第一話 午前十時の図書館
大きな窓から差し込む光が、埃を白く照らしている。
ノゾムは机に突っ伏したまま、手元のスマホに目を落とした。
画面に表示された時計の数字は『10:15』。
本来なら、今は2時間目の数学の授業が始まっている時間だ。
しかし、ここにはチャイムの音も、教師の声も、クラスメイト声も聞こえない。
ここは、小さな街にある、古びた図書館だ。
新刊や流行の本は置いておらず、棚には背表紙の褪せた難しい本や、古い文学全集ばかりが並んでいる。
平日の午前中ということもあって、館内には他に人の気配はなく、静寂だけが満ちていた。
教室に居場所がなかったノゾムが逃げるようにして見つけた、誰にも見つからない「避難所」とも言える場所だ。
「……はぁ」
小さくため息をつくと、館内に足音が響いた。
ノゾムが顔を上げると、そこには見慣れない制服を着た少年が立っていた。
仕立ての良い紺色のブレザーをきっちりと着こなし、賢そうな眼鏡をかけている。いかにも「優等生」といった風貌の少年は、ひどく疲れた顔で笑った。
「……あれ。先客がいたんだ」
「あ……うん」
「君も、授業をサボりに?」
「まぁ、教室は居心地が悪いから。…君は?」
「僕も。あの狭い教室の中にいるのが限界になっちゃってさ」
少年はノゾムの向かい側の席に、静かに腰を下ろした。
お互いに、それ以上は深く詮索しなかった。
授業中のこの時間に、わざわざこんな寂れた図書館にいる時点で、胸の奥に抱えている閉塞感は同じだと分かったからだ。
「僕はタクミ」
「俺はノゾム。よろしく」
「よろしく」
下の名前だけの、静かな自己紹介。
すると、タクミは自分の手のひらをじっと見つめながら呟いた。
「……僕、自分の名前、あんまり好きじゃないんだよね」
「え?」
「親の期待がさ、全部詰まってる感じがして重いんだ」
ノゾムは少し考えたあと、ある提案をした。
「じゃあニックネームとかで呼ぶ?」
「番号とか」
「番号?」
「うん。あだ名とかは好きじゃないから」
「いいね、じゃあ僕は…『5』にしようかな」
「何で?」
「なんとなく頭の中に浮かんだから」
タクミ――いや、5番は、少しいたずらっぽく笑い、ノゾムを見た。
「ノゾムは何番にする?」
「うーん…」
1でも3でもなく、ノゾムの頭には、吸い寄せられるようにある一つの数字が浮かんでいた。
「じゃあ、僕は『2』にするよ」
「いいね、改めてよろしく。2番」
午前十時の静かな図書館。
名前を捨てた僕たちは、ここだけの特別な絆を結び始めた。
「ねえ、5番。その机の上にあるのって何?」
ノゾムが気になっていたのは、5番が最初から大切そうに抱えていた、一本の高級そうな万年筆だった。
深い青色をしたその万年筆は、この図書館の古い机には不釣り合いなほど美しかった。
「これ? ……僕のじゃないんだよね」
「気づいたら僕の筆箱に入ってたんだ。誰の物か分からないけど、これを持っていると、不思議と心が落ち着くんだよね」
古い本の匂いが漂う館内。
時計の針は静かに進んでいるはずなのに、この図書館の中だけは、時間が永遠に止まっているかのような錯覚を覚えた。
ノゾムは思った。
いつかこの時間が終わって、いつもの教室に戻らなければいけないとしても――今だけは、この『5番』という少年と一緒に、何者でもない時間を過ごしていたいと。




