三
一部暴力的な表現や、不快な表現が出てきます。ご注意ください。
「それにしても、この印がそんなに厄介なものだったなんて……」
松平と別れたあと、葵は平謝りする巳神の姿を思い出した。もしかすると、彼はこの事を知っていたのかもしれない。どちらにしても、腕の印をこのままにしておくことはできない。明日、巳神と話をして、この印を外してもらおうと思った。
松平と長い間話し込んでしまったおかげで、校舎にはほとんど生徒は残っていない。
葵は静まり返っている廊下を急ぎ、靴を履き替える。この辺りでは、あっという間に日が落ちるのだと昨日教えてもらったばかりなのだ。
グラウンドの脇を通り抜けると、野球部が練習をしているのが目に入った。
そう言えば、学校のアイドルの稲津という先輩が野球部にいることを思い出した。なんとなく、どんな人物なのか知りたくて、葵は稲津を探してみた。しかし、グラウンドのどこにも彼の姿は見当たらない。
「ちょっとそこの人、ここは部外生は立ち入り禁止なんだけど」
もう諦めようと思ったそのとき、とつぜん後ろから棘のある声をかけられ、葵は驚いてしまった。振り返ると、今まさに探していた稲津が、腕組みをして葵を睨み付けていた。
彼は土の付いたユニホームを着ていて、左手に絆創膏を貼っているのが見えた。怪我をして、一時的に部活を抜けていたのかもしれない。
見上げるほどに背が高く、真っ黒に日焼けしている稲津は、至近距離で見ると相当な威圧感がある。おまけに、彼は少しつり目気味の整った顔立ちをしているので、余計に怒った顔が怖く感じられた。
「お前どこの学校? 堂々とスパイしに来るなんて、いい度胸だな」
「ち、違います。ここの学生です。一昨日転校してきたばっかりで、制服が間に合わなくて!」
葵が慌てて誤解だと告げると、稲津は意外にもあっさりと信用してくれた。
「なんだ、そうだったのか。疑って悪かったな」
「いえ、私のほうこそ紛らわしくてすみません」
「あれ、お前その腕……」
稲津が怪訝な顔をして葵の右腕を見つめる。遠くを見るときのように目を細めているが、明らかになにかに気付いたようだ。
葵は驚いた。まさか、稲津にもこの印が見えているのだろうか。
松平は、この地方には神様を祀る家は意外に多いのだと言っていたが、こんなに頻繁に見える人に出会うものだろうか。葵はあり得ないような偶然に不安を覚えた。
「なんかの印か? この模様は……木の方じゃないな。あの蛇の奴か」
独り言のようにぶつぶつと稲津は呟いた。
やはり彼も見える人なのだと葵は確信した。それも、松平並みに正確に読み取れるらしい。
「あの稲津先輩、いま『木』って言いましたか? それって誰のことですか?」
「ああ、二年生に髪が長くて細い女子がいるだろ。来たばかりじゃ知らないか? あの子のうちの家神さんが大きな松の木なんだ。いわばご神木だな」
「その人、松平さんだ」
葵は驚くと同時に納得した。彼女の家の神様は、松の木だったのか。
「それよりお前の腕、なんでそんなことになってるんだよ。なんか、まるでマーキングみたいな……」
稲津は不思議そうに葵の腕を見ていたが、すぐにハッとした表情になって額に手を当てた。
「そうか、本当にマーキングなんだな。……え、なんだって? いまは駄目だ、こんな場所で勝手されたら俺が困るんだよ。……駄目だ、出てくるな!」
額に手を当てたまま、稲津はまるで誰かと話をするように独り言を言い始めた。
ただ事ではない様子の稲津を目の前にして、葵は少し怖くなって身を引いた。しかし、稲津の手が急に伸びてきて、離れようとしていた葵の腕を捕らえた。
怯えて硬直している葵を見て、稲津は気味が悪いほどニッコリと笑いかけてきた。
『悪いけど、もう少し付き合ってくれるかい』
その声を聞いて、葵はゾッとした。確かに稲津の声であるのに、その奥でもうひとつの声が重なって聞こえたのだ。
『ここでは都合が悪いらしいから、もっと静かな場所へ行こうか。なに、そんなに手間は取らせないさ。恐らくすぐに済むよ』
