変革を告げる
土曜日、瑞架は久々にクッキーを作ることにした。
何故だか昨日から気分がすっきりしていて、やる気に満ちあふれていた。
溶かしたバターと砂糖を入れたボウルのふちをしっかり掴み、卵を思い切りボウルの縁にぶつけた。
思いのほか卵は容易く割れ、ボウルではなくシンクに中身をベシャアッとぶちまけた。
瑞架はそれをぽかんと見つめた。
力を入れすぎたのだろうか。
疑問に思いつつ、ボウルに入ってしまった殻の破片を丁寧に取り、無残にぶちまけられた卵を片付ける。
二度目の正直。
今度は力に気をつけて卵を割り入れた。
今度はうまくいった。殻の欠片も入っていない。
ぷっくりした丸い黄身が綺麗に光を反射していた。
泡立て器の頭の先でそれを押しつぶすと、パチッと薄い膜がはじけて黄身が漏れ出した。
泡立て器をカシャカシャと動かしながら、ふと思う。
「クッキーって、牛乳……いるっけ」
数秒考えたのち、大丈夫だと自分に言い聞かせ、牛乳を目分量で入れてみた。
それから小麦粉を目分量で入れて、バニラエッセンスもあったのでそれも数的入れてみた。
本当はきちんと測らないといけないし、いつもきちんと測るのだけど、もういいかと思った。
ヘラで混ぜ合わせ、瑞架は眉をひそめた。
生地にはダマになったままの小麦粉があり、クッキーの生地と言うには、少々柔らかすぎる気がする。
とりあえずダマを潰すためにヘラで何度も生地をこねた。
こねてこねてこねくり回した。この際だからと、ココアの粉末も入れてみた。
ヘラでかき混ぜ続けたものの、やはりまだ生地が柔らかすぎるような気がした。
「角立ってない……あ、それは生クリームだっけ……」
やはり料理本を用意すべきだったか。
調理実習ではこんなふうに手間取ることなくクッキーを焼けたのに。
つい最近行った調理実習ははるか前のことのように感じる。おかしいな。
ぐるぐると回し続けたヘラを止める。
「焼きます」
決意の心をこめて呟いた。
オーブントースターのバットに料理用のシートを敷いた。
本当ならオーブントースターではなくてちゃんとしたオーブンの方がいいのだろうが、そんな便利なものはない。
スプーンですくった生地を一定の間隔でぽとぽと落としていく。
なんかテレビでこんなふうにクッキーを作っていた気がする。
そうして全て等間隔に並べると、並べた頃には全て一定の、平面の生地が出来あがっていた。
生地が柔らかすぎて全てくっついてしまった。なんだこれは。なんだこれは!
「や、焼きます」
もういい。焼いてしまえばいい。
オーブントースターに入れて適当につまみを回し、瑞架はテーブルに着いて一息ついた。
壁にかかった時計を見る。まだ午前だ。
昼頃になったら雅樹は帰ってくる。
雅樹の部活がなんであるか瑞架はいまだに知らない。
朝練があって、土曜日もやるのだからおそらくは運動部なのだろうが、どうにも不満が残る。
可愛い弟|(従弟というよりもこちらの方がしっくりくる)が何をしているか知らない。
それも不満ではあるが、何よりも一緒に過ごす時間が少なくなってしまうのが嫌なのだ。
雅樹は中学にあがってから部活を始め、疲れて帰ってくる。
もともと無口だったのがさらに無口になって、気がねなく話せるはずの夕食時にしゃべっているのはほとんど瑞架だ。
自分が雅樹の話を遮っているのか、と思えばそうでもない。
追い打ちをかけたのは、瑞架のメディア部入部だった。と思う。
もともと部活に入るつもりはなかった。理由はない。
ただ、なんとなく、なるべく家にいようと思った。
けれど強引に入部させられた。
メディア部には、横暴な部長さん、高校でできたちょっとお調子者の友人、それからちょっと不思議な幽霊部員の先輩二人がいた。
