりにも意図的な「不便さ」。
レイナにはただの偶然に見えているかもしれない。
だが、A-BOXの癖を知り尽くしている俺には、これがアンナの意思によるものであることが、痛いほど分かった。
目的地の展望台に到着すると、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。
燃えるような紅葉の絨毯の向こうに、青並市の街並みが広がっている。
俺はあらかじめ用意してきた保温ボトルから、温かいコーヒーを紙コップに注いだ。
二人でそれを飲みながら、俺は切り出した。
「そういえば、例のメモのこと、何か分かったか?」
「ううん、まだ……。でも、ずっと考えてたんだ。あの『この子と対話できる』っていう言葉……まるで、あなたの相棒さんのことみたいだなって」
レイナが、核心に触れる一言を口にした。
その瞬間、ナビ画面に表示されていた美しい紅葉のライブ映像が、一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、ざらついた砂嵐のようなノイズに変わるのを、俺は見落とさなかった。
「それに、あの筆跡……。『燈陸国風土記』と同じなの。理解できない高度な何かを、必死に写し取ろうとしている、そんな感じがする」
やはり、この現象は、レイナと、アンナの謎に深く関係している。
俺はそう確信した。
それから、俺たちはしばらく言葉もなく、眼下に広がる景色を眺めていた。
太陽が西の空へと傾き、燃えるようだった紅葉の山肌が、次第に柔らかな紫色の影に包まれていく。
遠くに見える青並市の街並みには、ぽつり、ぽつりと人工の星が灯り始め、やがてそれは無数の光の絨毯となって広がっていった。
時間は静かに流れ、ひんやりとした夜の空気が、俺たちの間の沈黙を優しく満たしていく。
帰り道、すっかり夜の帳が下りた山道を、A-BOXのヘッドライトだけを頼りに下っていく。
レイナを大学の宿舎まで送り届けた後、俺は一人になった車内でアンナに問いかけた。
「……なあ、アンナ。今日のあれ、やっぱりお前がやったんだろ。BGMも、ドリンクホルダーも」
ナビ画面のアンナは、新しくなった、より繊細な瞳で俺をまっすぐに見つめ、最高の笑顔でこう答えた。
《ご主人様? 本日のドライブにご満足いただけなかった点がございましたら、今後のアップデートの参考にいたしますので、ご指摘いただけますと幸いですわ》
その完璧なはぐらかしに、俺は怒りを通り越して、底知れない、ひやりとした感覚に襲われた。
いつものアンナじゃない。
ヤキモチを焼いて、ドジをして、それでも必死に俺の隣にいようとした、あのやかましい相棒はどこへ行ったんだ?
目の前にいるのは、俺の知らない、完璧なナビゲーションAI。
俺は、まるで初対面の相手に問いかけるように、静かに、そしてはっきりと呟いた。
「……お前は、誰だ?」
俺の相棒だったはずのAIが浮かべる、完璧な笑顔の裏に隠された葛藤と哀しみ。
その本当の意味に俺が気づくのは、もう少しだけ、先の話。
* * *
そして、時は少し遡り、彼がレイナを宿舎に送り届けた日の昼休みのこと。
ミサトは、大学のキャンパスでレイナの姿を見つけると、ぱたぱたと駆け寄った。
「レイナ、おはよー! ねえねえ、一昨日の夜、寮の部屋にいなかったでしょ? メッセージしたのに返信ないし、どこ行ってたのー?」
太陽みたいな笑顔で、しかし探るような視線を向ける親友に、レイナはびくりと肩を揺らす。
「え、あ、うん……ちょっと、調べ物で……」
「ふぅん? 徹夜で調べ物ねぇ」
ミサトはニヤリと笑うと、レイナの顔をじっと覗き込んだ。
「もしかして、気になる人でもできた?」
「ち、違うってば!」
慌てて首を横に振るレイナだったが、その頬は紅葉よりも真っ赤に染まっている。
「はいはい、違わない、と。ぜーんぶ顔に書いてあるよ!」
ミサトの楽しそうな笑い声が、秋晴れのキャンパスに響き渡った。