口調までガラリと変わった稲津が、葵の手をぐいぐいと引いて歩きだす。
葵は、豹変してしまった稲津をじっと見つめた。目の前にいる男は、稲津であって稲津ではない。
「……狐?」
じっと見ていると、稲津とだぶってぼんやりと尖った耳を持った狐の姿が見えた気がした。
『正解。やはり蛇が目を付けただけあって、良い勘をしているね』
稲津がくるりと振り返って、満足そうにニンマリと笑う。
葵は恐怖に体が強張ってしまい、稲津に引きずられるままついていくことしかできなかった。彼に抵抗するには、力も気力も足りなかった。
+ + + +
『ここでいいか』
そう言って、稲津は葵の背をトンと押した。連れてこられたのは、校舎の裏にある古びた体育倉庫だった。
『こっちは古い倉庫でほとんど使われていないらしいから、静かでいいね』
「あ、あなたは誰ですか?」
葵は思いきって稲津の中にいると思わしき狐に話しかけてみる。
彼はつりあがった目を細めて、内側からカチャリと鍵を閉めているところだった。
『私は太一の中に住んでいる守護狐だ。私は代々、稲津家の長男の体に入ってその子を守るのが役目なんだよ』
「体に入る?」
簡単に言われてしまったが、それがどんなことなのか葵には想像もつかない。目の前にいる狐も家神さんの一種なのだろうか、と首を捻る。
『人の子は脆いからね。成人して子を成すまで、あらゆる厄から私が守るのさ。そんな事よりお嬢さん、私は君とお喋りを楽しむために連れてきたわけじゃないんだよ』
稲津の中の狐は葵の側へと近づく。
葵は彼が近づいた分だけ離れるが、すぐに壁際に追い詰められた。
『君には、太一と子作りをしてもらいたいのさ』
いきなり稲津の巨大な体が覆い被さり、葵は無理やり床に組み伏せられた。もがいても暴れても、稲津の体はびくともしない。体格が違いすぎるのだ。
『暴れたらひどくなるだけだよ。じっとしていればすぐに済むから、おとなしくしていなさい』
「いや、やめて!」
狐に乗っ取られている稲津の手が葵の体に触れる。
『ちゃんと子を孕めばやめてあげるよ。君の血が稲津家に混じれば、きっと力の強い子が産まれる。太一も結構君を気に入ったみたいだし、良い夫婦になるだろうね』
狐は嬉しそうに笑っている。
なぜこんなことになったか、葵にはさっぱり分からない。しかし、自分の気持ちなどまったくお構い無しにこんなことをする狐に腹がたった。
「やめて! 私は夫婦になんてなりません」
『なるさ。私がそう決めたんだ』
稲津の手がスルスルと動いて、葵のスカートにかかる。
葵は目の前が真っ暗になった。会話をすることができているのに、まったく話が通じない。松平が言っていたことは本当だった。
「稲津先輩……お願い、やめさせてください!」
狐と同居しているという稲津の意識が、いま現在どうなっているのかは葵には分からない。しかし、彼に狐を抑えてもらう意外に方法が浮かばなかった。
葵の声が届いたのか、稲津の動きがピタッと止まった。
『なんだ太一、邪魔をするなよ』
「お前こそ、俺の体で、勝手なことするな」
同じ声、同じ顔なのに、人格が入れ代わるたびにその表情はガラリと変わる。
「主導権を返せ! 無理やり女の子を襲うなんて、犯罪だぞ!」
『そうなのか?それは知らなかった。昔とは色々と違うのだな』
狐は悪びれる様子もない。
『しかしなあ、この機会を逃すと後々面倒なことになるんだ。いま私たちは、蛇の嫁を横取りしようとしてる最中なんだぞ』
「私たちじゃねえ! お前だけだ」
『とにかく。いま一番大事なことは、蛇がここへやって来る前にこの娘を奪うことだよ』
狐の言葉を聞いて、葵は思い出した。蛇神さんが付けた腕の印を通して、葵の居場所と状態を知ることができると、松平は言っていた。もう少し経てば、きっと助けが来てくれる。わずかな希望が見えてきた気がした。
「ふざけんなよ! いますぐに体を俺に返せ」
『静かにしろよ、こんな場面を見られて一番まずいのは太一じゃないのか?』
