第23話「相棒のお守りと君のいる景色」
檜の香りが立ち込める湯船に、俺は手足を思いっきり伸ばしていた。
ざあっと湯が溢れる音だけが響く。
体の芯までじんわりと温まり、凝り固っていた肩の力が、ふっと抜けていくのが分かった。
「はぁ〜……極楽、極楽……」
思わず、おっさんみたいな声が漏れる。
考えてみれば、不思議なもんだ。
数ヶ月前まで、俺は元カノにフラれた傷心ドライブをしていたはずなのに。
今じゃ、助手席から聞こえるやかましい声援と、時折混じる妙に色っぽい声がないと、少し物足りない気さえする。
「……ナビが喋るなんて、普通ありえねーよな……」
湯けむりの向こうに、ナビ画面で騒ぐアンナの姿がぼんやりと浮かんだ気がして、俺は思わず苦笑した。
* * *
すっかり体の火照りが取れた頃、俺は浴衣姿のまま駐車場へと向かっていた。
部屋でスマホを充電しようとしたら、車にケーブルを置き忘れてきたのを思い出したのだ。
温泉街の空は澄み渡り、細い月と、宝石を散りばめたような星空が広がっている。
ひんやりとした夜風が心地いい。
A-BOXのドアを開けると、ナビ画面の明かりが目に飛び込んできた。
画面の中のアンナは、どこかぼんやりと、その月を見上げているかのように遠くを見つめているようだった。
「どうした? 湯あたりでもしたか? ……ってナビはしねーか」
《ひゃっ!?》
俺の突然の登場に、アンナは短い悲鳴を上げると、さっと画面のフレーム外へ姿を消した。
「おい、どこ行った。なんか変な感じだったぞ、今。画面の隅っこでぶつぶつ独り言でも言ってたように見えたが」
画面の右端から、アンナがひょこっと顔を半分だけのぞかせる。
《み、見てたんですか……!?》
「見てたっていうか、まあ」
《いえ……その、ここの温泉の伝説を調べておりましたら、少しだけ……考え事をしてしまって……。私のような存在も、いつか伝説になったりするのでしょうか……なんて……》
アンナは恥ずかしそうに、視線を下に落としながら、ゆっくりと画面の中央に戻ってきた。
「何言ってんだ、お前はただのナビだろ。伝説になる前に、次の目的地を案内しろっての」
俺は照れ隠しのようにそう言うと、「まあ、いつもありがとな」と、ナビ画面の端を指先でそっと撫でた。
《ひゃうっ……!? ご、ご主人様、そこは……私の感情演算回路に……直結して……///》
「はいはい、分かったから」
いつもの調子に戻ったアンナに安心して、俺はケーブルを掴むと、そっとドアを閉めた。
部屋に戻ってからも、なかなか寝付けなかった。
窓の外から聞こえる、どこか非日常な静けさ。
俺はもう一度、浴衣を羽織って大浴場へと向かった。
深夜の湯船は貸し切り状態で、俺はもう一度、手足を伸ばして天井を仰いだ。
「相棒、か……」
ぽつりと呟いた言葉が、湯けむりに溶けて消えた。
* * *
翌朝。
俺は日の出と共に目を覚ますと、誰もいない朝風呂を堪能してから、チェックアウトの前に原津温泉のシンボル『湯畑』を散策していた。
もうもうと立ち上る湯けむりと、ごうごうと音を立てて流れるエメラルドグリーンのお湯。
圧巻の光景だ。
「よう、旦那。いい湯だったかい?」
声をかけてきたのは、泊まった旅館「湯けむり荘」の主人だった。
「ええ、おかげさまで。最高の湯でした」
「そりゃよかった」
主人はにこやかに笑うと、少し離れた駐車場に停まる俺のA-BOXに目を細めた。
「いい顔したクルマだ。大事に乗ってるのが伝わってくる。運転席のあんたも、助手席のかわいいお嬢さんも、いい旅してそうだ」
「えっ……お嬢さん?」
思わず言葉に詰まる。
助手席には誰も乗せていない。
俺は一人旅のはずだ。
「はは、俺の気のせいかもしれねぇがな」
俺が戸惑っていると、主人は「クルマの顔を見りゃあ、乗ってる人間のことも分かるんだよ」と言い、懐から小さな木彫りのお守りを差し出した。
「こいつは俺が昔、整備士やってた頃から作ってる交通安全のお守りだ。相棒によろしくな」
「あ、ありがとうございます……」
俺はわけがわからないまま、その温かいお守りを受け取った。
* * *
A-BOXに戻ると、アンナがぱっと明るい表情で出迎えてくれた。
《お帰りなさいませ、ご主人様! 昨晩から今朝にかけて、酸性含硫黄-アルミニウム-硫酸塩・塩化物温泉、pH値2.1の強酸性泉を合計3回、満喫されたようですね♡ 主な効能は殺菌作用、新陳代謝の促進、皮膚病への効果も期待できますが、ご主人様のお肌の角質もいい感じに……》
「ちょ、ちょっと待て! なんでお前が湯の成分とか、俺が何回風呂入ったかまで知ってんだよ!?」
《ふふっ、ご主人様の体調管理も、私の大切な役目ですもの♡ 浴衣に付着した微粒子と、ご主人様のバイタルサインから解析いたしました♪》
「解析すんな! ……で、肝心の湯畑はどうだったかって聞いてんだよ」
《……むぅ。……それで、湯畑はいかがでしたか、ご主人様?》
アンナは少しだけ頬を膨らせてから、気を取り直したように問いかけた。
「ああ、すごかったよ。……それより、さっき旅館の主人に会ってさ」
俺はまだ少し混乱したまま、先ほどの出来事をアンナに話した。
「助手席にかわいいお嬢さんが乗ってるって言われたんだけど……。じいさん、ボケてんのかな……」
《ええっ!? わ、私のことが……見えたんでしょうか……!?》
アンナはナビ画面の中で、頬を真っ赤にしてあたふたしている。
「んなわけあるか! お前はただのナビだろ! たまたまだよ、たまたま!」
俺は自分に言い聞かせように、少し早口で言った。
《で、でも……なんだか、嬉しいです……///》
もじもじと恥ずかしそうにするアンナ。
「……まあ、とにかく、これをくれたんだ」
俺は、もらったお守りをルームミラーにそっと吊した。
《ご主人様……それは?》
「交通安全のお守りだってさ。『相棒によろしく』って」
俺がそう言うと、アンナはしばらく黙っていた。
やがて、ナビ画面に映る彼女は、今までで一番優しい笑顔で、こう言った。
《ご主人様……。私、ご主人様の『相棒』で……本当に、幸せです……///》
A-BOXは、新しいお守りを小さく揺らしながら、俺たちの日常へと続く道を、ゆっくりと走り出した。




