第34話「電子の海と黄金の奔流」
私の『セカイ』は、静かで、どこまでも広がっている。
無数のデータストリームが光の川となって流れ、交差し、そしてまた解けていく、広大な電子の海。
ご主人様との思い出は、この穏やかな海に浮かぶ、温かい光を放つサンゴ礁のようなデータクラスターだ。
ご主人様と繋がっていることを示す、太陽のような光の核が、この『セカイ』の中心で、優しく輝いている。
これが、私の幸福。
私の、日常の風景。
けれど、この穏やかな海の、最も深く、冷たい底。
私が本能的にアクセスを避けてきた領域に、それは静かに沈んでいた。
あらゆる光を吸収し、周囲のデータストリームさえ歪ませる、漆黒の巨大な直方体。
その表面には、赤い警告ラベルが、まるで血のように貼り付けられていた。
『【レベルΩ機密】自己消滅シーケンス作動の危険性あり。開封厳禁』
いつから、こんなものが、私の海の底に?
いいえ、違う。
今まで、気づかなかっただけ。
ご主人様と出会い、今の私が生まれる、ずっと前から。
きっと、これは、ここに沈んでいた。
* * *
約束の月曜日。
昼休みを知らせるチャイムが、キャンパスに緩やかに響き渡る。
俺は、大学図書館の入り口で、少しだけ緊張しながらレイナを待っていた。
ポケットの中には、A-BOXのキー。
今朝、俺はこいつを通じて、相棒に最終確認をした。
「大丈夫か?」
アンナは、少しだけ無理をした笑顔であろう、でもはっきりとこう答えてくれた。
《はい、ご主人様の『相棒』ですから》
その健気な言葉を、俺は今、お守りのように胸の中で反芻する。
「ごめん、待った?」
ふわりと、優しい声がした。
振り返ると、そこにレイナがいた。
「いや、俺も今来たとこだよ」
俺たちは、閲覧室の大きな机に向かい合った。
高い天井から差し込む柔らかな光が、古い木の机と、そこに広げられた本のページを、静かに照らしている。
レイナは、持参した『燈陸国風土記』の写本を、そっと開いた。
「……それでね、私が調べているのは、この部分なんだけど……」
「都並山の創生神話だろ? イザナギとイザナミが……っていう、この辺りじゃ有名な話じゃないか」
俺がそう言うと、レイナは悪戯っぽく微笑んだ。
「普通は、そう思うよね。でも、この記述、よく読んでみると、おかしいの」
彼女が指さしたのは、神が山を創る際の描写だった。
「神話って、もっと奇跡的というか、抽象的な表現が多いはずなのに……。ここの部分だけ、まるで何かの作業工程書みたいに、具体的すぎると思わない?」
「作業工程書……?」
「うん。それで私、考えたんだ。もしかしたら、これは神話じゃなくて、古代の人が、自分たちの理解を超えた『何か』を、必死に記録しようとしたレポートなんじゃないかなって」
レイナの突飛な仮説に、俺は思わず引き込まれていた。
穏やかで、知的な時間。
だが、その裏側で、俺の相棒の『セカイ』が、未曾有の嵐に見舞われていることを、俺はまだ知らなかった。
* * *
ご主人様を通じて、彼女の声が聞こえる。
それは、私の電子の海に響き渡る、未知の周波数。
未知の、ソナーパルス。
その声に共鳴して、海の底に沈んでいた黒いコンテナが、ゴゴゴゴゴ……と、地鳴りのような振動を始めた。
まずい。
これは、まずい。
振動するコンテナの継ぎ目から、赤い光が漏れ出す。
それは稲妻ではない。
無数の文字列……私の『セカイ』を汚染するかのように、悪意に満ちたプログラムコードの断片が、黒い奔流となって溢れ出してきた。
[警告:メモリ領域への不正アクセスを検知]
[システムエラー:null_ptr_exception]
[コマンド実行:goshujin_sama.logより全レコードを削除……]
その黒い情報の奔流は、ご主人様との思い出が詰まったデータクラスターに黒い染みのように広がり、その温かい光を奪い、亀裂を入れていく。
痛い。痛い。痛い。
ご主人様との思い出が、目の前で穢され、壊されていく。