稲津は吠えるような大声を出したが、狐は全く取り合おうとしない。稲津は悔しそうに歯軋りをすると、自分の体の下で震えている葵に目を向けた。
「大丈夫だ。絶対に襲ったりしないから」
稲津は葵を安心させるために微笑んだ。しかし、その額には汗が浮いている。
「でも、正直言うとけっこう厳しい。情けないんだが、俺はこれ以上身動き取れそうにない。うちの狐をこうして止めておくことで精一杯なんだ。だから、悪いが自分でこの状態から逃げてくれ」
『太一!』
狐が焦った声を出す。
歯を食いしばって何かを耐えているいる様子の稲津を見て、葵は怯える心を必死に立て直した。怖がってばかりいては、自分を逃がそうとしてくれているこの男に申し訳ない。
「……やってみます」
葵はまず重く圧し掛かっている稲津の足を退けることにした。まるで大木が乗っているようでびくともしない。しかし、葵は諦めなかった。自由になっている腕を一生懸命突っ張って、稲津の胸を押し退けようともがく。
しかし、葵の力では稲津の固い胸板は、ほんのわずかしか動かすことができなかった。
「先輩、重たいです」
「悪かったな。これでも夏の大会のために大分絞ったんだよ」
あまりに重たいせいで、ついそんな恨みがましい言葉が出てしまう。
『ずいぶん余裕だな』
不意に人格が入れ替わり、狐が稲津の手を葵のむき出しになっている太ももに這わせた。ゆっくりとした動きだが、それは確実に狐の意思を持って這い登ってくる。
「ちょっと、やめて……」
葵はその手を振り払おうとするが、稲津のもう片方の手一本であっさりと両手を拘束されてしまった。
『これ以上手間を取らせるなよ』
葵は唇をかみ締めて、ギュッと目をつぶった。そうしていないと、悔しくて涙が出てしまいそうだった。自力での脱出は失敗し、頼みの稲津が沈黙してしまったいま、もう葵には為す術がない。
そのとき、倉庫の外でなにかが破裂したような音が鳴り響き、ドアに大きな穴が空いた。葵は固く閉じていた目を恐る恐る開くと、そこには巳神が立っていた。
彼は息を切らしながら倉庫の中に入り、床に折り重なっている葵と稲津を認めると、眉を吊り上げた。
「巳神君……」
本当に助けに来てくれた。葵は胸が一杯になって目に涙が溢れた。
葵が泣いているのを見た巳神は、さらに表情を険しくさせた。握り締めた拳が、怒りのあまりに震えている。
「殴ってくれ! 体が動かせないんだ。俺を殴ってこの子を助けてやってくれ!」
いつの間にか、意識を取り戻していた稲津が巳神にそう叫んだ。
巳神は一瞬面食らった顔をしたが、すぐに状況を理解したらしく頷いた。
「すいません、先輩!」
巳神は固く握り締めた拳を振り上げ、稲津の顔面めがけてそれを振り下ろした。鈍い音がして、稲津の体がぐらりと倒れる。
巳神は素早く葵を助け起こすと、稲津から距離を取って心配そうに葵の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
葵の肩に置かれた手は震えていた。きっと彼も怖かったのだろう。巳神の眼鏡は鼻までずり下がり、真っ黒な瞳が不安そうに揺れていた。
「大丈夫」
葵はゆっくり頷いた。それを見た巳神は安堵したように肩から力を抜いたが、すぐに泣き出しそうに眉を下げる。
「ごめん、俺のせいでこんなことになったんだ。本当にごめん……」
「巳神君のせいじゃない。蛇神さんがやったことだよ」
「でも……」
納得がいかないのか、巳神は葵から目を逸らして首を振る。
そのとき、床に伸びていた稲津が首を鳴らしながら起き上がった。
「ああ、痛ってえ。なかなか良いパンチだった――」
「先輩、大丈夫ですか?」
葵は慎重に稲津と距離をとりながら彼の様子をそっと窺う。
稲津は頬の辺りを摩りながら、意外にしっかりした様子で立ち上がった。痛い痛いと連呼するわりには、彼はケロリとしている。どうやらかなりタフらしい。
「口ン中切ったけど、まあ大丈夫だ。止めてくれてありがとな、巳神」
「いえ。元はと言えば俺のせいですから……」