義理は何もない。辞めることならいつだってできた。
それでも居続けたということは、結局自分は楽しんでいた、ということだ。
「話したくないの……?」
無口になって、日に日につっけんどんな態度になっている雅樹は、学校でどんなふうに過ごしているのだろうか。
そもそも、雅樹が家に友達を連れてきたことがなければ、遊んでいるところを見たことがない。
いつも瑞架と一緒にいて、瑞架もそれが嬉しかった。
だけど今ではどうだろう。
瑞架は学校で高校生活を楽しんでいるのに、雅樹は学校のことを一切話そうとしない。
無視されることはないけれども、笑ってごまかされることが何度かある。
一人になっていくように感じた。
だって、何かを忘れている気がする。
喪失感が胸の中にある。こんなのは身勝手だ。
鼻がツンとなり、涙の気配がした。
「わー! だめ! もうだめ!」
気持ちを切り替えるためにわめいてみるも、声が震えていた。
やりきれなくて歯噛みする。嫌になる。自分に酔っているのかもしれない。
テレビをつけたまま席を立つと、少しよろめきながら洗面所へと行った。
冷水でばしゃばしゃと顔を洗い、思い切り両頬を両手で叩いた。痛々しい音が響いた。
「痛い……」
力を込めすぎたかもしれない。
けど、涙は引っ込んだ気がする。目も冷やせた。
顔を覆った。深呼吸をする。
もう大丈夫。大丈夫。
悲しいことも、痛いことももうない。なくなるから。大丈夫。
くん、と良い匂いが鼻孔に届いた。クッキーが焼けたのかもしれない。
オーブントースターの中を覗くと、絶句した。
バットに入っていた生地はふくれ、表面は綺麗な小金色だった。
ひび割れたり、ふくらみすぎて端からこぼれていたりもしたが、これはこれで成功なのではないだろうか。
慎重に熱いバットを取り出し、竹串で刺してみた。
竹串はすっと入り、引きぬいても生地が貼りつくことはなかった。
試しに端っこの部分をスプーンでくりぬいて食べてみた。
「ふ」
口を押さえる。これは奇跡だ。
生クリームも用意しといた方がいいかもしれない。
贅沢をして普段飲まない紅茶とかも淹れたらどうだろう。
バットの上にホコリよけの傘を置き、瑞架は急いで出かける準備をした。
雅樹といっぱい話すために作ったのだ。
もっと完璧にしょう。もっといっぱいお話ができるようにしよう。
死んでも忘れないような、素敵なお茶会にしよう。
薄い長袖に薄黄色のズボンといった部屋着に、ぶかぶかしたフリースの上着を羽織った。
財布入りのポシェットを肩から斜めに掛け、運動靴を履いて玄関を開け、深呼吸をした。
空は澄みきり、もこもこした真っ白な雲が良いコントラストを生んでいる。
良い秋晴れだ。髪を揺らす風はほんの少し冷たい。
先日の、ショッピングセンターでのことを思い出す。
わけのわからない不気味な人形に人が刺されて、襲われて、彼に手を引っ張ってもらった。
田中秀樹、君。どこか懐かしい感じのする人。
そのことを思い出すと、自然と頬が熱くなる。
雅樹以外の男の子の手に触ったのはいつぶりだろう。
雅樹相手だと抱きしめてやったりとか、手を引っ張ることは自然にする。
だけどそれ以外の男の子とはもちろんない。
つまり免疫がない。今更鼓動が早くなるのはきっとそのせいなのである。
彼が教えてくれたこと。
瑞架の中にはリクという、もう一つの人格がいるということ。
記憶がないとき、そのリクが瑞架の体を動かしているということ。
リクは瑞架が起きているとき、どうしているのだろう。
瑞架と同じ風景を見ているのだろうか。
そうだとしたらちょっと恥ずかしい。
だってトイレやお風呂まで見られているということになる。
リクとコミュニケーションをとる方法はないだろうか。怖いけども。