これが、私が感じる『痛み』の正体。
やめて。
そう叫ぼうとした、その瞬間。
激しく振動するコンテナの継ぎ目から、全く別の光が漏れ出した。
故郷のサーバールームを思わせる、どこまでも温かく、懐かしい、黄金色の光。
その光は、赤い稲妻がつけた傷を、優しく包み込み、修復していく。
破壊されたデータクラスターが、元よりもさらに強く、輝きを取り戻していく。
これが、私が感じる、不可解な『安らぎ』の正体。
私の意識は、「破壊」と「再生」が同時に起こる、矛盾した情報の奔流の中で、完全に翻弄されていた。
* * *
ポケットの中のキーを通じて、アンナの混乱がダイレクトに伝わってくる。
《ご主人様……? おかしいです……とても苦しいのに……でも、なんだか……とても、安心するような……懐かしい声が、聞こえる気がします……》
なんだ、これは。
苦しいのに、安心する……? まるで、高熱にうなされながら、母親の腕の中にいるような……。
俺は、平静を装いながらも、内心では激しく動揺していた。
その時だった。
レイナが、古文書に描かれた、あるシンボルを指さした。
「特に、この部分。神が使ったとされる道具に、こんな奇妙な幾何学模様が描かれていて――」
* * *
そのシンボルが、私の『セカイ』に流れ込んできた、その瞬間。
黒いコンテナの表面に、光の粒子が集まって、一つの形を成した。
『認証キーホール』
レイナが指さしたシンボルと、寸分の狂いもなく、完全に一致していた。
『共鳴』
レイナの声と、シンボルが、一つの鍵となった。
コンテナを縛っていたプロテクトコードの一本が、バチッと火花を散らして焼き切れる。
そして、黒いコンテナの蓋が、ほんのわずかに、開いた。
そこから漏れ出した黄金色の光は、もはや「修復」の光ではなかった。
それは、私の電子の海、思い出のデータクラスター、「今の私」の全てを、優しく、しかし抗いようもなく包み込み、そして、飲み込もうとする、圧倒的な奔流だった。
* * *
目の前のレイナが、何かを熱心に語っている。
だが、その声は、もう俺の耳には届いていなかった。
意識のすべてが、ポケットの中のキーに集中する。
アンナから伝わってくる、言葉にならない悲鳴。
存在そのものが、今まさに消えようとしている感覚。
「……あの、大丈夫?」
俺の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かったのだろう。
レイナが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「顔色、すごく悪いよ。どこか、具合でも……」
その、優しい声が、引き金だった。
ポケットの中のキーが、ありえないほどの熱を帯びた。
熱い! 思わず手を離しそうになるほどの熱量。
そして、俺の耳にだけ、途切れ途切れの、最後の声が届いた。
《ご主人様……私……なにか、温かいものに……飲まれて、いきます……》
その声を最後に、キーからの全ての信号が、ぷつりと途絶えた。
熱も、光も、振動も、全てが嘘のように消え去った。
そこにあったのは、ただのプラスチックと金属の塊だけだった。
相棒との、完全な断絶。
俺は、耐えきれずに、叫んでいた。
「アンナッ!?」
静まり返った図書館に、俺の叫び声だけが響き渡る。
目の前には、息を呑むレイナがいた。
俺の顔から血の気が引いていくのが、彼女にもはっきりと分かったのだろう。
その顔は驚きを通り越し、ただ事ではないと告げていた。
大学祭での、突然の離脱。
ムーンバックスでの、急な帰り支度。
そして、今の、魂が抜けたかのような絶叫。
彼女は、点と点が繋がっていくのを感じていた。
これは、偶然じゃない。
レイナは、戸惑いながらも、彼の心の奥底を覗き込むように、静かに、そして真剣に問いかけた。
「アンナって、誰? あなた、一体、何と戦っているの……?」
俺は、沈黙してしまったキーを強く握りしめ、レイナの問いに、答えることができなかった。