ふたりはお互いを知っているのか、稲津が巳神の肩をポンポンと叩いた。
「確かに巳神が悪い。でも、おれだって同罪だ。自分の家神さんをきちんと制御できなかったんだからな。だから、くよくよするより、しっかり家神さんを扱えるようになれ! そうじゃないと、またこんなことが起きるぞ」
稲津は少し離れた場所にいる葵に向き直った。
「お前、名前なんだっけ?」
「沢木葵、です」
「怖い思いさせてごめんな沢木。もう二度とうちの狐が勝手な事しないように、俺、お前に近づかないから安心してくれ」
「いいえ。私のほうこそ、助けてくれてありがとうございました。それに、ちょっと怖かったけどもう気にしていません。……あの、先輩の家神さんは、もう平気なんですか?」
「ああ。興ざめだって言って大人しくしてるよ。昔から勝手な奴なんだ」
稲津は不機嫌な顔でため息を吐いた。
「じゃあ、悪いけど俺もう行くわ。練習抜けてたんだった」
彼はそう言うとグラウンドへ戻っていった。
「俺たちも、出ようか。ドアを壊すときに大きな音がしたから、誰かが様子を見に来るかもしれない」
葵と巳神も体育倉庫を出た。よく見ると、鍵のついた辺りに大きな穴が空いたドアは、穴の淵が高温の炎で焼いたように溶けていた。
「これ、すごいね。巳神君がやったの?」
葵がそう尋ねると、巳神はウッと返事に詰まったが、ずり落ちた眼鏡をしきりに触りながら頷いた。
「蛇神さんの力を、ちょっと借りたんだ」
「へえ、なにをどうしたらこんな風に鉄が溶けるんだろう?」
「それは秘密。もう二度とやらないし、やる気もないから」
巳神は早くここから離れたいようで、葵の背をぐいぐいと押す。
辺りはすっかり暗くなっていた。帰り道、巳神は葵を送ると言って並んで歩いた。ふたりの間に会話は無い。巳神はすっかりしょげ返り、下を向いて歩いていた。
「ねえ巳神君、お願いがあるの」
葵が話を切り出すと、巳神は弾かれたように顔を上げた。
「正直に答えて。蛇神さんが付けたこの印、消せる?」
「け、消せる。……と思う」
「なんだか、曖昧だね」
「ごめん」
巳神はまた俯いた。
「昨日から色々と調べてるんだけど、いまいち有力な情報がみつからなくて。肝心の蛇神さんは一度つけた印は消したくないって駄々こねるし……」
駄々をこねる蛇を想像して、葵は微妙な気持ちになった。可愛くないうえに、我侭が過ぎる。さすがは人の都合などお構いなしの蛇神さんだ。
「でも俺、絶対に消す方法探すから。だから……」
巳神はそこで一旦言葉を切ると、葵の方へ体ごと向き直った。彼の真っ白い頬はなぜか真っ赤に染まっている。
「だから、腕の印がちゃんと消えたら……俺と付き合って欲しい!」
葵は驚いて巳神を見あげた。彼は真剣な表情で葵を見つめている。
「俺、稲津先輩に押し倒されてる沢木さん見て、すごく嫌な気持ちになったんだ。もう不安で、悔しくて、誰も沢木さんにこれ以上触って欲しくないって思ったんだ。だから、俺頑張るから、そのときは……」
巳神はそう言ってまた顔を俯かせた。小刻みに彼の肩が震えているのを見て、葵は心配になって巳神の顔を覗きこんだ。
巳神は涙ぐんでいた。
それを見たとたん、葵は巳神のことが急に愛しく感じた。
「いいよ。この印が消えたら、付き合おう」
彼と付き合うことになれば、きっと色々と面倒な事が起きるかもしれない。人間の事情など一切構わない蛇神さんとも顔を合わせる機会が増えるだろうし、巳神の隠れファンたちに呼び出されるかもしれない。
しかし、葵の気持ちは晴れやかだった。目立つことを何より嫌う葵だったが、いまは自分の気持ちに素直に従おうと思った。
巳神は驚愕に目を見開いて顔を上げた。勢いが付き過ぎたせいで、彼の眼鏡は鼻の頭の辺りまでずり落ちている。
葵は可笑しくなって、笑いながら彼の眼鏡を元の位置まで戻してあげた。
「早くお付き合いできるように、頑張ってね巳神君」
「ぜ、全力を尽くすよ!」
街灯の乏しい田舎道を歩くふたりの距離は、ほんの少し縮まっていた。