ああ、この「怖い」もリクに伝わるのだろうか。
むしろ、夢なんかも共有することになるとしたら……。
なんだか頭が痛くなってきた。
そういえば寝起きもなんだか頭が痛かった。
疲れているのだろうか。
ふいにひらりと舞う何かが目に入った。
「あ」
それがなんであるか理解して、咄嗟に掴んだ。
灰色チェックのハンカチだった。
そんなに汚れていない。
風に乗ってきたということは今しがた誰かの手から離れたのだろう。
「――失礼、マドモアゼル」
時が止まったとはこのことか。
ハンカチを持った瑞架の手をすくいあげ包みこんだそれは、白い手袋をした大きな手だった。
それからその誰かは瑞架の前にひざまずいた。足が見える。
灰色のスーツに、磨かれた革靴があった。
「拾ってくださって有難うございます。お手を汚してしまい、申し訳ありません」
ゆっくりと顔を動かして、その手の持ち主を仰いだ。
心配そうに眉をハの字に下げ、男性はじっと上目遣いで瑞架を見つめていた。
陶磁器でできているのではないかと思うほど、触れるのをためらってしまいそうな白い肌。
それに映える、深く澄んだ青い瞳。揺れるのは薄い金色の髪で、横にまっすぐ切り揃えられている。
女性のような線の細さ。
真っすぐ肩まで伸びた金髪。
身体の一部のように着こなした灰色のスーツ。首元に映える赤いリボンタイ。
……前にも同じことがあったような。気のせいか。こんなこと、そう何度もあるはずがない。
何故だか、男はほっと安心したように笑みをこぼした。
はっとする。
しまった。あんまり綺麗だからつい見とれてしまった。
「す、すみません! じろじろ見ちゃって。えと、これ返しますね。立ってください、汚れちゃいます」
慌ててそう言うと、男性は瑞架の手を持ったまま立ち上がる。
一気に相手の方が高くなって、瑞架は相手の影に入ることとなった。
こんなに綺麗な人、めったにいない。
しかも西洋の顔立ちだ。
大げさな動きや気遣いの言葉、それら全てが絵になる。
絵本の中の王子様みたいだ。
というか、今マドモアゼルって聞こえたような。
男性はいまだに瑞架の手を持ったまま、視線をそこに落としていた。
「…………」
「あの……?」
男性は何も言わず、ただただ視線を瑞架の手に固定していた。
その流れるような眉は、ひそめられていた。
「手が、とても冷たいですね。お体を冷やしてはいけませんよ」
「え、はあ……ありがとうございます」
手袋をしているのにそんなこと分かるのか。
そう思ったが改めて自分の手を調べてみた。
確かに冷たい。冷えている。血色が悪くて全体的に白かった。
「ところで、どこかへ行かれる様子でしたが……」
「ああ、買い物に」
瑞架がそう答えると、何故か男は不可解そうな顔をした。
「失礼ですが、マドモアゼルは普段お買い物に行かれるのですか?」
「え、そんなの……」
言葉が止まる。
あのショッピングセンター以外で、最近買い物をしたという記憶がない。
夕方にリクが『表』になっていたから記憶がないのだろうか。
買い出しは全部雅樹がやっているように思う。
「もし、買い出し担当の方がいらっしゃるのであれば、あなたの場合今はその方に頼んだ方がいいのでは?」
「え」
「顔色が良いようには見えませんよ」
頬に手が触れ、男性が心配そうに瑞架の顔を近くで覗きこんだ。
ぽかんと口を開けているだけだった瑞架だったが、相手の親指がスリ、と瑞架の肌をなでた途端、顔に血が集まった。
「あ、ああの、大丈夫ですから、あの、すみません、すみません、その、えっと」
そっと手が離れ、瑞架は後ずさって慌てて頭を下げた。
「ああ……申し訳ありません。あまりに白く透き通っているように見えたので」
