第九話 白紙の1ページ目
規則正しい機械音が、静かな病室に響き続けている。
それは、午前十時十五分で世界を止めてしまっていた少年の、微かな命の足跡だった。
傍らで少年の冷え切った手を握りしめていた母親が、ふと、息子の指先が動いたような気がして顔を上げた。
「……奏多?」
かすれた声で名前を呼ぶ。
だが、包帯を巻かれた少年は、まだ固く瞼を閉じたままだ。
主治医の『彼自身の生きる意志が戻らない限り、目を覚ますことはない』という言葉が、母親の胸を重く締め付ける。
だがその時、少年の胸の奥で、確かに何かが弾けた。 誰もいない、何も聞こえないはずの深い、深い意識の底。そこには、あの寂れた図書館も、止まったままの時計も、もう存在しなかった。すべてが純白の光の中に溶けて消えた。
けれど、夜野奏多の心の中には、はっきりと5人の温もりが残っていた。
誤解されることを恐れず、拳を突き出してくれた1番。
現実を、優しく包み込んでくれた2番。
周囲の顔色を伺うのをやめた、等身大の言葉をくれた3番。
無理な笑顔を捨てて、本当の笑顔を見せてくれた4番。
期待という重荷を、一緒に背負うと言ってくれた5番。
『名前が重いなら、私たちが一緒に背負うから』
『だから――現実へ戻ろう』
彼らが最後に遺してくれた言葉が、奏多のからっぽだった心に、一音、また一音と、確かな旋律を紡いでいく。
僕は、ひとりじゃない。僕を縛っていたあの「完璧なエース」という呪いは、もう怖くない。
僕のなかには、こんなにも強くて優しい5人の仲間たちがいるんだから。
「……っ」
少年の唇が、小さく震えた。 喉の奥から、空気の漏れるような掠れた音が溢れ出す。
「奏多……!? 奏多なの!?」
母親が勢いよく立ち上がり、息子の顔を覗き込む。
やがて、長い間眠っていた少年の瞼が、光を拒むように何度か瞬きをしたあと、ゆっくりと、本当にゆっくりと開かれた。
そこに映ったのは、図書館の動かない光ではない。窓の外から差し込む、少し眩しい、昼下がりの本物の太陽の光だった。
「かあ、さ……」
奏多は必死に声を絞り出そうとしたが、やはり喉が拒絶するように、言葉にはならなかった。過度の精神的ショックで失われた彼の声は、すぐには戻らない。
両足に走る鈍い痛みも、二度と以前のようには走れないという、冷酷な現実を告げていた。
けれど、彼の瞳には、もうあの絶望の影はなかった。ただ静かに、前を見据える確かな光が宿っている。
奏多は震える右手を伸ばし、ベッドの傍らのサイドテーブルを指差した。
そこには、学校の鞄から母親が移しておいてくれた、一本の深い青色をした高級な万年筆が置かれていた。
「これが欲しいの……?」
母親が涙を拭いながら万年筆を渡すと、奏多はそれを、まるで宝物を手にするように愛おしそうに指でなぞった。
あの図書館で、5番がずっと大切に持っていた、僕の万年筆。
奏多は看護師が置いていった、リハビリの意思疎通用の白紙のノートを引き寄せた。
声は出ない。
走ることもできない。
けれど、この右手が動くなら、この万年筆があるなら、僕はなんだって新しく生み出すことができる。 奏多はカチリと万年筆のキャップを外すと、真っ白なノートの1ページ目に、青いインクで、静かに文字を書き始めた。
最初の一文字は、『ヤ』。
不器用で、誰よりも仲間想いだった、あの少年の名前。
透明だった僕たちの出席番号は、今、ひとつの確かな命になった。
夜野奏多は、5人の仲間がくれた勇気を胸に、現実という名の白紙のステージに、新しい自分だけの物語を綴り始める。
――カーテンの隙間から差し込む光が、ノートの文字を白く照らし出していた。
『透明な僕らの出席番号』、最後まで読んでくれて本当にありがとうございました!
十話にも満たない短い作品となりましたが、少しでも楽しんでもらえたなら嬉しいです。
思いつきで書き始めた作品が、想像以上にたくさんの方に見ていただけて、本当に驚くとともに感謝の気持ちでいっぱいです!
初めての連載作品完結で、短すぎたかなーとか、誤字脱字も沢山ありそうで不安なのですが……。
もし、少しでも「面白いな」とか、誰かの心にちょっとでも刺さるものがあったなら良かったです。
また新しいお話を思いついたら書くつもりなので、そのときはまた読みにきてくれると嬉しいです!




