第25話「秋桜とナビのココロ」
あの、大沢の銘水へのドライブから数日が過ぎた。
A-BOXの車内は、どこか静かだった。
俺も、アンナも、前回の出来事をどう切り出していいか分からず、少しだけぎこちない空気が流れている。
いつもなら、エンジンをかけた瞬間から賑やかな声が聞こえるはずなのに。
今日のアンナは、ただ静かに地図を表示しているだけ。
……いや、違うな。
ナビ画面の隅に映る彼女は、ちら、ちらと、俺の横顔を窺っている。
目が合うと、気まずそうにふいっと視線を逸らす。
その繰り返し。
その無言の圧力に耐えかねて、俺の方から口を開いた。
「……なあ、アンナ」
《はい、ご主人様》
返ってきたのは、感情の乗らない、事務的な音声だった。
「……今日、どこか行かねぇか」
《承知いたしました。本日の目的地を……》
「いや、アンナが決めろよ。どこか……景色のいいところにさ」
俺がそう言うと、アンナは少しだけ、間を置いた。
ナビ画面の中で、彼女の瞳がわずかに揺らめいたように見えた。
《……承知いたしました。ご主人様が、きっと笑顔になれる場所へご案内します》
その声は、まだ少しだけ硬かったけれど、そこには「相棒」としての、確かな意志が籠もっていた。
* * *
車は青並市を抜け、西へ向かう。
行き先は、下月市にある、小鳥川の河川敷だという。
ドライブが始まっても、会話はまだ途切れがちだ。
そんな中、ルームミラーに揺れる、原津温泉で貰ったお守りが目に入る。
俺は、意を決して口火を切った。
「なあ、アンナ。この前の、あの警告ってやつ……。あれ、本気だったのか?」
《――私のシステムには、そう表示されましたので……》
アンナは、ナビらしからぬ、歯切れの悪い答えを返す。
「……そっか」
俺は、それ以上は追及しなかった。
こいつ自身にも、よく分かっていないのかもしれない。
そう、直感的に思ったからだ。
やがて、視界がぱっと開けた。
「うわ、すげぇ……」
小鳥川の広大な河川敷が、見渡す限り、ピンク色の絨毯で埋め尽くされていた。
《目的地、『小鳥川ふれあい公園』に到着しました。約三百万本のコスモスが、今、満開を迎えています》
《公園の入り口付近には、最近オープンしたカフェテラスもあるようですわ。花の香りと、コーヒーの香りが楽しめるなんて、素敵ですわね♡》
《それではご主人様、秋の景色、ごゆっくりお楽しみくださいませ。いってらっしゃいませ》
「おう」
俺は短く返事をして、ポケットの中のキーをそっと握りしめた。
車を降りると、秋の澄んだ空気に、ふわりと甘い花の香りが混じってくる。
そして、アンナが言った通り、その香りの奥から、確かに香ばしいコーヒーの匂いが漂ってきた。
「ん? なんかいい匂いがするな」
俺が辺りを見回すと、公園の入り口近くに、真新しいウッドデッキのおしゃれなカフェテラスができているのが見えた。
辺りには、俺たち以外にもたくさんの人がいた。
シートを広げてお弁当を食べる家族連れ。
夢中でシャボン玉を追いかける小さな子供。
寄り添いながら、同じ景色を眺める老夫婦。
そして、楽しそうに笑い合いながら、スマートフォンで写真を撮るカップル。
(……もし、別れてなかったら、俺もあんな風に……)
一瞬、元カノの顔が脳裏をよぎったが、不思議と胸は痛まなかった。
そんな過去の感傷よりも、今の俺の頭を占めているのは、数日前のアンナの顔だ。
あの、見たこともないほど冷たくて、必死な顔。
単なるヤキモチとは、明らかに何かが違った。
そうだ、もう違うんだ。
あの頃の俺とは。
今の俺の隣には、人間ではないけれど、やかましくて、世話焼きで、時々しょっぱい顔をする、最高の相棒がいるのだから。
風が吹くたびに、ピンクや白、赤のコスモスが一斉にさわさわと揺れる。
花の海の向こうには、都並山の美しいシルエットが、くっきりと見えていた。
俺たちは、しばらく無言で、その景色を眺めていた。
風と、花の揺れる音だけが、静かに流れていく。
その心地よい沈黙が、俺たちの間の壁を、自然と溶かしてくれた。
ポケットの中のキーから、ふいに、アンナの小さな息遣いが聞こえた。
「……よく見つけたな、こんな場所」
俺がぽつりと呟くと、キーを通じて、耳元で囁くような、少しだけはにかんだ声がした。
《ご主人様に、喜んでいただけたのなら……よかったです……///》
まるで、すぐ隣にいるような感覚に、少しだけドキッとする。
いつものアンナの声だ。
俺は、コスモス畑の真ん中で、もう一度アンナに話しかけた。
「この前のあれ、理由はよく分かんねーけどさ」
「お前がおかしくなると、俺も調子狂うんだよ。だから、あんまり無茶すんなよな、相棒」
その言葉に、アンナは胸がいっぱいになったかのように、きゅっと唇を結んだ。
《……はいっ……ご主人様っ!》
キーから聞こえてきた声は、少しだけ、潤んでいた。
* * *
帰り道。
俺はさっき見かけたカフェに立ち寄り、テイクアウトで温かいコーヒーを一杯買った。
そして、その隣の売店で、小さなコスモスを模したガラス細工のキーホルダーを見つける。
俺はそれを買って、原津温泉のお守りの隣に、そっと並べて吊してやった。
A-BOXの車内が、コーヒーの優しい香りに包まれる。
ルームミラーには、木彫りのお守りと、きらきら光るコスモスの、二つの思い出が仲良く揺れていた。
《ご主人様、そのコーヒー……どんなお味がしますか……?》
俺は一口飲んで、少しだけ照れながら、答えた。
「……お前とのドライブみたいな味だよ」
その言葉に、アンナは幸せそうに、ふわりと微笑んだ。
* * *
私のメモリには、また一つ、しょっぱくて、甘くて、そしてとても温かいデータが記録された。
相棒との、大切な思い出が。