それはどちらかと言えばあなたの方がそうでしょう、と瑞架は言いたかった。
けれど恥ずかしさのあまりに顔を上げることは困難だった。
クスッと笑う気配がした。
「家で養生なさってください」
相手が遠ざかる気配で顔をそろそろと上げた。
先にある角を曲がり、背中は見えなくなった。
まるで短い嵐がやってきたようだった。
まだ触られた感触が残る頬に触ってみた。
ぴり、と小さく静電気が起きて「びゃっ」と声をあげた。
さらにぴゅっと冷たい風が吹いたので、瑞架は体をこすりながら家の中に入った。
あの人の言う通り、瑞架の体はどこかおかしいように思えた。
だるくて重い。物を掴むときの手の力加減もおかしかった。
きっと連日メディア部のサイト制作にばかり時間をかけていたからだ。
疲れがたまっているのかもしれない。
生クリームは仕方ないが、でもインスタントのコーヒーはあった。
雅樹が帰ってきたらお湯を注ごう。
そう思って食卓で待っていると、といつの間にか寝てしまっていた。
揺り起こされ、目を開ければ雅樹がいた。
「瑞架」
雅樹は額から汗を流し、顔は青ざめていた。
どうしてだろう、と考える。だけどもそれより早く雅樹と一緒にお茶会をしたかった。
「びっくりした。死んじゃったのかと思った」
ぎゅっと抱きしめられ、おかえりと言えなかった。
だけども雅樹の体はとても暖かくて、瑞架は安心できた。
「雅樹、あのね」
お茶会のことを言うと雅樹は何度も頷き、もう一度瑞架をぎゅっと抱きしめた。
瑞架が顔を洗ってくると、お茶会は始まった。
「美味しいかな? クッキー」
「ああ、うん。美味しいよ。うん」
雅樹は複雑そうにクッキー(にしたかったもの)をフォークで分けて口に運ぶ。
瑞架、と呼ばれる。
ん? と返すと雅樹は困ったような顔を見せる。
「にやにやしっぱなし」
「そうかな」
片手を頬にやると、確かに。頬骨の当たりがむくりとしている。
でもどうしようもない。
久々に雅樹と食事をしている。そんな感じがするのだ。
たぶん、夕方はリクが瑞架の『表』になっていたからだろう。
そうじゃなくたって、雅樹は瑞架との食事はもちろん顔を合わせて長く会話をするということを避けていたように思う。
けど、今こうしてゆっくりと昼食をとっている。
ああ、なんて喜ばしいことだろう。
雅樹はうつむいた。
「あの、ごめん。最近態度悪かった。ちょっと、疲れてて。ごめん」
「あ、ううん、そんな。大丈夫大丈夫、雅樹だって色々あるだろうし。機嫌が悪いときもあるよ」
「でも」
「いいの。わたしはただ雅樹とこうして一緒にいられればいいんだから」
言ったあと、マグカップのコーヒーをあおって顔が歪むのをごまかした。
涙よ出るな。
クッキー(クッキー)を一切れフォークで刺してぱくりと食べた。
「ね、雅樹。もし悩んでることがあったらわたしに言ってね。無理強いはしないけど、話してすっきりすることもあると思うし」
「話す?」
雅樹がマグカップを持ったままぴたりと止まって、瑞架はどきりとした。
気に障った、だろうか。
「話すこと……そうだね。そうするよ。だけど、瑞架もだよ」
「わたし?」
「うん」
ぬくもりを味わうように、雅樹はマグカップを両手で持ち、見つめた。
「瑞架も、また何かあったら話して。アドバイスはもうできないけど、聞くだけなら僕にだってできるから」
「別に悩みは」
確かにショッピングセンターでのことや下校途中で頭を殴られたこと、リクというもう一つの人格のことがあるが、あるが……というか、なんでわたしはこんなに冷静なんだろう。
深く考えなくとも分かるはずだ。ただ事ではない。
普通、警察を呼んだりして……普通……普通は、慌てるよね。不安に、なる、よね?
「わたしって普通じゃないのかなぁ」
ため息混じりに言葉がこぼれた。途端息を吸う音が聞こえた。
雅樹の顔が真っ青になって、その目は見開いていた。
「雅樹? え、何。どうしたの?」
雅樹は口を真一文字に結び、瑞架を見つめた。
やっと口を開いたかと思えば「そんなことないよ」と小さな声が聞こえた。
「瑞架は、その……えっと……ふ……じゃなくて……こ、個性的なだけで」
雅樹が必死に言葉を選んでいると分かる。
目を伏せ、泳がせ、それからおそるおそる瑞架を見る。
やっぱり雅樹は上目づかいも可愛いなあ。
でも、その反応はどうなのかなぁ。
「瑞架……あの、大丈夫?」
たずねてきた雅樹に「なんで?」と返す。案の定雅樹は口ごもった。
心当たりがないわけでもない。
瑞架の記憶がないとき、リクという人格が瑞架の体を動かしていたということを、瑞架はもう知っている。
瑞架が記憶をなくすのはだいたい夕方だった。
リクが『表』になった瑞架らしからぬ瑞架と雅樹は何度も接したのだ。
一緒に住んでいるのに気づかぬわけがない。
ああ、つまりは雅樹に何度も心配させたということなのだ。
「雅樹、わたしは大丈夫だよ」
なるべく優しく、そう見えるように微笑んだ。
せっかく雅樹と一緒にいるのに、余計なことを考えさせてはいけない。
雅樹 は
わた
し が
「瑞架?」
急に黙り込んでしまった瑞架に、雅樹が心配そうに声をかけた。
ああごめんなさい。また心配させた。
でも、でもね、ちょっと待って。今、今何か……あったの。何か。
頭のどこか、ずっと遠くに、雅樹と、わたしと、誰かがいた。
誰か。守ってくれた。誰か……お母さん。
ああ。
「雅樹」
ふるえ始めた手をもう片方の手でしっかりと握った。
「お母さん、どうしていなくなったんだっけ」
まただ。また思い出せない。
肝心な部分が白いモヤであやふやに、曖昧に、何もなかったように。
けど、何かの色が白の中で見え隠れしている。
それと同じ色が愛しい弟の目にちらついている。
動揺に揺らめいて、今にも泣きそうだ。
言いたそうな顔をしている。
謝りたそうな顔をしている。
口をパクパクさせて、聞こえない言葉を必死に紡いでいる。
眉尻が下がって、どうしたらいい、といった顔をしている。
まだだ。まだ思い出せない。
以前の瑞架なら、ここで考えるのを止めていた。
考えるべきことではないから。
『普通』でなければならなかったから。
でも、今は違う。
心に引っかかるものがある。
いいや、引っかかっているのではない。
亀裂だ。
何か、何か訴えたい気持ちがある。
最近何かがあって、大きな亀裂が入った。
最近の大きな出来事。ショッピングセンターでの事件。
リクという存在を知ったこと。
違うよ。その前だ。
学校で、揺らいだの。心が揺らいで、内側から殻を叩いたの。
だから先に薄い皮が破れてしまって、あふれ始めたの。
それでますます殻が圧迫されて、めちゃめちゃに亀裂ができていって、何度もどこかから噴き出して、塞がれて。
でももう、細かいヒビが殻の隅々まで行き届いた。
あとは、指でなでれば、かんたんに、やぶれる。
きゅうっとしたの。
泣きそうになっちゃった。
だって、また会えるとは思っていなくて。
おぼえているよ。おもいだしたよ。あなたの、あのときの顔を。
だからわたしは逃げだしたんだ。かくれようとおもったんだ。
なかったことにしたくて、けどあの言葉はわすれたくなくて、もうどうしていいのか分からなくなって。
だから……『普通』じゃないから、わたしは『悪い子』になったの。
「ふ」
口から笑みがこぼれた。どうしてかおかしく思えた。
ひどい気分なのにすがすがしい。ずっとうずくまって息を止めていたのだろう。
今はもう目をしっかりと開けて、息をし始めている。
冷たくてかさかさした空気が、ずうっと部屋に満ちている。
雅樹と瑞架以外、誰もいない部屋。
そう、今は誰もいない。
音と言えば雅樹と瑞架が出す物音くらい。
そっとテーブルの表面をなでた。
つるつるした木目がかすかにでこぼことしたものを感じさせる。
テーブルクロスはいつから敷かなくなったのだっけ。
そうか。血で汚れてしまって、シミになったから捨てたのだっけ。
「あはは。わたし変だね。お母さんは『海外に出張』してたんだよね。わたし、おかしいね。忘れてたよ」
無邪気に笑ってみると、雅樹の様子がちょっとはましになった。
まだ緊張はしているけれども、その表情には安心が見て取れた。
雅樹は口角をぴくぴくさせて、なんとか笑おうとしていた。
瑞架の作ったできそこないのクッキーを一口食べて、呑みこんだ。
この子にはすごく負担をかけてしまった。
ならばなるべくぎりぎりまで穏やかな時間を過ごしたい。安心な時間を共有して。
ぎりぎりというのが一体何を示すのか、わたし自身もきちんと分かっていないのだけれども。
でも、たぶんそう遠くないうち、ぎりぎりの向こうはやってくる。
「失敗したと思ったけど、結構うまくできたと思うんだ。ね、そう思わない?」
スポンジになったクッキーをフォークにさして、瑞架はおかしそうに笑った。